禍根
皇王家の慣例に則って、シェランティエーラ=リディオス・レイア・グリンディエタ・リュオンと名付けられた皇女は、あっという間に周囲を虜にした。
最初はしわくちゃの猿のようだった顔も、数日で人間らしいものとなり、見舞った人からは「なんて可愛らしい姫君なのでしょう」という言葉しか聞けなかった。良くも悪くも、だ。
皇太子の嫡出長子――つまりは正統な世継ぎ誕生の知らせに国中が沸いた。
皇女誕生から三日間は臨時の休日となり、幾つか恩赦も出た。皇都では大人には祝い酒が、子供には庶民が滅多に口のすることのできない砂糖菓子が振舞われ、国民は昨年の皇太子成婚に続く慶事に有頂天だった。
「しかし、どうしたのかねぇ」
皇都に住まう一人の老婆は首を傾げた。傍で砂糖菓子を弟とほおばっていた彼女の孫娘は、そんな祖母に訊き返した。
「何が? おばあちゃん」
老婆はしきりと首を傾げながら孫娘にこう語った。
「あたしは皇太子殿下がお生まれになったとき、あんた達の母さんを産んでいた。今上さまがお生まれになったときは、六つだった。あたしが覚えている限りじゃあ、祝いの酒や菓子が振舞われることは今までもたくさんあったが、酒が上質の葡萄酒や林檎酒や苺酒で、菓子が高価な砂糖菓子なんて、なかったことだよ」
酒はせいぜい熟成した麦酒、菓子は焼き菓子が定番だったと語る老婆に、彼女の孫娘はふうんと呟いて、口の中で溶けてゆく甘さを堪能することに集中した。
漆黒の髪は皇王家直系を示すもの、生まれた皇女がそれを持っていたところで何ら不思議なものではない。
しかし、瞳まで漆黒となると、話は別だ。
ありえない早さで目を開いた皇女は、すぐにまた目を閉じて、先程まで泣いていたのが嘘のようにすやすやと寝入った。だがその短い間に、その瞳の色を確認した者は少なくなかった。産室の前に陣取っていた人が少なくなかったからだ。
「何と……何ということ」
ヴィランド公爵は小さく聖句を呟いた。
「聖女降誕とは……これは歴史に残る珍事ですね」
竜の背骨山脈の山頂に積もる万年雪より冷たい氷の理性の持ち主――と噂される宰相でさえ動揺したようだ。珍事とはあまりな形容である。
ヴィーフィルド人で、闇女神の代行者――聖女覚醒の時に謳われる『光臨の予言』を知らぬ者はいない。
「『女神は大いなる祝福を以って 暁の前に聖女を贈る 其は蒼き闇より生まれし無限 幾何に散じて生命を呼ぶ』――今しがた、夜明けです。皇女殿下のご生誕は夜明け前……『暁の前』ですな」
窓から差し込む朱金の光を示して、ヴィルフォール公爵が言った。
皇族達が一様に驚愕を隠せないでいるのに対し、皇王は立ち直りが早かった。
「今どうこう騒いでも仕方があるまい。それより名前を付けてやらねば」
「陛下、ですが……」
「本人が言葉も話さぬ内から予言云々を取り沙汰してどうする」
抗議しようとしたヴィルフォール公爵を黙らせて、皇王は名前名前と騒いでいた。浮かれている。
最初こそ深刻な顔を並べていた皇族達も、皇王に感化されたらしい。次々に候補を挙げ始めた。
「セイリリル、はどうでしょう」
「エヴァンジェリンも捨て難い」
「祖父君となられた陛下からリディオス、と」
「皇妃陛下からユリアもありますぞ」
余談だが、王侯貴族の名前の構成は複雑だ。ヴィーフィルド直系皇族の場合、「名前=生誕時存命の尊属にちなんだ名前・皇族であることを示すレイ(女性であればレイア)・同性の歴代皇王誰か一人の名前・短めの異性名」という構成となる。ファナルシーズであれば、「ファナルシーズ=アリオス(当時存命だった祖父である先代皇王アライオースから)・レイ・カストルード(過去の皇王の名)・エディス(女性名)」となる。
「アルセリア陛下か、フランチェスカ陛下……グリンディエタ陛下も、御名を戴くには良いかと」
皆が皆、好き勝手に好きな箇所の名前候補を挙げだすから、何が何だかわからなくなってくる。
傍で騒ぎを見守っていた、オルティーヌが声を上げた。
「シェランティエーラはいかがでしょう」
皇族達が騒ぐのを一斉に騒ぐのをやめ、オルティーヌを見た。朱金の髪を揺らして、オルティーヌはあでやかに微笑んだ。
「シェランティエーラ=リディオス・レイア・グリンディエタ、となされば、意味も音も通りますわ。いかがでして?」
シェランティエーラ――神聖エルミア古語で、「蒼き刻の女王」の意である。リディオスの元となるリダーロイスが元々「明星の祝福を受ける」の意味だから、続けて「蒼き刻の女王たる星の祝福を受けし暁を呼ぶ娘」だ。更に余談だが、ヴィーフィルド公用語である今日のエリミオン語は、神聖エルミア古語から派生した言語である。
出産直後で疲れ切って眠っているイリアーナはもちろん、父親であるファナルシーズも放っておかれたまま、話はどんどん進んでいく。
男性名である「リュオン」(これには特に意味はない)を付け加えて、生まれたばかりの皇女の名は決定したのである。
出産から一月ほど経ったある日、イリアーナはそのことを、夫に打ち明けた。
ファナルシーズは妻の口から語られた内容に、どう言えばいいのかわからなかった。
「イリア……その、それは」
「誤解しないで、ファース。わたくしは決して、シェランを産んだことを後悔してはいない。むしろあの子を……貴方の子供を産めたことは、とても嬉しかった。でもこれは、一応、伝えておかなければと思って」
ファナルシーズはおずおずと妻を抱き寄せた。抵抗なく腕の中に収まった妻が、しっかりと抱き返してくるのを感じて、緩やかに腕に力を込めていく。
「これで良かったのよ、ファース。わたくしはそう思います」
一層腕に力を込めたファナルシーズを宥めるように、イリアーナは夫の背中をさすった。
「君が私のために失ったもののことを、私が忘れられるはずがない」
今また、増えてしまった――そう呟いた夫に、イリアーナはつきりと心が痛むのを感じた。けれど告げないでいるわけにはいかなかった。隠していてもいずれわかることだったから。
娘を産み落とす直前――イリアーナは、女神と取引をした。イリアーナの器と力では、「闇女神の代行者」たる娘を産むのに少しだけ「足りなかった」から。「足りない」分を一時的に他のもので埋め合わせることで、母子共に無事に出産を終えることができたのだ。
埋め合わせに使ったのは、イリアーナが七歳のときに覚醒した異能――『魂寄せ』と、さらに巫覡の才だった。もっとわかりやすく言うなら、イリアーナは娘と引き換えに異能を一つと巫覡の才を失ったのだ。それほど、闇女神の代行者を生み出すのは、母体に負担がかかることだった。
だがイリアーナは悲観していなかった。
巫女としての人生は、もう、ない。すでに彼女は人生を選んでいた。選んだ人生の中で愛する人の子供を産むために、生きていく上でさして重要ではない力を幾つか失ったことを、どうして嘆こうか。
「運命という言葉があるでしょう、ファース」
ファナルシーズは何も返さなかったが、この距離なら聞こえないはずがない。イリアーナは構わず続けた。
「もう、要らない力だったのよ。だから最後にシェランを産むために使われたの。まだ『千里眼』が残っているのは、いつか役に立つときが来るからだわ。だからそんなに気にしないで」
ファナルシーズはやはり何も言わず、ただ妻を抱き締めていた。イリアーナは苦笑して、夫の広い背中越しに、春の花が咲いているのを見つけた。
「ファース、見て。スミレよ。もう春ね……」
特別な季節だ、とイリアーナが言った理由をすぐにはファナルシーズは理解できなかった。
「なぜ?」
「あの雨を止ませるために来た皇都で、貴方と三度目に会ったでしょう? あのときから、わたくしの人生は変わっていったの」
あの春から三度目の春だ、とイリアーナは微笑んだ。
最初に出会ったときにファナルシーズが目を奪われたのと寸分変わらぬ、無邪気な笑みだった。
皇女が生まれてからの皇王の扱いは、一層難しくなったと側近達は思っていた。
今日も今日とて執務をさぼって孫娘相手に「いないいないばあ」を繰り返していた皇王を捕獲した宰相と、皇王の従弟ヴィライオルド公爵は、意味不明な皇王の言い訳を聞かされていた。
延々と続いた言い訳の、締め括りがこうである。
「俺があやしてやらねば昼寝をせんのだ」
真面目な顔で胸を張って言う皇王に、ヴィライオルド公爵はそんなわけあるか、と頭をはたいた。
「馬鹿言ってないでさっさとあの書類の山を片付けて下さい、陛下。全て皇王の決裁待ちです。言い換えれば貴方の御名御璽があればすぐにこの部屋から持ち出せる書類ですよ」
鋭い眼光で見下ろしてくる従弟に監視され、皇王は執務室に深夜まで詰めることを余儀なくされたが、自業自得であった。
かくして皇王執務室は書類で足の踏み場もないといった状況から数日で脱出できたかどうかは、関係者のみが知ることである。
数ヶ月はこのように至って平穏に過ぎていったのだが、更に年が明けてヴィーフィルド皇紀3999年、大陸共通ユリミア暦2853年早々にもたらされた情報は、喜ばしいとは程遠いものだった。
東の隣国デルフィニアが、国境であるルトニ河近辺に軍を配置し始めているという。
「我が国と戦をするつもりなのでしょうか」
「わからない」
椅子に掴まりながら立とうとしていた娘を抱き上げて、ファナルシーズは椅子に座った。
「あー。う、うー?」
不満そうに頬を膨らませる娘の頭を撫でながら、ファナルシーズは妻に告げた。
「だが数年内に出征となるだろう。国境での小競り合いで終わるだろうが、もしものときの覚悟だけはしておいてくれ」
イリアーナは硬い表情で頷いた。
「あー。あー!」
「何だ、シェラン。今、お前のお母様と大事な話をしているのだから、少しじっとしていなさい」
一歳に満たない幼児に真剣に説教する姿は、既に後宮中で話の種だ。
「デルフィニアは何かにつけてことを大きくしようとしている。先日もルトニの航行権について揉めたばかりだ。ヴィランド公が抑えてはいるが、東側の領主達のデルフィニアへの不満はかなり大きくなっている」
「戦になると、大きくなるのでしょうか」
「それはあちら側次第だな。何を欲しがっているのか今ひとつ読めないから、ヴィランド公も交渉が難しいと言っている」
外交に限らず交渉というものは、ただ難癖をつけられるばかりでは、どうしようもないのである。
自分の膝の上で立ち上がろうとする娘を宥めながら、ファナルシーズはふと笑った。
「歩けるようになったら、フィオや、ジェスやウォルセイドの子供達とも引き合わせよう。もう大きくなっているのだろうな」
「兄から、ライゼルト……甥を、今度皇都に連れてくると」
「もう皇都まで連れてこられるほど大きいのか」
その後の会話は、知人達の近況に移り――イリアーナは、こんな日々が少しでも長く、途切れることなく続くことを、祈らずにはいられなかった。
結果として、イリアーナの祈りは神に届かなかったといえる。
皇女シェランティエーラが三歳になった直後、小さな諍いを繰り返していたとはいえ、表向きは平穏を保っていたヴィーフィルド・デルフィニア両国間の均衡がついに崩される。
毛織物の関税と輸出量に関する権利の有無を巡って国境付近に領地を持つ貴族同士が争っていたのだが、デルフィニア側の領主が王宮に直訴し、デルフィニア国王の勅書をもってその権利を主張した。
これに対抗してヴィーフィルド側の領主も皇王へ裁可を奏上、幾つかの交渉を経て、デルフィニア側からトスタル島の移譲を要求されるに至って最後通牒を突きつけたが、デルフィニアはこれを全く黙殺、代わりに宣戦布告が、文書によって通告される。
ヴィーフィルド皇紀4001年四の月――トスタル戦役の勃発である。
宣戦布告と同時にトスタル島が奇襲を受け、トスタル島を領地とするファヴァイナ侯爵当人が近衛騎士団第二軍軍団長の任にあり、対応が遅れたことでルトニ河中流の国境防衛の要たるトスタル島は陥落。ヴィーフィルドの国境防衛戦線は大きく後退を余儀なくされる――。
皇太子の出陣をも仰ぐこととなったヴィーフィルド側は、当初デルフィニアの戦力を正確に把握できず、甚大な被害を強いられた。
「ヴィランド公が傷を負われたとか」
「デルフィニア王弟がトスタルに居座っている様子。後詰が来れば確実に国内戦となります。フェスカで食い止めねば、街道沿いに攻め込まれ、一直線にロスタロイドですぞ!」
「戦力の出し惜しみをしている場合ではございませぬ。リテラ駐留のジェラルド騎士団に出陣要請をするべきかと」
「いや、リテラは遠い。それより街道沿いの領主達にもっと兵力を出すよう命じるべきです」
「常設を義務付けられた常備軍以外は皆農民か町人ですぞ。急に搔き集めたとて捨て駒にしかならぬ!」
軍議は混乱を極め、東部領主達を取り纏めてきたヴィランド公爵が重傷を負い戦線離脱したことが更にこれに拍車をかけた。
ヴィランド公爵家の後継者ハルトウィン卿ギルトラントはこれが初陣だったが、十三歳の少年にこれほど大きな戦の陣頭指揮など執れるはずもなく、皇太子たるヴィクトリアス公爵ファナルシーズ、ヴィライオルド公爵家の後継ライシュタット卿ジェレストールが皇王の勅命を受け、近衛騎士団と共に出陣した。
デルフィニア軍内に魔力保持者がいると判明したのは、ロスタロイドの一つ手前の都市フェスカ陥落の直後である。戦場跡からの魔力残滓検出が斥候によって報告され、皇太子は即座に皇国南東のリテラに駐留するジェラルド騎士団に出陣を命じた。
いくら転移神術といえども三千五百人の騎士団員を即座に移送させることは叶わない。ヴィーフィルド側の陣が整う頃には、ロスタロイドさえ陥落するかと思われた。
魔力保持者の存在に対抗するため、西が本拠地のヴィルフォール公爵家の後継ウェスタール卿ルイスリードにも招集をかけ、彼の到着を待ってロスタロイド陥落直前でヴィーフィルド側は一気に攻勢に転じた。
ヴィーフィルド皇紀4002年五の月、デルフィニア勢を押し返し、同月二十七日、トスタル島を奪還。しかし入城したその夜、デルフィニアの最後の抵抗か――放たれた刺客によって、ウェスタール卿ルイスリードが落命した。
捕らえられた刺客がデルフィニア人だったことで、ヴィーフィルド側はこれを厳しくデルフィニアに問い質した。だがデルフィニアの答えは要領を得ず、ヴィーフィルドの貴族達の間では大きな不満が残った。
デルフィニア王都まで攻め上るべきだと激昂する将達を抑えて、皇太子ファナルシーズは停戦のため交渉を開始した。国境線と関税権の所在を再度明確にし、多額の賠償金を請求するに留めた皇太子を甘いという声もあったが、デルフィニアへの輸出品目に幾つか規制をかけることで、一応の決着を見た。
デルフィニアからは条件を緩めるよう抗議があったが、皇太子は譲らなかった。このときの輸出品規制によって、デルフィニアの経済は一時大きく衰退し、デルフィニア側の怨みとして後に長らく残ることとなる。
ヴィーフィルド皇紀4002年七の月――一年三ヶ月に及んだデルフィニア建国以来六度目のヴィーフィルド・デルフィニア間の戦争、トスタル戦役と、その後に続くロスタロイドの戦いは、こうして幕を閉じたのである――――ヴィーフィルド、デルフィニアの双方に、大きな犠牲を払わせ、また深い禍根を残して。




