大いなる祝福
妃殿下、と呼びかけられて、露台でうとうととしていたイリアーナは目を覚ました。
「このような場所で転寝をされては、お体に障ります。どうぞ、中へお入り下さいませ」
皇城は後宮、皇太子妃宮に居を移して四ヶ月が経とうとしていた。
婚儀直後は皇太子妃領として賜った領地の経営や、皇妃と共に孤児院、貧民院を回る公務に追われていたが、聖エディリーン祭が迫る今、それらの城外での公務は数を減らしていた。
去年の今頃は、まだ神殿に入るつもりでいたというのに、時間とは不思議なものだ。
実は夫となったファナルシーズは未だに神殿から嫌味を言われているのだが、イリアーナは知らない。
「まだもう少しこうしていたいの。温かい香草茶を用意してくれるかしら」
夏が近いこともあって、外に出ていても寒さはない。それでも女官は心配そうな表情を隠さなかったが、何も言わずに女主の言葉に従った。
皇国始まって以来の初の三等侯爵位未満の家格からの輿入れとあって、やっかみも覚悟していたのだが、少なくとも女官、侍女、侍従達からはそのような様子は見受けられなかった。表に出さないだけかもしれないが。
体を伸ばそうと座っていた籐の椅子から立ち上がりかけて、イリアーナは眩暈を覚えた。そのまま再び椅子に座り込んだところに、女官が頼んだ香草茶を手押し車に乗せて持ってきた。
「妃殿下、お茶をお持ちしました。……いかがなさいました?」
目ざとく変化を見咎めた女官に、笑顔でイリアーナは首を振って何でもないと笑った。
「ありがとう。いただくわ」
差し出された香草茶は、結婚してからファナルシーズに聞き込んで調合したもので、イリアーナは好んでこれを飲んでいる。爽やかな香りが癖になっているのだ。
イリアーナはいつものようにその香りを楽しもうとしたのだが、鼻先に近づけた途端、唐突に何かが込み上げてくる感覚に襲われた。
「うっ……!」
イリアーナの手から茶器が滑り落ちる。かしゃん――と音を立てて茶器が粉々になるのを、イリアーナはどこか遠い感覚で見ていた。
「妃殿下!」
女官が血相を変えてイリアーナに駆け寄る。口元を押さえて吐き気を堪えるイリアーナは、気にしなくていいと手を振る余裕がなかった。
「妃殿下、お気を確かに。誰か! 誰か侍医を呼びなさい――!」
「…………は?」
ファナルシーズは、その知らせを喜色満面の母から聞かされた。
「……今、何と?」
出されたバター茶を飲みながら、皇妃はにこやかにもう一度その話をした。
「先程ね、イリアーナが倒れたの」
「……っ、笑って仰らないで下さい! それで、イリアーナは――!」
「落ち着きなさいな、ファース。大したことはない上に、喜ばしいことなのだから」
ファナルシーズは母を睨み殺さんばかりの眼光だったが、皇妃はどこ吹く風だ。
「喜ばしいとは……」
「懐妊ですよ」
その瞬間何を言われたのか、ファナルシーズは理解できなかった。
「かい、にん?」
「父親になるのですから、子供の前でそんな間抜けな顔を見せてはいけませんよ」
すかさず皇妃の指導が入るが、ファナルシーズは聞き流していた。毛織物の輸出に許可を下すための書類は、彼が手を止めてしまったためにインクが大きな染みになっている。書き直さなくては書類として機能しないだろう。
「は、母上……かいにん、というと」
「イリアーナが貴方の子供を身籠ったのです。侍医の見立てによると、二ヶ月くらいだそうですよ。全く、しっかりなさい」
いきなり執務室まで押しかけてきた挙句、優雅に茶を飲みながらそんなことを言われても、今のファナルシーズには口を虚しく開閉させるしかない。
皇妃はそんな息子には目もくれず、楽しい未来予想図を描くことに専念し始めた。
「男の子かしら、女の子かしら。フィオのところが男の子だったから、女の子がいいわね。もちろん、男の子でも大歓迎だけれど。ああ、産着を縫わなくては。たくさん仕立てないと間に合いませんからね。ふふ、『お祖母様』って可愛い声でいつでも呼んでもらえるなんて夢のようだわ。ようやく手元で孫を育てられるのですもの。ファース、貴方は心配しないで仕事をなさい。孫はわたくしとイリアーナで育てますから。名前はどうしましょうか、貴方の長子だから男でも女でもいずれ皇位を継ぐことになる子ですもの。皇王として史書に記されても立派な、良い名を付けなくては。愛称がかわいいのがいいわねぇ」
勝手にしてくれと言いたくなる。
しかしこの人相手にそんなことを言った日には、本当にその通りになるので要注意だ。
とりあえずファナルシーズは、その日いつもより早く執務を切り上げて妻の元に向かった。
皇太子妃、懐妊――
これが公表されたのは、イリアーナが、安定期に入る妊娠四ヶ月になった九の月である。
発表以降は国内だけでなく、周辺諸国からも祝いの品が続々と届いた。
柔らかく打った絹の産着はもちろん、細工を凝らした揺り籠、編みこまれた小さな小さな靴下、極上の羽毛だけを詰め込まれた赤子用の布団――。
普通は子供が生まれてからではないかとイリアーナは思ったが、使者曰く、「ほんの前祝い」だそうだ。本番は何が来るのかと身構えたイリアーナを、誰も責められないだろう。
しかしイリアーナは、そういった外向きのことに出られることは少なかった。
悪阻がひどかったのである。
母であるセライネ伯爵夫人シュリアは二度の妊娠とも悪阻は軽かったと言っていたので、これは四千年のときを経て薄くなっているとはいえ神の直系子孫を身に宿す影響と思われた。
皇太子妃宮の寝台から起き上がれない日が続く中、イリアーナの数少ない楽しみは図書館から借りてきた本を読むことだった。神事関連のものは外部に非公開な部分が多いので詳しいことを書いた本は少ないのだが、歴史関連で『皇国年鑑』、神術研究の最先端論文誌『エリミオン』などが退屈を紛らわせてくれた。ちなみに「エリミオン」とは、神聖エルミア古語で「祝福の地」という意味である。
妊娠の経過は順調だったが、反比例するようにイリアーナは日に日に体調に支障をきたすようになっていった。
「妃殿下のご容態、芳しからず――」
宮廷ではそう噂され、無事に皇太子の継嗣は生まれるのかと囁かれた。それを聞きつけたオルティーヌが、直系皇族とその伴侶しか立ち入ることのできない後宮まで押しかけてきた。見舞いという名目で。
「これとこれと、ああ、これも悪阻を抑える効果があるそうですわ!」
「……オルティーヌ様、わたくしの記憶が確かならそれは月のものの痛みを止める薬では」
「――申し訳ありません、すぐに当家の薬師を解雇しますわ」
「え……いいえ、頂きます。お気遣いありがとうございます」
悪阻が治まったのは臨月を半分過ぎた頃だった。
ファナルシーズは一向に悪阻の治まらない妻に気が気ではなかったが、出産前に治まったことで一旦は安堵したようだ。
「生まれる前から母を困らせるとは。頼むから生まれた後も困らせるようなことはしてくれるなよ」
真剣な顔をして妻の膨らんだ腹に話しかける皇太子の姿は、後宮中で密かに苦笑を買った。
ヴィーフィルド皇紀3998年三の月六日未明。
夜明け前の、まだ暗い時間である。
「ええい、まだか」
父親となる皇太子よりも、皇王の方がずっと落ち着きがない。うろうろと部屋の中を歩き回っている。
前日の昼過ぎから腹部に痛みを訴えていたイリアーナは、そのまま夜には破水し、出産が始まっていた。
産室に男は入れない。貴人の中では皇妃、セライネ伯爵夫人、今では皇太子妃の親友として知られるオルティーヌ、駆けつけたヴィシュアール公爵夫人フィオルシェーナが産室に詰めていた。全員、自発的な行動である。
皇王は夕刻、気もそぞろでなっていないと宰相に執務室を叩き出されたらしい。うろうろと相変わらず歩き回る皇王を、宰相は冷め切った目で観察していた。知らせを受けてこちらも駆けつけたセライネ伯爵は、歩き回ってこそいないが、顔から血の気が引いている。
ファナルシーズは口元を引き結んで、扉を見つめていた。見つめているしか、できなかった。
「従兄上……」
生まれるのは皇族直系、未来の長である。各地に散る皇族達もその多くが皇都に駆けつけていたが、ファナルシーズの母方の従弟にあたるヴィランド公爵家の嫡男ギルトラントは、おずおずと険しい表情の十歳年上の従兄に声をかけた。
「従兄上の御子なのですから、きっと、お元気にお生まれになります」
十歳も年下の従弟に慰められる我が身を苦笑して――ファナルシーズは頷き、従弟の頭をくしゃりと掻き回した。
イリアーナは、時折閃光が走る闇の中にいた。
全身が締め付けられるような痛みが、彼女の体を支配していた。光が閃くたびに痛みは強くなる。
それでも彼女は意識を手放さなかった。手放すわけにはいかなかった。痛みに負けて意識を手放せば、十月、己の中で育んだ命が喪われてしまうから。
(まだ――もう少し――!)
歯を食いしばって再び重なった痛みに耐えた、そのときだった。イリアーナの耳に、不意に、この上もなく優雅で美しく、哀しみに満ちた声が響いたのは。
『足りぬ――いま少し、だけ』
何が足りないのか、イリアーナは本能で悟った。
『産ませて下さい、この子を! 女神よ、わたくしの命と引き換えにしてもいい。わたくしの息を、心臓の鼓動を、この子に移してこの子が生きることができるのであれば、そうして下さい!』
声はしばらく沈黙した。ややあって。
『では、そなたの力と引き換えに』
玲瓏とした声が告げた、次の瞬間。
覚醒したときから、あるのが当たり前だった力が、引き剥がされていくのを感じた。
『あああああっ!』
四肢をもがれ、身を裂かれるような苦痛がイリアーナを襲った。
自分の悲鳴で、イリアーナは現実に戻った。
「あ……」
「義姉上様、しっかりなさいませ!」
夫と同じ色の瞳を持つ女性が、背中に手を回してさすってくれていた。
「わたくし……は…………」
「ご案じなさいますな、意識が飛ばれていたのは一瞬だけのことでございます。さ、妃殿下。もう少しです。もう御子は頭が見えております」
産婆も兼ねた女性侍医の言葉に、イリアーナは状況を思い出す。
「御子は……生きて……?」
女性侍医が頷く。
「妃殿下、もう少しでございます。息を吸って――吐いて――そう、お上手です、息を吐くのと同時にいきんで下さい!」
そうしていきむこと何度目か――イリアーナは、自分の中から、赤子と共に剥がれ落ちていくものがあることを、確かに感知していた。
「――んぎゃあああ……!」
おぎゃあ、と形容するには少々弱い、しかしはっきりとした産声が、扉を隔てたこちら側にも聞こえてきた。
「生まれたか!」
歩き疲れて椅子に座っていた皇王が、弾かれたように立ち上がる。
ファナルシーズは思わず一歩踏み出したが、それ以上は見えない壁に阻まれたように動くことができなかった。
「――おめでとう存じます、皇王陛下、皇太子殿下」
唐突な言葉に振り返った先には、皇族達と宰相、セライネ伯爵、ウォルセイドが頭を下げていた。
「差し許す。面を上げよ」
皇王が上機嫌で言い、皆がそれに従ってゆっくりと顔を上げる。彼等の顔それぞれに喜色が浮かんでいるのを見て、ファナルシーズはぎこちなく頬を緩めた。
しばらくして、産室の扉が開いた。出てきたのは女官長である。
「御子はご無事に誕生されました。皇女殿下にございます。妃殿下は大層お疲れですが、皇女殿下共々、ご健勝そのものであられせられます」
型通りの口調だが、滲み出るものは隠せるものではない。
少し遅れて、小さなものを抱えた女官が出てきた。赤子だ。まだときどきしゃくりあげている。
「元気な姫様でございますよ」
年嵩の女官から手渡された小さな生き物を、ファナルシーズは恐る恐る抱いた。生まれたばかりのその生き物は、ふにゃふにゃで、どう扱えばいいのかとファナルシーズを困惑させた。
娘――娘、なのだ。小さくてふにゃりとした柔らかい、けれど確実に自分と妻の血を引いた、奇妙極まりないこの生き物は、紛れもなく彼の娘なのだ。まだ乾ききらぬ薄い髪は、彼と同じ漆黒だった。
腕の中でみゃあみゃあと鳴く娘を見下ろしながら、ファナルシーズは不思議な感慨を覚えた。
「ふ、え……」
ふと、赤子の目が開く。
薄い瞼の向こうから見えたその色に、ファナルシーズは驚愕した。
漆黒。
光が、射し込んできた。朱金の光が部屋の中を照らし出す。
ファナルシーズは窓の外を見た。東の空から、まるで新しく生まれ落ちた命を祝福するように、太陽が微笑んでいる。
金色の光に包まれて、物珍しそうにあたりを見回す娘を、ファナルシーズは敬虔な気持ちで抱き締めた。
漆黒の髪と――漆黒の瞳。
それは、千年に一度ヴィーフィルド皇王家に生まれる、闇女神の代行者の証だった。
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――女神は大いなる祝福を以って 暁の前に聖女を贈る
其は蒼き闇より生まれし無限 幾何に散じて生命を呼ぶ――




