一筋縄ではいかない二人
イリアーナが巫女になるのをやめたと聞いて、一番喜んだのはオルティーヌではなかっただろうか。
「よくご決心されましたわ、イリアーナ様!」
どこで聞きつけてきたのか、レステアのセライネ邸まで押しかけてきてイリアーナの手を握って瞳を潤ませながら感極まったようにこう叫んだ。
「これで殿下の結婚問題は解決です。終わりよければとはこのことですわ」
今にも踊りださんばかりの勢いである。
これにはイリアーナは慌てた。
「待ってください、オルティーヌ様」
はたと振り返ったオルティーヌに、非常に心苦しいと思いながらイリアーナは告げた。
「わたくしは殿下と結婚するなぞ、一言も申しておりません」
――オルティーヌが肝心なところで決められていない皇太子に対して、盛大な罵声を発したかどうかは、居合わせたイリアーナのみが知ることである。
「…………それで? 息子よ」
皇王リダーロイスは、その知らせを息子の口から自発的に聞きたかったのだが、業を煮やして自分から聞くことに、たった今、決めた。
「いつになったらお前の后を迎えに行くのだ?」
ファナルシーズは怪訝な顔をした。
「何のことです、父上」
「とぼけるな。エアハルトの娘が神殿入りするのをやめさせたのだろう。后に立てるつもりではなかったのか」
夏の熱気が籠もった皇王執務室に、気まずい沈黙が流れた。
正直な話、あれからファナルシーズは何度もレステアに訪れている。そうしてイリアーナと遠乗りをしたり、他愛ない話をしたりと、傍から見れば十分恋人同士に見える過ごし方なのである。
皇王がいよいよ息子に嫁が来るか(=遅くとも二、三年後には内孫が見られるか)と期待しても無理はない。
「ああ……それは」
「神殿から文句が来ているのだ、山のようにな。大巫女候補の〈異能者〉を掻っ攫っておいて、まさか捨て置くつもりではあるまいなと煩いぞ」
心なしか皇王の顔には疲労の色が濃い。
「…………それは、その」
珍しく歯切れの悪い息子に、皇王は重ねて問いかけた。
「別に前例がないということは悪いことではない。改革というものは、それがどのようなものであっても、基本的に前例がないものが多いのだからな」
それにしても、今まで皇室の妃を輩出した家柄は三等侯爵家が下限である。その下には辺境侯爵、準侯爵位があり、その下に一等伯爵位がくるのだ。
皇族会議は問題ないかもしれないが、元老院や貴族議会はかなり紛糾することが予測される。
だというのに、ファナルシーズが次に口にしたのは――
「……を、もらっていないのです」
「は?」
「返事をもらっていないのです」
「はあ!?」
皇王は目を通していた橋の修復に関する決算報告書を取り落とした。
「求婚はしたのですが、返事を保留にされたままでして」
「馬鹿かお前は!」
「と、言われましても」
ファナルシーズとて困っているのだ。
イリアーナが「行けない」と叫んで神殿入りを止めた後、泣きじゃくる彼女に求婚したはいいものの、イリアーナの答えはこうだった。
『お返事はもう少し、待っていただけますか』
半ば答えを催促するために足繁くセライネ領レステアへ通っているのだが、今だに返事はもらえていない。どころか、その話をすると場の空気が凍ってしまうのだから、ファナルシーズとしてもやりようがない。
「……わかった」
唐突だった。皇王が重々しい声でそう言ったのは。
「今から全ての執務を免除してやる」
「父上、いえ陛下。私がやっている執務の大半は本来陛下が直接決裁を下すべきものなのですが」
皇王は息子のささやかな苦情を聞いていなかった。
「レステアへ行ってこい。ああ、誰か証人になる者も連れて行け。いいか、后になるという言質を取るまでは帰ってくるな。こういうことは粘り強さが肝心だ」
「それはご自分の経験からのお言葉ですか?」
皇王が皇妃に対してしつこくしつこく付き纏って結婚の承諾を得たというのは有名な話である。
しかし皇王は余裕の笑みを浮かべて至極尊大に息子に命じた。誰にどう言われようと、彼は成功者だ。
「女の一人ぐらい、まともに口説いてこい。そしてさっさと孫の顔を見せろ」
「最後の一言が本音でしょう、父上」
しかしファナルシーズは、反抗期だからといって父の言葉に刃向かうことはしなかった。
頑固な「彼女」を口説き落とすには、時間はいくらあっても良かったからだ。
「で、なぜその証人に私を選ぶんですか、ファース」
「焚き付けた責任くらい取れ、ジェス」
ジェレストールは渋面だった。
「ソルディースだったか、元気にしているのか?」
「歯が生えていますよ……って、話を逸らさないで下さい」
今年一の月に生まれたジェレストールの第二子の話題を振ったが、ジェレストールの眉間の皺は消えなかった。
「妻の傍にいてやりたいのですが」
「出産のとき邪魔だと追い出されていた癖をしてよく言う」
「関係ないでしょうが」
だが愚痴を垂れつつもジェレストールはファナルシーズの後に続く。
「今回こそは何かしら約束を取り付けて帰らないと、いい加減逃げられそうだ」
「自分が悪いんでしょう。通算二十回も求婚して返事の一つも貰えていないとか?」
「うるさい」
会うたびにいい雰囲気になることはなるのだが、イリアーナは神殿育ちだ。それが良くも悪くも作用している。はっきり言って男女の仲どうこうからは最も遠いところにいたイリアーナに、いきなり結婚を迫るのは少々酷というものだが、大人の事情でそうも言っていられない。
七の月下旬、聖エディリーン祭も終わったこの時期は、夏真っ盛りの一年で特に暑い時節である。青年二人は、流れる汗を拭ってセライネ邸の門番に声をかけた。
最初の頃は平身低頭して固まっていた門番も、三日と空けず訪れていれば慣れたらしい。心得た様子ですぐに門を開いた。
「いらせられませ、殿下。ライシュタット卿も」
家宰に取り次がれて応接間まで出てきたイリアーナは、明らかにジェレストールの姿に困惑していた。
「申し訳ありません、イリアーナ嬢。お邪魔とは思いますが、陛下のご下命でして」
「陛下の……また何か、皇都に異変が?」
心配そうな表情をするイリアーナに、いいえと人当たりの良い笑顔でジェレストールは返した。
「そろそろ、御婚儀の日取りを決めねばなりませんから」
イリアーナは絶句したし、ファナルシーズはぎょっとした。
「待てジェス、何がどうなってそういう話に――」
「どうもこうもあるか。来月の皇族会議までに決めておかないと、元老院を突破するのは不可能だぞ。陣を敷き終えていないと突撃できない」
合戦の話をしているのか結婚の話をしているのかわかったものではない。
当事者二人が二の句を継げないでいるうちに、ジェレストールはイリアーナに向き直った。
「失礼ですがイリアーナ嬢、殿下の何がお気に召さないのですか」
単刀直入に過ぎる言葉に、イリアーナは目に見えてうろたえた。
「気に入らないなんて、そんな、違います……。ただ、あまりに畏れ多いことですし、わたくしは結婚など考えたこともなかったものですから、少し時間をと……」
最もな言い分だ。
皇太子妃、果ては皇妃ともなれば、皇王不在時は皇王御璽を預かって公務を代行することもある。社交界に出るのはもちろん必須、政治、経済、外交に通じていることも求められる。
世間知らずどころか俗世間から掛け離れて生きてきたイリアーナに、いきなり結婚の二文字を突きつけて強要するのはいかがなものかと思われる。
しかしジェレストールは容赦しなかった。
「ではご結婚そのものがお嫌というわけではない?」
「それは……」
「おい待て、ジェス!」
ファナルシーズが違う意味で二人の世界を作り上げている二人の間に割り込んだ。イリアーナを庇うようにしてジェレストールと対峙する。
「いきなりそんなことを……」
「お言葉ですが、殿下。御身が傍に寄せただけでなく、執務の合間に足繁く通う女性となると、何かしら手を打たなければイリアーナ嬢の身が危ない。お分かりですか」
ファナルシーズは返す言葉がなく、黙り込んだ。
「それとも貴方、イリアーナ嬢を手放す気ですか? あんな形で神殿から強奪しておいて?」
本人を前にこんな会話を繰り広げられては、イリアーナとしては身の置き所がない。
赤くなって言葉を失っている二人にそれぞれ目をやり、ジェレストールは嘆息した。何で自分ばっかりこんな役回りをやらされるのだろう。
「いいですか、今日中に結婚するかしないかだけでも決めてください。いいですね!」
後はお二人で、と言い置いてジェレストールはどこかへ行ってしまった。
ファナルシーズは不自然に咳払いした。
「外を歩こうか」
イリアーナはこくりと頷くに留めた。うっかり声を出してしまうと、何か訳のわからないことを口走ってしまいそうだったからだ。そしてエスコートのために差し出された手を、以前よりずっとぎこちなく取った。
普通の令嬢相手なら「外を歩く」というと庭園に出るものだが、イリアーナに限っては馬に乗っての散歩のことを指す。
厩舎からそれぞれの馬を引き出して並足で領内を行くと、すれ違う人々はお辞儀をして二人を見送った。
「さすがに暑いな」
ファナルシーズはぎらぎらと照りつける太陽を、目を庇いながら見上げた。イリアーナがくすりと笑う。
「セラディの泉まで参りましょうか」
「ああ」
神殿がある森は広く、神殿とはまた違った道に入れば山の中腹まで至り、そこには知る人ぞ知る小さな泉がある。
ひんやりとした森の空気でも払いきれなかった熱気を、滾々と湧き出る澄んだ泉の水で顔を洗って払った。
「布を……」
「このままでいい」
顔を拭くための布を差し出そうとしたイリアーナだが、ファナルシーズは断った。漆黒の髪から雫が滴り落ちるが、気にしていないようだ。
元々ファナルシーズは絶世の美貌の美青年である。暑いからと襟元を少しだけ寛げ、髪をかき上げる様子は、それだけで凄絶な色気があった。
そういった方面に疎いイリアーナでも思わず赤面してしまうほどだ。しかし残念なことに、ファナルシーズ本人はそのことに気付いていない。
「イリアーナ」
求婚してから、ファナルシーズはイリアーナを名前だけで呼ぶようになっていた。
「返事は、まだ貰えないのだろうか」
ぽつりと落とされた呟きは、細波のようにしんとした森の空気を震わせる。
「殿下」
「先に言っておくが、いい返事以外は聞きたくない」
そっぽを向いた皇太子の、思いがけない子供のような口調に、イリアーナは目を見張った。この人は自分より三つも年上のはずだが、このときだけはそう思えなかった。
「殿下……」
「貴女にとって私は馬より優先順位が低いのかもしれないが」
これは明らかにファナルシーズより、彼の馬を見つめていることの方が多いイリアーナへの当てこすりだ。イリアーナは困惑した。
(どうされたのだろう、殿下は。いつもより機嫌が悪いように見える……)
「わたくしは社交界へ出ていません」
神殿に入るつもりだったのだから当たり前だ。
「父は外務省の長ですが、わたくし自身は外交に明るいわけではありません。政治も経済も初歩から教えていただかなければいけないでしょう」
「それがどうした。自分の現状を知っていることはいいことだ」
イリアーナは首を振って続けた。
「もっと相応しい方がいらっしゃいます」
ファナルシーズは訝しげな表情になった。
「オルティーヌ嬢のことか」
「他にも、たくさんいらっしゃるのでしょう」
「彼女達の結婚相手候補とて、たくさんいる。イリアーナ、そういうことを理由に断るというのは、ずるい。私は貴女が欲しいと言っているのに」
「違います!」
イリアーナは激しく首を振った。
「わたくしは……わたくしは、羨ましいのです」
「羨ましい……?」
「だって、彼女達はずっと殿下のお傍にいたではありませんか」
ファナルシーズは、一瞬呆けた。
イリアーナは俯いて、凝っていた思いを吐き出す。
「きっと、わたくしよりお美しくて、ずっと聡明で……そんな方々ともう一度お会いになったら、きっとわたくしが巫女の才以外に取り柄がない娘だと、殿下はお気づきになる。それに気づかれてしまうのが嫌だと思う自分がいるのです――浅ましく、愚かしい自分が!」
これこそ、イリアーナが返事を渋っていた理由だった。
物心着いたころから神殿で心穏やかに過ごしていた彼女には、嫉妬は何より醜いものに感じられたのだ。
「私は愚かです。こんな私が皇太子妃になって、殿下の御世に傷を付けることがあってはならない」
震える声で何とかそこまでを言い切ったイリアーナだが、不意に強く抱き寄せられて驚いた。
「殿下!?」
くすりとファナルシーズが耳元で笑う気配がして、イリアーナはさらに困惑した。
「では私が、貴女がそう思っていることを気にしない、いや逆に嬉しいと言ったら?」
「どうして?」
「私のことを想っていなければそんなことは普通、考えないからだ」
そうなのだろうかとイリアーナは考え込んだ。だがすぐに答えが見つかるはずもなく、考え込む時間の分だけ、彼女はファナルシーズの腕の中にいることになる。
「イリアーナ」
しばらくして、打って変わって囁くように低い声がイリアーナの耳朶を震わせた。どこか艶めいたその声に、イリアーナは条件反射で「はい」と返事をした。
ファナルシーズは腕を解き、イリアーナの足元に跪く。皇王皇妃をおいては並びない身の皇太子の行動にイリアーナは慌てたが、ファナルシーズは取り合わなかった。
「やはり私は、貴女に后になってほしい。貴女は自分を愚かだと言ったが、それは自分が賢いと思い込んでいる女よりも、貴女には皇妃として立つ資格があるということだ。
イリアーナ=オリエル、私の妻となり、私の子の母となり、これから先の時間を共に歩んで欲しい」
それは、正式な求婚の言葉だった。
女性に拒否する権利もあるはずの求婚だが、紫水晶の双眸は、懇願の言葉とは裏腹に否やを受け入れないと告げていた。
(ああ、この目だ)
夜明けの空の色のこの瞳に、自分がとても弱いことを、ファナルシーズは知っているのだろうか――……?
イリアーナはそんなことを考えながら、自然に微笑んで答えを口にした。
正式に皇太子ファナルシーズとセライネ伯爵令嬢イリアーナとの婚約が公布されたのは、その年の十の月である。挙式は来年三の月と決まった。
前例のない伯爵位から后を娶ることに元老院は荒れたが、それ自体を禁じる法律はない。単に皇太子の子供を産めるか否かの問題であり、この点に関しては先行して開かれた皇族会議において承認がなされていたため、文句の入る隙がなかった。これで子供ができなければ離縁させて皇太子を再婚させればいい――という思惑を抱いた貴族達も、いたことはいただろうが。
「なりません。なりませんぞ、皇太子殿下! 伯爵家からの立后など、前例がございませぬ!」
オルティーヌの父であるファヴァイナ侯爵アーヴィヌスはこう叫んで声高に反対していたが、皇族会議の決定を覆す力はなかった。ファヴァイナ侯爵は最後までこの婚姻を反対していたが、婚儀の日が近づくにつれ、これに賛同する声は弱っていった。
最後までこの婚姻を反対していた人は、もう一人いる。
「イリア、頼むから考え直してくれ」
頭を下げられても、こればかりはイリアーナ一人で覆せることではない。
「ウォルセイド、諦めろ」
どこか楽しげに言う悪友たちに、ウォルセイドは恨みの籠もった視線をぶつけた。
「フィオルシェーナ様と姻戚になってしまう可哀そうな幼馴染に、慰めの言葉の一つもかけられないのか!?」
ファナルシーズの双子の妹であるフィオルシェーナと姻戚になるのが嫌だという一点で、ウォルセイドは婚儀の一週間前までイリアーナに「考え直せ」と言い続けた。
せめてフィオルシェーナとの関わりを減らすために、彼は妹の婚儀の直後に近衛騎士団を辞することになる。近衛騎士団が守る対象は「皇族」であり、今だ皇位継承権を持つフィオルシェーナはこの範疇に入るからだ。その後は人事院に入り、できる限りヴィシュアール領に近づかないようにして一生を過ごそうと心に誓う。幼少時の傷は、ときに人の人生を変えると彼は図らずもその身をもって実証した。
世の婚約者同士よりはよほどぎこちない距離から始まったファナルシーズとイリアーナだが、互いが互いに慣れていくうちに、ファナルシーズは以前ほど女性に対して壁を作らなくなったし、イリアーナはイリアーナで社交界に出て様々な人との交流をしていった。オルティーヌと皇妃が後ろ盾だったこともあり、表立って令嬢達から苛められるということもなく、穏やかに日々は過ぎていった――。
そして迎えた、ヴィーフィルド皇紀3997年三の月十日。
婚姻の儀は華やかに執り行われた。
国民の盛大な歓声の元、イリアーナは皇太子妃となった。




