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暁降ち  作者: 木之本 晶
本編
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14/21

喪失

 表向き華やかに凱旋したものの、皇族達の胸中は暗澹としていた。

「お帰りなさいませ。ご無事のお戻り、何よりでございます」

 凱旋式の後、改めて後宮でイリアーナは戦地から帰ってきた夫を労ったが、夫は何も言わずに彼女をただ抱き締めるだけだった。

「……ファース」

「私のせいだ」

 明かりが落とされた室内には、ただ月の光だけがしんしんと降り注いでいた。しかしその光は、二人がいる寝台にまでは届かないようになっていた。それだけ寝室は広かった。

「ルイが死んだのは、私のせいだ」

 搾り出すように囁かれた苦い響きを、イリアーナはただ黙って夫の漆黒の髪を梳くことで受け止めた。直系皇族の髪とは不思議なもので、ファナルシーズの黒髪は、闇の中にあってなお夜闇より深い漆黒でありながら、星を孕んだように煌めく。

「……トスタルを奪還して、気が緩んでいた。だがそんなことは言い訳にはならない。ルイスリードは私と間違われて殺された。休んでいた部屋が隣り合わせで、刺客が部屋を間違えたんだ」

 ヴィーフィルド皇王家の血を引く者は、血族の死を喪失の衝撃を受けることで感知する。ひどく嬉しいときや、哀しいときの感情も共有する彼らは、人間とは根本から違う生き物だ。

 ファナルシーズは自分を責めていた。ルイスリードは、自分が召集をかけなければ、死ななかった。

『ファース……君でなくて、良かった』

 そう言って息絶えた年上の幼馴染の、血塗れの死相が、脳裏にこびりついて離れない。

 本来、地上の金属で鍛えた刃も、地上のものから作られた毒も、ヴィーフィルド皇族である彼を侵すことはできない。剣も槍も矢も、体に触れる寸前で溶解する。毒は、作用することなく排出される。

 ルイスリードが殺されたのは、賊の持った凶器が、普通でない作られ方をしていたからだ。

 魔力と怨みある血で鍛えられた刃は、神の末裔の一人の命を奪い去り――こういう言い方は違和感があるかもしれないが、力尽き――砂塵に還った。

 イリアーナ、とファナルシーズは囁いた。

「助けてくれ。……ルイが死んでから、世界が赤くしか見えない」

 骨がきしむほどきつく抱きすくめられだが、イリアーナは痛みを訴えることはしなかった。

 そっと両手で、夫の両の頬を包み込み、顔を上げさせる。

 体の一部を切り落とされたような顔をしていた。

「貴方のせいではないわ」

「嘘だ」

「いいえ。嘘ではありません。わたくしが貴方に嘘をついたことがありましたか?」

「……最初の嘘かもしれない」

「ひどい。…………ね、ファース。ちゃんと、わたくしを見て(・・・・・・・)」

 訝しげに、ファナルシーズの双眸が細められた。何を言っているのかわからない、というように。

 イリアーナは夫の頬をなぞり、唇を合わせた。

(ルイスリード様。どうか、この人の心を連れていかないで)

 もう巫覡の才は失われたはずなのに、ルイスリードが黄泉路を降る足音が――闇女神の御許へ還っていく音が、聞こえる気がした。

 唇が離れたとき、ファナルシーズが呟いた。

「……キティが、何も言わなかった」

「キティに何を言って欲しかったの?」

「……非難を。ルイを死なせたことを、断罪して欲しかったんだ」

 縋りつくように抱きしめ、押し倒してくる夫の背に手を回して、イリアーナはそれ以上言葉を重ねることを止めた。時間を置くしかない、と思ったのだ。



「おとうさま、おとうさま。このご本をよんでください」

 あどけなく愛らしいばかりの笑顔でファナルシーズにせがむ皇女は、四歳になっていた。彼女もルイスリードの死による喪失の衝撃を受けたはずだが、幼児のこと、月日が過ぎることで忘れてしまったのか。

「そうではないでしょう」

 言った皇妃も皇族出身である。彼女も喪失の衝撃を感じた一人だった。

「きっと、あまりに哀しすぎて、心の奥にしまいこんでしまったのだわ。泣きすぎて熱を出したほどですもの……」

 父親の膝を占領して大人しくなった皇女は、たどたどしい父親の朗読に文句をつけている。

 ファナルシーズは子守などしたこともなければ、朗読の経験も片手の指で数えるほどだ。幼い娘の相手に四苦八苦している。文字を習い始めた幼女は、父親初心者には強敵だ。何せ口だけは回る娘なのである。

「ちがうわ、おとうさま。これは『いきました』ってかいてあるもの。『ゆきました』じゃないわ」

 ……文語と口語の違いを四歳の娘に理解させようと思うほど、ファナルシーズは忍耐力がないわけではなかった。

 それでも無邪気な娘と過ごす日々は、確かに彼の罪悪感を和らげたのだろう。

「おとうさま、おとうさま。きいてください。あのね……」

 伸ばされた小さな手を握り返すたび、ファナルシーズの赤く染まっていた視界は、少しずつ元の色彩を取り戻していった。

 そして彼は、娘に剣術を習わせることを禁じた。

「私はこの子に、剣を持たせたくない。戦って死ねと命じる辛さを、味わって欲しくない」

 イリアーナにそう言って、厳しい表情で剣とは何かを娘に教える夫の姿は、戦の前とは何かが違うように、イリアーナには感じられた。それが好ましいか否かの結果が出るのはまだずっと先のことになるだろうが、少なくともこのときは、イリアーナはそんな夫の姿を好ましく思ったのである。

 皇王は息子の判断に難色を示したが、そも、王とは自ら剣を振るうことよりも、いかに剣を巧みに使わせるかを指揮すべき者である。皇女であることもあって、積極的に反対することはなかった。

「剣を実際に使えるかどうかが重要なのではない」

 皇王は遊び疲れて寝入った孫娘を膝に抱いて、ヴィライオルド公爵にこう語った。

「上に立つ者の資格とは、下の者の全てを背負えるかどうかだ」

 黙って頷く公爵は、続く皇王の言葉を、この先何度も思い出すようになる。

「その重さを背負える者でなくてはならぬ」



 オルティーヌは皇太子の皇都帰還を待って、実家であるファヴァイナ侯爵領へと戻った。父侯爵は近衛騎士団に任を拝しているため忙しく、後継者である彼女が実際の復興の指揮を執らねばならない。

 トスタル島が奇襲を受けたとき、彼女は所用あって皇都にいた。数日で侯爵領に戻る予定だったのだが、情報がどう漏れたのか、その数日の隙を突いて襲撃されたのである。

 この戦で最も自分を責めたのは、オルティーヌだったかもしれない。

(わたくしがここで盾となってデルフィニアを阻んでいれば、ウェスタール卿は薨去などなさらなかっただろう……)

 秋だというのに、彼女の目の前に広がっているのは、焼け爛れた大地だけだった。それもそのはず、ファヴァイナ侯爵領は一ヶ月前まで激戦地だったのだ。呑気に農業などしている暇はなかった。

 収穫が二年続けてなかった民は飢えている。南のヴィシュアール公爵家から物資援助があるので食料に関してはこの冬を凌げるだけあるが、家を焼かれた民は路上での生活を余儀なくされている。

 仮でいい、家屋の建設が目下の最優先事項だった。

「輸出用に溜めてあった毛布があったでしょう。民に無償で配りなさい。食糧の配給は絶対に出し惜しみなどしないよう。軍の派遣状況はどうなっていますか? 仮小屋は数だけ建てれば良いというものではありません。広さも重視して、確実に雨風を凌げるような造りになさい。まずはこの冬を乗り切れるだけの備えをするのです!」

 復興のための指示を飛ばしていたオルティーヌの元に、父ファヴァイナ侯爵が帰ってきたと知らせがあったのは、九の月中旬のことである。

「父上、よろしいのですか。近衛のお役目は……」

「陛下に休暇を頂いたのだ。団長のサリアネス侯爵が口添えをして下さった」

 眼光鋭く邸を見渡して、侯爵は娘に状況の報告を求めた。

 オルティーヌは、こうして実直に役目を果たそうとする父を尊敬していた――そのときまでは。



 イリアーナが視察に行くと言い出したのは、その年の十二の月のことだ。

「何を言う、イリア! この間もモルフェスでデルフィニアの間諜を捕らえたばかりだと言っただろう? なぜこんな時期に――!」

 激昂するファナルシーズに、イリアーナは一歩も引かずに反論した。

「デルフィニアと開戦してから、賜った領地への視察を行えていません。自分の領地の状況を書面でしか把握できていないなんて、領主としてあるまじきことですわ!」

 大変仲が良いと評判の皇太子夫妻が喧嘩をするのは、結婚以来これが初めてだった。

「城を出るには危険すぎる!」

「民はどうなのですか。城の奥に引き篭もって、届けられる書類に判を押すのが民への信頼に応えることになるのですか。自分の目で直接全てを見て判断することこそが、施政の基本と仰っていらしたではありませんか!」

 誰が見てもファナルシーズの分が悪かった夫婦喧嘩は、側近達の反対をも押し切ってイリアーナが勝った。デルフィニアとの戦争が終わったばかりのこのときだからこそ、自分は行かねばならないと譲らなかったのだ。

「すぐに戻ってきますから、お父様やお祖父様やお祖母様のお言い付けをよく聞いて、いい子でいるのですよ」

 娘にそう言って、イリアーナはすぐにでも発とうとしたのだが、肝心の皇女が母から離れたがらなかった。

「いや、シェランもおかあさまといくの!」

「姫様、お聞き分けなされませ」

「いや、いや!」

「皇女殿下、そのような我が儘はなりませんぞ」

「いやーっ! いくの、シェランもおかあさまといくの!」

 散々泣き喚いた皇女は感情のままに神力を解放し、危うく皇城が吹き飛ぶところだった。

 生まれてから一日も離れたことのない母と離れるのは、甘やかされて育てられている皇女には、耐え難いことだったのだろう。

「困ったわねぇ。イリアーナ、護衛を増やして、この子も連れて行きなさいな。少し早いかもしれないけれど、外を見せておいた方が良いでしょう」

 皇妃の鶴の一声で、皇女の視察同行が決まった。乳母であるナナレイダを始めとした皇女付きの女官達は急遽、準備に追われることになった。

 目の回るような忙しさを経て、ヴィーフィルド皇紀4003年三の月、皇女が五歳になるのを待って、皇太子妃イリアーナは皇城を出て、皇都の北東にある領地へと視察に旅立った。



 それを、後に彼らは深く後悔することになる。



 視察団が皇城を出てから一週間後が過ぎた。

 予定では皇太子妃達は、ファヴァイナ侯爵を長とする護衛に囲まれながら、ルーランセに入り以降数日、ここを拠点として視察を行い、帰ってくるはずだった。

「アーヴィヌスがついているのだ。心配はあるまい」

 皇王はそう言い、ファナルシーズもその言葉に頷いた。ファヴァイナ侯爵は譜代の貴族の中でも特に皇王家への忠誠に厚く、能力もあるとあって、大きな信頼を勝ち得ていた。

 そんなことを昼間に話した、その深夜。

 それは――唐突に訪れた。


 皇王と皇妃が、葡萄酒を開けているときだった。

 ヴィシュアール公爵夫人フィオルシェーナが、実験に没頭しているときだった。

 ヴィライオルド公爵ルークセイドが、自領の軍備についての報告に目を通しているときだった。

 ライシュタット卿ジェレストールが、皇太子執務室の扉を開け、手に持っていた酒瓶を部屋の主に示して見せたときだった。


 皇太子ファナルシーズが、幼馴染であり再従兄の言葉に、苦笑を浮かべたそのときだった。


 存命の皇族達がそれぞれ思い思いの時間を過ごしている、まさしくそのとき――――夜の漆黒と季節外れの雪の白銀から成る、白い闇を突き抜けて、幼く哀しい悲鳴が、彼等の魂を貫いた。


『おとうさま――――!』



**********************



 それは凄まじい衝撃だった。

 唐突に彼等の精神へと干渉し、思考を支配し、一瞬とはいえ体の自由すらも奪ったほどのそれは、衝撃としか言い様がなかった。

 喪失の衝撃とひどく良く似るそれは、しかし同族の死を告げ知らせるものとは何かが違う、と思われた。

「シェ、ラン……?」

 空間を越える悲鳴を上げた娘の名を呼んだ直後、ファナルシーズの全身に悪寒が走った。


 一部の空間に、『穴』が開こうとしていた。


 ジェレストールが割れた酒瓶を踏み越えて僅かに数歩で決して狭くはない皇太子執務室を横切ってきたが、その彼も顔を強張らせていた。

「ファース――!」

 ジェレストールも感じていた。

「なぜ姫様が時空転移の神術など発動させている!?」

「知るか! とにかく行ってやらねば――」

 小さな体に幼い体力では、この時空と、全く別の時空を繋ぐような強大な術の行使に、耐えられるはずがない。

 しかし次の瞬間、二人の顔色が変わった。


 凄まじい勢いで「彼女」が世界から引き千切られていっていた。


 娘を繋ぎとめていた世界の気脈が、無惨なまでに引き裂かれていく感覚を如実に感じたファナルシーズは意味なく僅かに唇を戦慄かせ、ほとんど無意識で足元に空間転移のための術陣を展開させた。

 娘の傍に行ってやらねばならない。

 その一念だけが、今の彼を支配していた。

 だが、それを邪魔する者がいた。

「何のつもりだ、ジェス!」

 ファナルシーズはぎっと、術陣を打ち消したジェレストールを睨みつけた。

 ジェレストールは怯まなかった。むしろこれは彼にとっても苦渋の選択であっただろう。それでも彼は、主君に告げた。

「今行けば巻き込まれる――お前まで危険に曝されてはならない!」


 一瞬でファナルシーズの双眸の虹彩に、金色の輪が浮かび上がった。


 感情の激昂を示すそれの輝きに比例するように、ファナルシーズはうねる神気を解放した。

「ふざけるな!」 

 再度の施行をした転移神術は、またもジェレストールの渾身の一撃で阻まれた。

 一瞬遅れて、ファナルシーズは、左頬に物理的な衝撃をもろに食らった。

 備えをしていなかったファナルシーズは床に倒れ、尚起き上がろうともがいたがジェレストールはそれを許さなかった。

「私に娘を見殺しにしろと言うのか!」

「まだ死ぬと決まったわけじゃない。あれほど捩れた時空を収めるのは、いくらお前でも無理だ! お前の方が死ぬぞ、ファース!」

「聞いただろう、あの子は私を呼んだ! 助けてやらねば――」

「冷静になれ! 今、あんな状態でできるわけがないだろうが!」

 ファナルシーズは瞋恚に染まった目でジェレストールを睨みつけた。

「とにかく放せ、ジェス貴様――!」

 ジェレストールは同じ――否、それ以上に強い光を宿した目でファナルシーズを揺さぶった。

「お前の後に数千万の民が繋がれていることを忘れるな――覚えておけ、お前にそんな無謀をする権利は、ない!」

 言い争っていた時間は長く感じられたが、実際にはジェレストールが跳ね除けた扉が、全開まで開いて、閉じるまでの時間しか経っていなかった。

 重い音を立てて扉が閉まったとき、不意にファナルシーズの抵抗がなくなった。

 ジェレストールは、その喪失感をまざまざと感じながら、きっと数時間後には、自分はこの判断を後悔しているのだろうと予感していた。

 荒れ狂っていた時空の乱れが、急速に収束していっていた。

 同時に、大きすぎる喪失感が彼等を支配していた。

 悲鳴を上げた幼い少女に繋がる全ては、断ち切られていた。

 皇女が――未来の彼等の長が、この時空から失われたのだ。


 ファナルシーズの頬を、一筋、伝って滴り落ちるものがあった。

 差し込む月光を反射して煌めいたそれは、ぽたりと床に落ちて染みを作った。


 次回から『蒼の女神 暁の聖女』第一章と出来事や視点など一部が重複すると思われます。あらかじめご了承下さい。

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