07. 頼りになる背中
畑の脇を抜け、森へ足を踏み入れると、木々の陰が僕たちを包んだ。湿った土の匂いが鼻をかすめ、踏み締めた落ち葉がかすかな音を立てる。
剣も、薬も、何度も確かめた。それでも何か忘れている気がして、歩きながら腰の鞘に触れる。手のひらは汗で湿っていた。
藪が鳴った。
息をのみ、剣を半ば抜きかける。飛び出してきたのは、小さな野兎だった。
「肩の力を抜け。その調子じゃ、出会う前に疲れるぞ」
ガルの声にうなずき、浅くなっていた呼吸を整えた。
僕たちは周囲に目を配りながら、森の奥へ進んだ。
足元で枯れ葉が鳴るたび、つい木々の間へ視線が向く。けれど、枝葉の向こうに魔物の姿は見えなかった。
しばらく進むと、かすかに水の流れる音が聞こえてきた。
木々の間を抜けた先に、小さな沢が流れている。
その岸辺で、ガルが足を止めた。
「……あったぞ」
ガルの視線を追う。
湿った土に、大きな獣の足跡が残っていた。丸みを帯びた指の跡の先には、爪の跡がくっきりと刻まれている。
はっきりと残っている足跡は、その1つだけだった。
けれど、その先では草が倒れ、低い枝に灰色の毛が絡んでいた。
ガルが指先で毛をつまみ、僕たちに見せる。
「こっちへ行ったみたいだな」
少し進むと、木の根の間にも足跡が見つかった。
僕たちは立ち止まるたびに周囲を見渡し、踏み荒らされた下草や折れた枝を頼りに、獣の通った道を追っていった。
やがて、前を歩くガルが片手を上げた。
僕たちも足を止める。
ガルは何も言わず、木々の向こうを指差した。
枝葉の隙間から、灰色の背中が見えた。
大きな狼が、木の根元で何かに頭を垂れている。
その足元に、細い脚と角が見えた。
鹿だ。
狼は太い前脚で獲物を押さえ、肉を引きちぎっていた。
顎が動くたび、硬いものが砕ける音がする。
僕は息を潜めた。
鹿と並ぶその身体は、普通の狼とは比べものにならないほど大きかった。
ガルがゆっくりと身を屈めた。
僕たちも木の陰に隠れ、狼の様子を窺う。
「見えるのは、あの一体だけね」
リリアが小声で言った。
視線は狼だけでなく、その周囲の茂みにも向けられている。
「俺が行く。他に出てきたら教えてくれ」
ガルは槍を握り直した。
セレネが頷き、僕も聖剣の柄に手をかける。
ガルは木の幹を遮蔽物にしながら、狼へ接近する。
ガルの姿が枝葉の向こうに隠れ、また現れる。
あと数歩。
その時、狼の耳が動いた。
血に濡れた口元が持ち上がる。
低い唸り声と共に、灰色の巨体が跳ねた。
「ガル!」
僕が声を上げるより早く、ガルは横へ踏み出していた。
狼の爪が背後の幹を削り取る。
木片が飛び散った。
ガルは槍の穂先を狼へ向けたまま、間合いをとる。
狼は着地するとすぐに向き直り、牙を剥いた。
速い。あれほどの身体なのに、動きにほとんど隙がない。
狼が再び地面を蹴った。
ガルは退かなかった。
踏み込んでくる前脚の外側へ身をかわし、槍を突き出す。
鈍い音がした。
穂先が、狼の喉元へ深く沈んでいた。
ガルは両足を踏ん張り、狼の勢いを横へ逃がすように槍を捻った。
狼が地面へ崩れ落ちる。
枯れ葉を蹴散らしながら、一際大きく吠えた。
僕は聖剣に手をかけたまま、立ち尽くしていた。
突っ込んでくる相手から目を逸らさず、あの一瞬に槍を合わせた。
毎朝、僕の動きを止めていた穂先が、今は狼を倒している。
「……すごい」
ガルが息を吐き、槍を抜いた。
その直後だった。
森の奥から、遠吠えが響いた。
続いて、別の方向からも。
リリアが振り返る。
「他にもいる」
僕は魔力を制御することに集中した。
「——星域」
僕を中心に淡い光が広がり、地面を薄く照らしながら木々の間へ伸びていく。
その範囲に触れた気配を、意識を集中させて探った。
奥に一つ。
左にも、二つ。
さらに別の気配が、光の内側へ入ってきた。
「四体……こっちへ来る!」
僕の声にガルが振り返り、僕たちの元へ戻ってきた。
「来た道を戻るぞ!木の少ないところがあっただろ」
「沢の手前ね!」
リリアの声に頷き、僕たちは引き返した。
背後で枝が折れる音がした。
気配が近づいてくる。
僕は走りながら振り返りそうになり、前を向き直した。
木の根を越え、幹の間を抜ける。
やがて頭上の枝葉が途切れ、少し開けた場所へ出た。
「ここで迎えるぞ!」
ガルが振り返って槍を構える。
リリアとセレネがその後ろへ回り、僕は聖剣を抜いてガルの隣に立った。
「リュシア様、どうか彼らに力を」
淡い光が身体を包み、荷を下ろした時のように手足が軽くなる。
「アステル、左からもくるぞ」
「分かってる」
<星域>の内側で、気配が左右に分かれた。
「ガル、左をお願い。右にも一体いる!」
「任せろ!」
「右は私が止めるわ」
リリアが杖を向けた。
正面の茂みが、大きく揺れた。
灰色の狼が飛び出してくる。
聖剣を左手に持ち、右手を狼に向けた。
怖くないわけじゃない。
けれど、どこから来るのかは分かっている。
「——星弾!」
右手から放った光弾が、先頭の狼の胸を撃ち抜いた。
飛びかかろうとした身体が宙で傾き、地面へ落ちる。
そのすぐ後ろから、もう一体が迫っていた。
両手で聖剣を握り直し、狼が前脚を持ち上げるより先に、僕は踏み込んだ。
今から、星装を使う余裕はない。
僕は掛け声と共に聖剣をそのまま振り下ろした。
「はあ!」
血飛沫を上げながら、狼の体は真っ二つになった。
重い感触が腕に伝わる。
それでも、剣を振り抜いた後に足を止めなかった。
右へ顔を向ける。
「ストーンバレット!」
リリアの杖の先から、岩の弾が放たれた。
狼は横へ跳んでかわそうとしたが、間に合わなかった。岩の弾が脇腹を抉り、巨体が地面へ崩れ落ちる。
それでも狼は前脚を突っ張り、リリアへ向かって再び跳ぼうとした。
僕は右手を向け、もう一度、光を放った。
狼が倒れる音と、ガルの掛け声が重なった。
左を見ると、最後の一体が槍に貫かれ、地面に伏せていた。
僕は荒く息を吐いた。
耳を澄ますと、枝の揺れる音と、自分の呼吸だけが聞こえる。
<星域>の中に、新しく近づいてくる気配はなかった。
「……今のところ、他にはいない」
そう伝えると、ガルが槍を下ろした。
倒れた狼たちを見回し、それから僕を見る。
「お前……俺が一体を相手している間に、三体かよ」
「リリアが止めてくれたから……」
リリアは杖を下げ、僕の足元に倒れた二体へ目を向けた。
「私が止めたのは、最後の一体だけよ。それに、光魔法……反則的なスピードね」
自分の手のひらを見つめると、前のような震えはなかった。
戦場では、剣を振るだけで精一杯だった。
今は少しだけ、敵の動きも、仲間の声もわかった気がした。
ガルが隣へ来て、僕の肩を軽く叩いた。
「頼りになるじゃねえか」
僕は何と返せばいいのかわからず、小さく頷いた。




