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番外編:真心の伴い(1/2)

銀海星にて。

今からおよそ四、五十年前。


地球から戻って間もなく、“三十七号”はフィル=レグナとなった。

だが大半の行政官たちは、三十七号がいかにして“フィル=レグナ”になったのか、その経緯を実はよく知らない。


知っているのは、指導者層だけだ――


それは、彼女が榊原義重と出会い、愛を知り、そして銀海文明の未来に、もうひとつ別の可能性を差し出したからだった。


――


そして、今日。


地球はまだ、完全に見られないほどには荒れ果てていない。

少なくとも、榊原義重のあの古びた四合院では、夜はまだ夜らしい顔を保っていた。


古い壁には斑が浮き、灰色の瓦は静かに沈んでいる。

庭の年老いた木は、傾いた影をあちこちに落としていた。夜風が中庭を抜けるたび、古木の匂いと、わずかな茶の香りと、それから時代が古すぎるのか、人の心が古すぎるのか判然としない、そんな気配がふっと漂った。


部屋の中。


新しく置かれた大型テレビが、まだ光を放っていた。

画面の中では、地球の男女がこの世の終わりみたいに泣き崩れ、劇伴は必要以上に盛り上がっている。まるで挿入歌を一曲まるごと流しきらなければ、愛の偉大さは証明できないと言わんばかりだった。


ようやくエンドロールが終わる。

最後に表示されたのは、


「映像分類:旧時代韓国ドラマ」


という字幕だった。


榊原義重はリモコンを取り上げ、音量を少し下げると、淡々と言った。


「終わったな」


だが隣に座るフィルは、まだ画面を見つめていた。

その表情は妙に真剣で、まるで高度文明の行動モデルでも解析しているかのようだった。


二秒ほどしてから、彼女は小さく言った。


「実に感動的でした」


榊原は横目で彼女を見る。


「どこがだ。ただ同じ場面でぐるぐる回っていただけにしか見えなかったが」


「感動的なところはたくさんありました」

フィルはいたって本気で答えた。

「男が女を追うには山ひとつ分の隔たりがあり、女が男を追うには薄絹一枚の隔たりしかない。地球人の両性間における言語体系は、なかなか興味深いですね」


榊原はしばし黙った。


「さっきまで、たいして面白くないと言っていなかったか」


「前半は確かに凡庸でした」

フィルは顔を向け、まるで学会報告でもするような落ち着いた口調で続けた。

「ですが後半、二人が“最後の一線”を越えてから、全体の劇的張力は明らかに上昇しています」


榊原の手が止まる。


彼は湯呑みを卓上に戻したが、何も返さなかった。


今日のフィルは、いつものような高みから見下ろす支配者の顔ではなかった。

どこか少女じみていて、精巧で、無害そうで、その気になれば一言でこの街のあらゆる権限を動かせる存在だということを、つい忘れさせてしまう。


だが、そんな顔のまま、何でもないことのようにこういう台詞を口にできるからこそ、なおさら厄介だった。


榊原は彼女を見て、ふと思った。

銀海文明がここまで来られたのも、たぶんまったく理由がないわけではないのだろう、と。


ある種の文明が厄介なのは、冷酷だからではない。

人間を学び始め、しかもその学び方が必要以上に真面目すぎるからだ。


外では風の音がかすかだった。

四合院の中に、しばし静寂が落ちる。


先に口を開いたのはフィルだった。


「あの“ゲート”は、閉じましたね」


榊原は低く応じた。


「そうだ」


「残念ですか?」


榊原は半ば開いた木戸の向こう、夜に沈んだ小さな庭を見やりながら、淡々と言った。


「惜しいものはある」


「何がです?」


「昔の親類も、友人も、旧部下も……」

そこで一度言葉を切り、続けた。

「それに、おまえもな」


フィルの目がわずかに揺れる。


こういうとき、彼女はめったにすぐには返さない。

返せないのではない。

わかっているのだ。こういう言葉に即座にかぶせれば、どうしても軽くなる。


だから彼女はただ彼を見つめ、しばらくしてから話題を変えた。


「黒川首席には会いました」


「知っている」


「私を見る目が、ずいぶん強かった」

フィルは考え込むように言った。

「単なる警戒ではありませんでした。むしろ、私を解体して中身まで見たがっているような目でした」


そしてふと首を傾げる。


「あなたと、彼は何か因縁でも?」


「ない」


「なら、どうして彼はあなたのそばにあるものすべてを、あそこまで憎むのでしょう?」


榊原はかすかに苦笑した。

笑いと呼ぶにも足りないほど、淡いものだった。


「権力の主人になりたがっているくせに、自分がとっくに権力の奴隷になっていることに気づいていないからだ」


フィルは静かに頷いた。

その言葉に、心の中でそっと点数をつけるように。


それから、また尋ねる。


「それなのに、“人類最後の保護機制”を彼に託したのですか?」


榊原はようやく彼女のほうを見た。

驚きはなかった。

最初から、彼女が何もかも知っていることを承知していたような目だった。


「そういう男に渡すからこそ」

彼は静かに言った。

「おまえたちに対して、いちばん効く」


フィルは小さく声を落とした。


「それは、確かに」


その口調に不快さはない。

むしろ、率直な納得があった。防がれる側、警戒される側であることは、彼の一手が見事だったと認める妨げにはならないらしい。


もっとも、“人類最後の保護機制”は、ひとつしか作れないものではない。


そのことを、二人とも口にはしなかったが。


部屋の灯りは鈍く黄みを帯び、二人の影を長く引き伸ばしていた。


榊原がふいに小さく息をつく。


「ただ、思っていたより早かった」


彼が何を指しているのか、フィルにはすぐわかった。

その目に、珍しく素の驚きが浮かぶ。


「あなたは、“ゲート”が閉じることをいちばん望んでいたのでは?」


「そうだ」


「なら、何を嘆くのです?」


榊原は少し沈黙してから答えた。


「黒川致遠は、この先必ず粛清に出る」


「私に関わった者も、私の側に立った者も、ただ私と言葉を交わし、あいつに顔を覚えられただけの者でさえ……無事では済まん」


そこまで言って、ようやく彼は彼女を見た。

その視線は深いのに、重くはない。

生きすぎ、見すぎた人間が、詫びることすら軽く置けるようになった、そんな眼差しだった。


「私はもう老いた」

彼は言う。

「先も長くない。それでも、おまえまで巻き込んだ」


フィルは彼を見て、ふっと笑った。


「ようやく、私を気にかけていると認めましたね」

その笑みは濃くない。だが、めずらしくやわらかかった。

「あなたの口から、私を大事に思っていると二度も聞けるなんて。なかなかありません」


そして続ける。


「でも、私はあなたたち人類の言葉で、好きなものがあるのです。聞きたいですか?」


榊原の眉が、ごくわずかに動く。


「どんな言葉だ」


フィルは、ひどく落ち着いた声で答えた。


「鶏に嫁げば鶏に従い、犬に嫁げば犬に従う」


榊原は黙り込んだ。


戦場も、政局も、文明衝突もくぐり抜けてきた一生だった。

どんな馬鹿げたものも見てきたつもりだった。

だが、自分の古い四合院で、異星文明の上位者が、これほど大真面目な口調で地球の俗諺を口にするのを聞かされると、さすがにどこから反論してよいのかわからない。


彼女の気持ちは、わかっている。

だからこそ、真っ向から退けたくはない。

だが同時に、退けられるなら退けてしまいたかった。自分から早く離れてくれればいい、と。


私情で言えば、フィルが囚われの身となり、辱めを受け、すり潰されていくのは見たくない。

公の立場で言えば、銀海文明の高位者を、このまま野に放つのも業腹だった。


長い沈黙の末、榊原は話を逸らすことしかできなかった。


「だから、そんなものばかり熱心に見ているのか」


フィルは彼の葛藤を見抜いていたが、腹を立てることもなく、その話題に乗った。


「恋愛ドラマには価値があります」

表情はあくまで真面目だ。

「少なくとも、人類がなぜ完全に非合理な状況で、長期的に見ればむしろ安定に資する選択をしばしば取るのか、その理解には役立ちます」


「それは褒めているように聞こえんが」

榊原は少し首をかしげた。フィルが無意味なことを言う女ではない。それだけに、今回は含意を読み取りきれなかった。


「最初から褒めてはいません」

彼女は平然と言った。


榊原は彼女を一瞥し、湯呑みを手に取ろうとして――ふと何かに思い当たる。

閃きは、あまりに速かった。


ゆっくりと茶杯を置き直し、彼女を見た。


「まさか、おまえ……」


フィルの目に淡い笑みが差す。


「気づきましたか?」


珍しく回りくどい言い方をせず、彼女は素直に明かした。

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