人類上層(2/2)
黒川は横目で彼女を見た。警戒もなく、淡々と答える。
「簡単だ。全面抗争に入る」
「後ろ盾を失った以上、おまえたちの勢力はそう遠くないうちに一掃できる」
まるで、些末な事務の話でもするような口ぶりだった。
どれだけ死傷者が出ようと、机の上に積まれた書類の一枚と変わらないと言わんばかりに。
「私たちを……殺すのですか?」
その瞬間、六一六号は思った。
目の前の男は、自分たち銀海文明より冷たいのではないかと。
それは闇がもたらす冷たさだった。
「殺す?」
黒川は軽く嗤った。さっきの微かな震えも、彼は見逃していなかった。
「まさか。そんなことをすれば、星際法に口実を与えるだけだ」
彼は彼女を見つめる。
「どれだけ犠牲を払おうと、私は必ず生け捕りを命じる。そして軟禁する。……そのうえで、見せる」
彼の眼差しはゆっくりと熱を帯びていき、最後の言葉だけが異様に柔らかく落ちた。
「場合によっては、収蔵する」
六一六号はしばらく黙り込み、前後の文脈をつなぎ合わせてようやく彼の構図を理解した。
「この動乱を鎮めたあなたが、英雄になるのですね」
黒川は頷いた。
「もともと私は、次代の大統領にもっとも近い位置にいた」
「そのうえで、この動乱が加わる」
彼は語尾を引き延ばす。
「私は歴史上、もっとも強い権力を持つ大統領になる」
その狂熱を帯びた顔を見て、六一六号はふいに尋ねた。
「それは……あなたが悪人だということですか?」
黒川はまた笑った。
六一六号の問いは、妙な具合に彼を冷静に戻してくれる。そしてそれに答えることが、彼にはたまらなく愉快だった。
「善悪は相対的なものだ」
「地球人類にとって、榊原 義重は善だろう。だが私にとっては、あれは悪だ」
「あるいは、おまえたちが地球を植民地にしようとしていることは、人類にとっては悪だろう。だが私にとっては――」
黒川はワイングラスを持ち上げた。
「これ以上なく、善だ」
六一六号は再び沈黙した。
処理すべき情報が、まだ多すぎた。
黒川も急がない。酒を口に運びながら、じっと彼女を眺める。
銀海星人は、やはり精巧だ。
六一六号は、フィル=レグナのような、歳月と権勢が染み込んだ艶やかさには及ばない。だが代わりに別のものを持っている。
清潔。
単純。
ほとんど空白。
まだ何も書き込まれていない紙のようだ。
そしてそういう紙は、老境に差しかかり、長く抑圧されてきた人間にとって、妙に魅力的に映るものだ。
六一六号がまた問う。
「では、榊原将軍は?」
黒川は淡々と答えた。
「大勢が決したあとで……反逆の罪を着せる。そして裁く」
六一六号はわずかに目を上げた。
信じがたい、という顔だった。
銀海文明の側の人間である自分ですら知っている。榊原 義重は侵略に対する最大の障壁だった。その男が、人類自身の手で反逆者にされる。
黒川は独り言のように繰り返す。
「そうだ。反逆罪だ。衛星軌道定位砲を独断で使用した。――それだけでも死罪には足りる」
だが、それでもまだ物足りないのか、声をさらに冷たく伸ばした。
「本人だけじゃない。家族、友人、旧部、関係者。榊原に連なるすべてを裁く」
六一六号は息を呑んだ。
黒川の顔は次第に、むき出しの醜悪さを帯びていく。
彼女はそこで初めて、一つの感情のようなものを知った。
巨大で、
暗くて、
深海のようなもの。
それが何という名なのかはわからない。
だが、ひどく強い。
心拍が速くなるほどに。
そして黒川は最後に、鋭く言い切った。
「あいつが死ななければ、私は安心できない」
六一六号は珍しく、乾いた喉を鳴らした。
「では……榊原将軍は、権限を渡す相手を誤ったのですか?」
その問いに、黒川は彼女を見た。
そしてまた、ふっと笑った。
その激しい感情の落差に、六一六号は目を見張る。
「本気で、あの男が気づいていなかったと思うのか?」
黒川は再び窓の向こうの街を見た。
その口調には、どこか惜別めいたものが滲む。
「私たちは、一生をかけて争ってきた」
「権限を渡せば、自分がどうなるか。あの男は、よく知っていた」
「それでも、あなたに託した」
六一六号にはやはり理解できない。
話を聞けば聞くほど、榊原 義重のような人間がわからなくなる。
黒川は答えた。
「おまえたち銀海文明を相手にするなら、私のような人間こそが最適だと、あいつは知っていたからだ」
「それに、あいつは――榊原 義重だからだ」
黒川は不意に大笑いした。
それは自嘲にも聞こえたし、これから先、自分の楽しみが少し減ることを惜しんでいるようにも聞こえた。
天と闘い、地と闘い、榊原 義重と闘う。
これほど長い年月、もっとも憎みながら、同時にもっとも自分を理解していた相手もまた、あの男だった。
盤上の勝負は、ついに最後の一手へ到達した。
もう今後、ああいう目で自分を見抜く者はいないだろう。
あれほど強く自分を押さえつけ、追い込み、別の人間を演じさせる者も、もう現れない。
胸の奥の熱が、さらに強く燃え上がる。
それは野心でもあり、欲望でもあった。
黒川は低く呟く。
「榊原 義重よ、榊原 義重……せめてこの一杯で、見送ってやろう」
そう言って、彼はグラスの赤ワインを一息に飲み干した。
六一六号は、そんな黒川を見つめていた。
この男の感情には、悪意の冷たさがある。
なのに火でもあり、深淵でもある。
何もない冷たい闇の中でさえ、火はこんなにも美しく燃えるのだと、彼女は初めて知った。
そして彼女の中にも、奇妙な興奮が芽生える。
その感覚はやがて、肉体にまで降りてきた。
彼女は憧れにも似た眼差しで黒川を見つめ、しばらくしてから、静かに言った。
「今のあなたの目は――」
六一六号は少し言葉を引き延ばす。
「欲望に満ちています」
黒川は否定しなかった。
ただグラスを置き、一歩、また一歩と彼女の前まで歩み寄る。そして低く問うた。
「緊急対策会議室から私を連れ出すとき、君は私に何と言ったか。覚えているか?」
六一六号は頷く。
「『はじめまして、黒川首席。私はあなたのあらゆる指示に従います。残りの問題を処理するため、ご帰宅に同行いたします』――そう申し上げました」
「“あらゆる”?」
黒川はその言葉を反芻するように繰り返した。声が少し低くなる。
「はい」
「私的な問題も含めて?」
六一六号は目を逸らさず、答えた。
「はい。含みます」
黒川は手を伸ばし、彼女を抱き寄せた。
掌が触れたその瞬間、彼ははっきりと自覚した。
自分はあまりに長く、抑えつけられてきたのだと。
権力だけではない。
報復だけでもない。
盤上を取り返した爽快感だけでもない。
もっと原始的なもの。
食。
色。
支配。
略奪。
所有。
それはあらゆる人間の最底部に眠る、古い本能だ。
一生、規律に押し潰されたまま終える者もいる。
だが、機が熟した瞬間、ためらいなく解き放つ者もいる。
今、榊原 義重はもう彼の前にいない。
彼を押さえつける者は、誰もいない。
そして目の前の銀海星の女もまた、彼にとって単なる女ではなかった。
勝利の証明にもなる。
利用価値のある道具にもなる。
飾り、使い、誇示できる戦利品にもなる。
そして何より今夜、真っ先に徹底して自分のものにしたい対象だった。
「抵抗するか?」
黒川は低く尋ねた。
六一六号はわずかに首を傾げ、本当にその問いを考えているようだった。
二秒ほどしてから、答える。
「あなたが望むなら」
そして続けた。
「人間の中には、そのほうがより興奮する者もいると聞いています」
黒川は声を上げて笑った。
そのまま彼女を抱き上げ、奥の寝室へと歩いていく。
この夜、春の気配は艶めいていた。
窓の外では、街の灯が海のように揺れている。
遠くの都市はいまだ混乱のさなかにある。
だがこの豪奢な邸宅の中では、未来の独裁者がひとり、生まれつつあった。
そして銀海文明もまた、この夜初めて真に学ぶことになる。
――人類というものを。




