人類上層(1/2)
夜は深い。
夜の帳が街の上に落ちるたび、首席執政官――黒川 恒一の邸宅は、いっそう眩しく灯りを放つように見えた。
この私邸は、都市でもっとも高価な一角に建っている。
広大な芝生は幾何学模様のように刈り揃えられ、中央の噴水は絶え間なく水を循環させ、白い彫像が霧の中に佇んでいた。どれも一目で、高価な品だとわかる。
金。
権力。
名声。
そうしたものが、この場所には丹念に陳列されている。
黒川は二階、寝室につながる書斎の大きな窓辺に立ち、遠くの街の灯を見下ろしていた。
都市全体が、一つの盤面のようだった。
見下ろし、操り、掌握する。
黒川はこの感覚を好んでいた。
権力とは、本来こういう高さにあるべきものだからだ。
室内には重厚な絨毯が敷かれ、壁には複製の名画が掛けられ、酒棚には高価な酒が並んでいる。
黒川は年代物の赤ワインを一本取り出し、ゆっくりとグラスへ注いだ。
今夜は気分がいい。
実に、すこぶるいい。
そのとき、背後で足音がした。
一人の銀海星の女が、書斎へ入ってくる。
その歩みは静かで、簡潔で、まるで一歩ごとに同じ一本の線を踏んでいるかのようだった。
書斎に入ると、彼女は軽く一礼し、恭しく言った。
「黒川首席」
澄んだ声だった。
立ち居振る舞いは、完璧に訓練された秘書のようでもある。
だが顔を上げ、黒川が興味深そうに自分を見ているのを認めた瞬間、彼女は目の前の男の空気が、これまでと大きく変わっていることに気づいた。
彼女は黒川を観察し、言う。
「黒川首席、あなたの目つきが変わりました」
黒川は小さく笑った。
「どう変わった?」
「戦利品を見るような目に」
彼女は事実をそのまま口にした。
黒川は答えず、逆に尋ねた。
「君に名前はあるのか?」
美しい銀海星の女は首を振る。
「ありません。私は第六陣で地球に来ました。識別番号は六一六号です」
その言葉を聞き、黒川は頭の中で軽く計算した。
「銀海星からの最後の移民は十五年前、第五陣だったはずだ。……ということは、君はあの“門”を通って来たわけか?」
六一六号は頷いた。
「はい」
黒川はグラスを持ち上げ、中のワインをゆっくり揺らす。
琥珀を帯びた赤が、照明の下で鈍く光った。
「では、その“門”が閉じたことは知っているか?」
六一六号はわずかに目を見開いた。
明らかに、その情報を知らない。
それどころか、自分が監視と同行を続けていたはずのこの男が、なぜ自分より先にその情報を掴んでいるのかも理解できていない。
その動揺を見て取ったのか、黒川は淡々と言った。
「心配しなくていい。少なくとも君相手に、わざわざ嘘をつく必要はない」
つい先ほど、彼の部下は天城琉璃と白石紀惠の身柄を確保した。
聞き出すべきことは、すでにおおむね聞き出している。
黒川は彼女を見つめ、ゆっくり言った。
「つまり今、おまえたちの拠り所は消えた」
書斎が一瞬、死んだように静まり返る。
六一六号はそこに立ったまま、退きもせず、取り乱しもせず、ただ新たに投入されたデータを、まだ分類しきれていない端末のような顔をしていた。
ややあって、彼女は一言だけ返した。
「それで?」
その反応に、黒川は驚かなかった。
銀海星人にとって馴染み深い言語は、効率、秩序、執行だ。回りくどさや含み、言外をもう一層聞き取るようなやり方は、もともと得意ではない。
まして、まだ名前すら持たない銀海星人なら、なおさらだ。
黒川は正面から答えず、話題を変えた。
「昨夜、榊原 義重が“人類最後の保護機制”の権限まで、私に預けた。あれがどういう意味か、君にはわかるか?」
六一六号はもちろん、最後の五星上将・榊原 義重の名を知っていた。
あの男は、フィル=レグナでさえ本気で相対せざるを得ない人類だった。
六一六号は少し考え、きわめて真面目に答えた。
「――榊原将軍が、あなたをとても信頼していた、という意味でしょうか」
その返答が可笑しかったのか、黒川は喉の奥で笑った。
「いや。彼は私にとって最大の政敵だ。三十年以上にわたって、私を押さえつけてきた」
「では、なぜその権限をあなたに?」
六一六号には理解できない。
黒川はすぐには答えなかった。
まず窓の外に目を向ける。まるで遠い昔の亡霊でも見ているかのように。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「私は、あの男を心底では評価している。一生をこの星と人類のために費やした。……彼の眼中にあるのは、ただ大義だけだ」
その声音には、感慨ともつかない複雑なものが混じっていた。
だが次の瞬間、口調が変わる。
「だが、それで何になる?」
黒川の声がわずかに熱を帯びる。
「財のためでもない。権のためでもない。自分だけは清廉潔白、高みに立つ聖人のように振る舞って、下の者たちをひどく窮屈に生かしてきた」
彼は鼻で笑った。
「自分は汁を啜らない。だから他人が啜ることまで許さない」
そこで初めて、言葉の底に抑えきれない毒が滲んだ。
「だから私は、あいつが憎い。何もかもで私を牽制し、何もかもで私に逆らってきた……」
夜の底で、ようやく毒蛇が舌を覗かせたようだった。
六一六号は黙って彼を見ていた。
黒川の言葉を完全には理解できない。だが常に老獪で沈着で、会議室にいるときですら仮面を被っているような男が、これほどあらわに感情を乱す姿を見たのは初めてだった。
それは単純な怒りではない。
長く押し込められていた何かが、ついに裂けたような気配だった。
やがて黒川は吐き出すだけ吐き出すと、またいつもの沈着さを取り戻した。
「失礼。見苦しところを見せた」
六一六号は首を振る。
「いえ。あなたが苦しそうに見えませんでした。ただ、とても興奮しているように見えました」
黒川は一瞬きょとんとし、それから声を立てて笑った。
この女は美しい顔で、実に無垢なことを言う。
それが、妙におかしい。
だが、その無知な白さこそが、銀海文明というものの扱いやすさを、あらためて黒川に実感させていた。
扱いやすい相手ほど、彼は好む。
黒川は軽く息を吐いた。
何もわからない相手では、達成感が薄い。だから少し、わかりやすく言ってやることにした。
「私は賭けに勝ったんだ」
「わざと都市の権限をあっさり手放し、情勢を暴走させた。そうして榊原 義重に、“人類最後の保護機制”を使わざるを得ない局面まで追い込んだ」
黒川の顔には愉悦が浮かんでいる。
「この私のような陰謀家に、陽謀を使わせたのだ。榊原も光栄に思うべきだろう」
六一六号は考え込む。
「ではあなたは、榊原将軍がその権限をあなたに渡すかどうかを、賭けたのですか?」
「それは賭けじゃない」
黒川は即座に否定した。
「来たのがフィル=レグナだと知った時点で、榊原が権限を私に渡すのは確定していた」
「なぜです?」
六一六号にはまだ見えない。
黒川の口元に、意味ありげな笑みが浮かぶ。
「私は知っていたからだ。フィル=レグナが、かつての“三十七号”だと」
そして彼はグラスに口をつけた。
「しかも私は、会議室で実際に彼女をこの目で見ている。……フィルは実に印象的な女だ。ああいう人物と、榊原との間に、何の物語もなかったはずがない」
「そのうえ、榊原は生涯独身だ」
黒川はそこでまた冷たく笑い、勝利を確信した者の顔になる。
「あなたは榊原将軍をよく知っているのですね」
黒川は、まだ世間を知らない子どもを見るような目で言った。
「覚えておくといい。自分をもっとも深く知るのは、家族でも友でも伴侶でもない。たいていは――敵だ」
六一六号はそれを、なるほどと思った。
そしてその言葉を、黙って記憶に刻みつける。
「では、あなたが賭けたものは何だったのですか?」
黒川は遠く、夜の空の彼方を見やった。
「私が賭けたのは――“門”が本当に閉じるかどうかだ」
もし“門”が閉じなければ、権限を失った黒川は引き続き潜伏し、表面上は従順に振る舞うしかなかっただろう。
致命的な末路にはならずとも、彼にとって権限を失うことは、死より耐え難い。
だから賭けた。
都市を丸ごと。
星を丸ごと。
人類の命運ごと。
それでなお、自分がもう一度、盤上の主導権を握る機会を買おうとした。
なぜそこまで張れたのか。
一つだけ、黒川は口にしなかったし、認めたくもなかったことがある。
ここまで重く賭けられたのは、かなりの部分で、彼が榊原 義重を信じていたからだ。
あの老いぼれは、最後の最後でも、人類にとって最善の道を選ぶ――そう信じていた。
そして現実は、彼の想像以上に順調に進んだ。
不思議なものを信じる性質ではない彼でさえ、一瞬、「天命はこちらにある」と思ってしまうほどに。
「その“門”は、たった今、本当に閉じた」
黒川は低く呟いた。
「まさに、天は自ら助くる者を助く、だ」
六一六号には、まだ完全には理解できない。
それでも、黒川の満ち足りた自信と陶酔を見ているうちに、自分の内側の感情まで、じわじわと高ぶっていくのを感じていた。
この男の中には、危険で、明るく、周囲をも巻き込んで燃え広がる火がある。
ほんのわずかだが、それだけで彼女の中にほとんど存在しなかった揺らぎまで、形を変え始めていた。
彼女は初めて、一人の人間がこの先何をするのかに、期待を覚えた。
「それで、これから何をなさるのですか?」




