曲終人散(きょくしゅうじんさん)(3/3)
「報告。星門本体に異常信号の逆位相干渉を確認」
「E-0の出力、閾値を超過」
「星門通路の維持状態、正常」
「通路内の違法ノード、崩壊中――」
一人の検知員が言葉を切った。
なおも信じ難いのか、間を置いてから続ける。
「確認完了。違法ノードは消失。地球側と本星域を結ぶ暗口接続は――中断されました」
さらに内側に張られていた、ほとんど透明に近いフィールドが、ふいに左右へ退いた。
接引中枢の深部から、一本の光橋がまっすぐ伸びてくる。
銀海文明の指導者が姿を現したのは、そのときだった。
彼は遠方から駆けつけてきたのではない。
むしろ最初からこの中枢のさらに奥にいて、異常が“自ら見るに値する”と判断された時点で、ようやく人々の視界へ歩み出てきたようだった。
光橋をゆっくり進む。
その後ろには数名の行政官。
幾筋ものデータが半空間へ静かに展開し、彼の歩みに合わせるように、また音もなく閉じていく。
周囲にあったあらゆる微細なざわめきは、指導者が現れた瞬間から、少しずつ沈静していった。
ゾルもまた、無言で脇へ退く。
一人の行政官が横で報告を継続した。
「確認済みです。現在、掌握権限下にある都市は地球全表面積のおよそ三割」
「追加要員の補給がない前提で、現有要員のみを用いて地球人類と局地的長期対抗を行った場合、最終的な全面占領成功率は約四割」
「ただし、地球人類が全面抵抗に移行した場合――」
そこで検知員は一拍置いた。
「全面占領の成功確率は――ゼロです」
報告を聞いても、指導者の表情には何の変化もなかった。
その結果は、驚くに値しない。
喜ぶほどのことでもない。
そう語るかのように。
彼はただ静かに前へ進み、明の前で足を止める。
倒れた少年を見下ろし、淡々と口を開いた。
「子よ。お前は私に、意外をもたらした」
一瞬、周囲が静まり返る。
あまりにも軽い一言。
だが、どんな叱責より重かった。
指導者は二秒ほど彼を見つめ、やがてゆっくりと言った。
「ゆえに、私はお前を残すことにした」
周囲の行政官たちの目が微かに変わる。
見守っていた銀海星人たちの間にも、小さなどよめきが走った。
理解できないというように、無意識に顔を見合わせる者もいる。
通常、感情閾値を超過したのちに初期化された個体に対し、最も効率的な処理は――廃棄だ。
それは残酷だからではない。
生産規格だからである。
人類は言うまでもない。
たとえ銀海星人であっても、産出を失った個体に保持価値はない。
修復するより、
新しい個体を一から育成したほうが、はるかに合理的だからだ。
指導者の決定は、明らかに彼ら自身の文明が長く守ってきた原則に反していた。
だが指導者は説明しなかった。
独白のように言葉を落とすだけだ。
「お前は幾度も、意外をもたらした」
「ならば今後もまた、我々に新たな意外を運ぶかもしれない」
その口調は平板だった。
可能性を述べているだけのようでいて、まだ形にならぬ期待のために、空席を一つ残しているようでもある。
「仮にそれがなくとも」
彼はさらに淡々と続けた。
「十六年、待てば済む」
誰も口を挟まない。
だが、この言葉の意味が分からぬ者はいなかった。
十六年かけて、白石明のような“意外”を孕んだ個体を、再び育て上げることは難しくない。
あるいは、地球側で同等のE-0をもう一体育成することも、同じく十六年で足りる。
指導者は視線を横へ向けた。
「セイ=リュア」
声は大きくない。
だが、それだけで空気がさらに一段静まった。
「前へ」
「今こそ、お前の名に与えられた責務を果たす時だ」
群衆の後方から、一つの影がゆっくりと歩み出た。
セイ=リュア。
髪色は深海を思わせる銀藍。
冷たい光の下ではごく淡い青を返し、静止すれば夜の海のように見え、歩けば水流そのもののように揺れる。
その瞳は、中心が黒く、外縁をごく細い銀環が囲んでいた。
人を見るというより、走査する視線だった。
額の中央には、垂直に刻まれた銀海の印。
極細の銀線の内側を、淡い光がゆっくりと流れている。
身にまとう継ぎ目のない長衣は、液状金属のように垂れ、裾には流線形の波紋が走っていた。
王冠はない。
杖もない。
だが、彼女には“名”がある。
セイ=リュアという存在そのものが、冷静に稼働する一つの文明中枢のようだった。
そして何より、見る者の胸をひやりと震わせたのは、その顔立ちである。
天城琉璃と、九割方同じだった。
ただ似ているのではない。
もっと不穏な近さだ。
同じ鋳型から、完成時期だけを違えて造られた二つの成果物。
そんな印象を与えるほどに。
セイ=リュアは指導者の傍らまで来ると、わずかに頭を垂れた。
「はい、父上」
指導者は地に伏した明を見下ろし、静かに命じる。
「今日より、お前がこの子を養育せよ」
一拍置く。
「母となり、友となり、必要であれば伴侶にさえなれ」
その一言に、傍らの銀海星人たちの視線が、再びごくわずかに揺れた。
指導者の末娘であるセイ=リュアは、しかし何一つためらわなかった。
ただ頭を垂れ、答える。
「承知しました」
彼女は前へ歩み出る。
速くもなく、遅くもない歩みだった。
あたかも、最初から任務の全容を把握していた者の足取り。
実際、その通りだった。
白石明。
天城琉璃。
白石紀惠。
この三人に関するデータ、感情曲線、相互作用記録、会話傾向、依着モデル――そのすべてを、彼女はすでに完全に読み込んでいる。
銀海文明のデータベースの中で、彼らの苦痛も、葛藤も、接近も、引力も、すべては分解され、タグ付けされ、分類済みだった。
セイ=リュアは信じている。
資料に従い、一語一句違わず再現すれば、任務は問題なく達成できると。
そのとき、地面の明が不意に動いた。
自然な覚醒ではない。
むしろ、生まれたばかりの生物が外界の刺激へ示す、本能的な反応に近かった。
睫毛が微かに震え、
ゆっくりと目が開く。
だが、その目は空だった。
警戒もない。
怒りもない。
悲しみもない。
“白石明”という人間が、かつて存在していた痕跡すら、そこには見当たらない。
まるで見知らぬ世界へ突然投げ込まれ、“自分”とは何かさえ分からぬまま取り残された存在。
次の瞬間、彼の喉から、低く掠れた泣き声が漏れた。
大きくはない。
だが、生まれたばかりの赤子が、初めて見知らぬ環境の恐ろしさと、自分の無力を思い知らされたときのような、助けを求める本能の声だった。
彼は立ち上がろうともした。
だが、手足を宙へばたつかせるばかりで、どうしても起き上がれない。
最も単純な動作さえ忘れてしまったかのように、背を床へつけたまま、その場で身体をよじる。
白石明は、まるで今この世界へ生まれ落ちたばかりの人間のようであり、
同時に、この世界によってすべてを奪われた直後の人間のようでもあった。
そこへ、セイ=リュアが歩み寄る。
その瞬間、明の泣き声がぴたりと止まった。
彼は彼女を見る。
何か曖昧で、原始的な感覚が、彼女の中にあるものを捉えたのだ。
なつかしさ。
安定。
寄りかかっていい温度。
遠くに残った、かすかな影のような何か。
だが彼は、それが誰なのかも、それが何を意味するのかも、もう言葉にできない。
ただ「あ……う……」と幼子のような声をこぼすばかりだった。
それどころか、目を見開いたままセイ=リュアを見つめ、
やがて、ひどくゆっくりと手を伸ばす。
指先が、彼女の裾に触れる。
そして、軽く引いた。
セイ=リュアは彼を見下ろした。
その顔には、天城琉璃に酷似しながら、なおいっそう静かで、なおいっそう精密な、人工めいた穏やかさがある。
やがて、そこに柔らかな笑みが浮かんだ。
整いすぎた笑みだった。
穏やかで、やさしく、
そして“正しい”。
彼女は身をかがめ、明を抱き上げる。
その動作は、あまりにも安定していた。
あまりにも軽かった。
本物の赤子を抱くように。
明は彼女の胸へ抱き寄せられると、すぐに静かになった。
本能的に顔をその胸元へ埋める。
光を怖れるように。
あるいは、ようやく寄りかかれる熱を見つけたかのように。
呼吸も、少しずつ落ち着いていく。
セイ=リュアは彼を抱いたまま、背を軽く叩いてあやした。
そして顔を伏せ、柔らかな声で囁く。
「大丈夫」
その声はやさしかった。
慰撫のようでもあり、
同時に馴致の始まりのようでもあった。
彼女の腕の中で、明は目を閉じる。
ようやく恐怖を感じなくなったのか、そのまま安らかな眠りへ落ちていった。
ただ――もう誰にも分からない。
いま静まったのが、救われた一人の人間なのか。
それとも、完全に“自分”を失った空洞なのか。
「あなたの名前は、明」
セイ=リュアは眠った明の耳元で、かすかな期待を滲ませながら囁く。
「光の、明」
銀海星の冷たい光が、二人の上へ静かに降りていた。
音もなく、揺らぎもなく、
潮が礁を呑み込むように。
“門”は、もう閉じた。
だが銀海文明にとって、それは終わりではない。
次なる実験の、始まりにすぎなかった。




