曲終人散(きょくしゅうじんさん)(2/3)
機会は一度きり。
銀海文明に警戒されれば、もう二度と届かない。
紀惠は、立ち尽くしたままの明を見て、強張った声で呼ぶ。
「明?」
明は顔を上げ、静かに言った。
「母さん、先に行って」
ようやく我に返った者が、何でもないように振る舞う声音だった。
紀惠は一瞬だけ違和感を覚えたが、それでも前へ歩きながら呼びかける。
「明――」
「大丈夫。先に出よう」
明は二人の後ろへ回り込み、紀惠の背を軽く押した。
「帰ってから話そう」
声は高くない。
だが、普段よりも妙に落ち着いていた。
その落ち着きが、かえって胸を冷やした。
先頭で星門をくぐった琉璃は、振り返って二人を迎えようとした瞬間、何気なく明を一瞥した。
たった、それだけだった。
その一瞬で、彼女の瞳孔がわずかに縮む。
――何かの前兆。
紀惠が星門へ足を踏み入れた、その次の瞬間。
琉璃は気づいた。
推理ではない。
さっきの会話でもない。
もっと原始的な、本能そのもののような直感だった。
電光のように、明が何をしようとしているのかを理解してしまった。
「だめ!」
喉の奥から無理やり絞り出したような声。
低い。
だが、これまで見たこともないほど切迫していた。
明はようやく、まっすぐ彼女を見た。
その眼差しには、複雑な感情と――やはり君には隠せない、という諦めがあった。
琉璃もまた彼を見つめ返す。
さきほど無理やり押さえつけていた揺らぎが、もう抑えきれない。
「あなたは、だめ」
言葉を一字ずつ、噛みしめるように告げる。
そこでようやく紀惠も、星門の中で半歩進んだところで異変に気づいた。
顔が、さらに真っ白になる。
「明!」
声が一気に掠れる。
「何をする気なの!? 一緒に来なさい!」
明は二人を見た。
唇がかすかに動く。
だがすぐには言葉にならなかった。
――ようやく、分かったのだ。
ゾル=リンの合法星門、そのものには干渉できない。
だが、この合法星門が地球と再接続するその瞬間なら、さらに深部に隠れている違法通路――かつて自分と琉璃が無意識のうちに開いてしまった暗口へ触れられる。
その“門”は星際法の監督外にある。
だからこそ、残り続ける限り、永遠に銀海文明が地球へ侵入する裏口となる。
そして今、自分は銀海星側に立っている。
それは同時に、暗口の“内側”に立っていることと同義だった。
地球側で門を開けたのなら――銀海星側から門を閉じることもできるはずだ。
明は琉璃を見た。
それから紀惠を見る。
視線が二人のあいだで、ほんの一瞬だけ止まる。
呼吸ほどの長さ。
けれどその一瞬に、人生のすべてを押し込めたかのような重みがあった。
やがて彼は、低く言った。
「琉璃」
その名を聞いた瞬間、琉璃の全身が何かに激しく打たれたように震えた。
明は彼女を見つめ、穏やかすぎるほど穏やかな声で告げる。
「しっかり守ってくれ――僕たちの、お母さんを」
紀惠の目が、瞬時に赤く染まる。
涙が堰を切ったように溢れた。
彼女はすぐさま手を伸ばす。
「だめ! 明! こっちへ来なさい! 早く、来なさい――!」
ほとんど同時に、琉璃も前へ踏み込んだ。
明の腕を掴み、そのまま星門の中へ引きずり込もうとする。
だが明は、その一歩先で半歩だけ後ろへ退いた。
たった半歩。
それでちょうど、合法星門の境界の外へ出た。
次の瞬間。
胸の奥、皮膚の下に沈んでいた紋様が、一気に光を放った。
柔らかな光ではない。
銀海文明のような、安定と秩序に支えられた冷たい光でもない。
制御を失いかけた灼光だった。
十六年間、押し殺し、耐え、否定し、それでも決して消えなかったものすべてが、この瞬間、一斉に燃え上がったかのように。
眩い。
まるで太陽そのものだった。
紀惠の泣き声が、喉の奥で途切れる。
琉璃の瞳孔が収縮し、声を失ったように叫ぶ。
「明――!」
だが、その姿はもうよく見えない。
最初に揺れたのは、ゾル=リンの前にある安定した合法星門ではなかった。
合法星門のさらに奥。
肉眼では捉えられない、通路構造の深部だった。
合法星門の光は、ただわずかに震えた。
静かな水面を、深い底から何かが一度だけ突き上げたように。
次の瞬間、本当の崩壊が、地球へ接続するその通路を逆流するように駆け上がってきた。
強光の中で明は感じていた。
自分が誰よりよく知る、あの“門”が応答しているのを。
ゾルが開いた星門ではない。
もっと前に。
自分と琉璃が、何も知らぬまま、混乱の中で開いてしまった“門”。
暗口。
違法通路。
それが今、通路の深部から無理やり引きずり出され、明の意志によって、一寸ずつ閉じられていく。
空気が震え始めた。
周囲のフィールド表面を、大量の乱れた銀色ノイズが走る。
足元の床からは、極めて細く、鋭い破断音が生まれた。見えないガラスが無数に同時破砕していくような音だった。
合法星門そのものは、まだ保たれている。
だが、深海の激流を正面から受ける薄い鏡のように、光流は不安定になり、門縁は絶えず振動していた。
そのさらに奥。
通路網の中に隠されていた暗口を、明の胸の灼光が強引に捕まえている。
光が、さらに強くなる。
眩しすぎるほどに。
明の身体は明らかに震え始めていた。
恐怖ではない。
限界を超えた先で、肉体そのものが負荷に耐えられなくなっている反応だった。
何かが、自分の内側から急速に抜け落ちていくのが分かる。
燃料として。
記憶。
感情。
認知。
名前。
母とともに生きた十六年。
監視の球の下で育った抑圧。
自分という存在が“ない”のだと気づいたときの寒気。
琉璃へ抱いた想い。近づき、頼り、心を寄せたこと。
悔しさも、羞恥も、怒りも、ぬくもりも――
そのすべてが、この瞬間、残らず、
あの深部の“門”へ呑み込まれていく。
暗口が閉じ始める。
穏やかにではない。
生き物のように激しく拒み、痙攣し、それでも内側から容赦なく押さえつけられ、封殺されていく。
縁から爆ぜ散るように、銀の粒子が飛び散った。
接引中枢全体が低く唸る。
巨大な歯車が、初めて本来の設計に逆らって回されるような唸りだった。
「明――!!」
紀惠の絶叫が響く。
彼女は星門の向こうへ駆け戻ろうとしたが、門縁から突如噴き上がった斥力に弾き飛ばされた。
琉璃はとっさに彼女を掴む。
腕は強く張り、指の関節は白くなる。
彼女だって飛び込みたかった。
だが誰より分かっている。
今ここで自分が戻れば、明の力を一分でも余計に削るだけだと。
天城琉璃は、この瞬間ほど、自分が冷静であることを憎んだことがなかった。
ただ、星門がゆっくりと薄れ、遠ざかっていくのを見ているしかない――
同時に、明の足元にあるこの高空プラットフォームは、銀海星の上空に孤立して浮かぶ一枚の金属板ではなかった。
そこは、接引中枢最上層の展望環台。
その下方には、空間そのものが巨大な井戸のように中空へひらけ、一層ごとの銀白の環状回廊が井壁に沿って広がっている。各層は光橋とフィールド通路によって接続され、日常的には星門を出入りするすべての対象を、接引し、観測し、査定するための構造だった。
だからこそ、決して狂うはずのない星門通路が高所で激しく震えたとき、その異常はほとんど一瞬で中枢全体へ伝播した。
下層回廊にいた銀海星人たちが、次々と仕事の手を止め、視線を上へ向ける。
井壁沿いに細長い昇降光環が無音で点灯し、一斉に上昇を始めた。
さらに内側では、フィールドに埋もれて見えていなかった一本の光橋が、ゆっくり展開し、まっすぐ明のいる位置へと伸びてゆく。
ゾルは、その場から一歩も動かなかった。
ただ見ていた。
サンプルにすぎず、信号にすぎず、演目を締めくくるための一個の人類の少年にすぎなかったはずの存在が、
最も規格外で、最も理不尽で、しかし最も的確な方法で、この舞台の最終制御権を奪っていく様を。
星門の隙間が、どんどん狭くなる。
明は顔を上げ、門の向こうを見た。
その一瞥こそが、彼の最後の執着だった。
星門通路の内側で、紀惠は涙に顔を濡らし、今にも引き裂かれそうな表情で立ち尽くしている。
琉璃はその傍らで、歯を食いしばり、必死に押しとどめていたものを、ついに堰き止めきれなかった。
雫が次々とこぼれ落ち、視界を曇らせる。
明は、もう何も言わなかった。
何を言えばいいのか、
そもそも自分がなぜ顔を上げたのか、
彼女たちが誰なのか、
そのことさえ曖昧になり始めていたからだ。
頭の中の多くが、引き潮のように遠ざかっていく。
けれどその一瞥の中に、なお残っていたものがある。
別れ。
願い。
そして、自分の中でまだ“白石明”と呼べる最後の断片を、静かに星門の向こう側へ置いていくような、そんな眼差し。
次の瞬間――
深部の“門”が、完全に閉じた。
それと接続していた星門も大きく震え、光流が急激に暗くなる。
続いて、星門通路は本流を断たれた支流のように、急速に収束していき、琉璃と紀惠をそのまま地球側へ押し返した。
――轟。
大きな爆音ではない。
だが骨の内側へ直接響くような重い音だった。
上層の展望環台は、唐突に沈黙した。
明はその場に立ち尽くしたまま、胸の光紋を急速に失っていく。
その消え方はあまりに早かった。
まるで体内の血色をすべて根こそぎ奪われた人間のように。
彼の身体が前へ揺れる。
次いで、膝が折れた。
重く地面へ崩れ落ちる。
手をついた瞬間、その指は、自分がどう力を込めればいいのか忘れてしまったかのように微かに丸まった。
呼吸はある。
心拍もある。
だが、その瞳の奥にかつて燃え、抗い、愛し、憎んでいたものは、もう何も残っていなかった。
まるで世界そのものが、その眼窩の奥から抉り取られてしまったかのように。
彼はうつむき、肩だけがわずかに震える。
動いているのか、止まっているのかも分からない。
肉体だけはまだ生きているのに、その“生”をどう受け止めればいいのか分からなくなった存在のように。
やがて明は、そのまま完全に倒れ、意識を失った。
ゾルはなお、その場に立っていた。
拍手もしない。
近寄りもしない。
ただ、完全に消えた星門と、その前に倒れた明を静かに見つめている。
そして――
彼の目尻が、ごくわずかに熱を帯びた。
一筋の涙が、終始あまりにも整いすぎていたその顔を、音もなく伝い落ちる。
ゾルは一瞬だけ目を見開いた。
自分でも予期していなかったのだろう。
だがすぐに、その口元はまたゆっくりと吊り上がる。
「……素晴らしい」
声は低く、あまりにも軽い。
目の前の、完成されすぎた作品を乱したくないとでもいうように。
「これでこそ」
彼は喉の奥で、小さく笑った。
目にはほとんど恍惚に近い光が宿っている。
「これでこそ、本当の終幕だ」
同時に、下層から上がってきた検知要員たちが外環へ到達していた。




