曲終人散(きょくしゅうじんさん)(1/3)
銀海星。
接引中枢上層の展望環台は、静寂が現実味を失うほどに張りつめていた。
そこは、地球人のいう“部屋”ではなかった。
むしろ、銀海星の上空へそのまま張り出した接引用の高空プラットフォームに近い。
周囲に完全な壁はない。ただ半透明の銀色のフィールドが幾重にも外へ広がり、風の唸りも、気流も、さらに遠く都市の底で響く低い駆動音すら、その外側で遮断していた。足元の床面は、継ぎ目が見当たらぬほど滑らかだった。まるで一塊の銀白色の金属を、そのまま磨き上げて成形したかのように。
さらに遠くには、蜂巣状の構造体が林立し、高塔が波のように連なり、無数の淡銀色の光柱が都市の各所から垂直に立ちのぼっていた。
灯台のようでもあり、永遠に消えることのない何らかの信号のようでもあった。
三人は、その高みへ立っていた。
文明そのものの眼の底に、見下ろされながら立っているようだった。
白石紀惠の顔は青白い。たった今聞かされた話を、まだ完全には呑み込めていない。
理解はした。
けれど、本当の意味で理解してしまうことを、心のどこかが拒んでいるようでもあった。
天城琉璃は傍らで沈黙していた。
その銀の瞳には、初めて、均衡を失いかけたような揺らぎが宿っていた。単なる怒りでもない。悲しみでもない。もっと深い何かだった。――ようやく自分の出自を見つめたと思ったその場所が、最初から“帰る家”などではなかったと知ってしまった者の揺らぎ。
白石明は、二人の半歩前に立っていた。
振り返らない。
まるで自分だけが部外者であるかのように。二人のあいだへ踏み込めば、それだけで何かを壊してしまうとでもいうように。
ゾルはそんな三人を見つめ、目の奥にほのかな満足の色を浮かべていた。
袖口の内側に隠された、爪先ほどの銀色の薄片が、かすかに明滅している。
極細の光紋が幾重にも外へ広がり、水面の波紋のように揺れ、また高度文明によって精密に改造された心電図のようにも見えた。
だが、それが記録しているのは鼓動ではない。
驚愕、悲嘆、憤怒、否認、依恋。
それらが同時に引き裂かれたとき、人の意識が到達し得る極値だった。
ゾルは、ここまでの峰値に達した霊潮能を見たことがなかった。
満足げに目を細め、柔らかな声で言った。
「以上が、この物語の前因と後果です」
一拍おく。
その一言が落ちたあと、三人の心に生まれた、無音でありながら激しい反響を味わうかのように。
「ご満足いただけたなら幸いです」
誰も答えなかった。
その沈黙が、かえって彼の笑みを深くした。
「さて、霊潮能の採取も、そろそろ十分でしょう」
「このサンプルの輝度は、私の予想以上に美しい」
彼は指先で、その銀片をそっと撫でた。
その表面の細い光紋が跳ね上がる。まるで誰かの心臓を、最後に一度だけ強く打ちつけたように。
「悲哀の比率は非常に高い。否認と依恋が互いに引き合い、母性的な揺らぎと代替依着の数値も実に見事だ……」
微笑む。
「おそらく、近年でもっとも満足のいく収蔵品になるでしょう」
その一言に刺されたように、紀惠ははっと顔を上げた。声が微かに震える。
「……それを、あなたは……収蔵品だと言うの?」
「そうでなければ?」
ゾルは穏やかに問い返した。まるで、誰に対しても正直な取引を終えたばかりであるかのように、声音すら礼儀正しい。
「これほど稀少で、これほど完成度の高い感情サンプルです。これほど高密度の霊潮能を、適切に保存しないのは惜しいでしょう」
明の指が、少しずつ固く握られてゆく。
琉璃はゾルを見据えていた。
その視線は、霜が降りるほど冷たい。
銀海文明の知識をある程度持つ二人には、もちろん“霊潮能”が何であるか分かっていた。
科学的に言えば、高度知性体が感情を揺らした際、その意識は測定可能な微細場エネルギーを放出する。
それは単なる化学反応ではない。
「認知――神経――量子結合」によって生じる特殊な波長だった。感情が激しければ激しいほど、意識状態は安定基準線から逸脱し、量子場への擾乱も強くなる。そうして得られる感情エネルギーの密度は高まる。
それだけのことだ。
採取される側の身体に実害はない。
……だが、そこへ至るまでの手口が、二人に強烈な嫌悪を抱かせていた。
それでもゾルは敵意を感じ取っていないかのように、ふっと小さく息をつき、三人へ向かって一礼した。
その所作は、あまりにも完璧だった。
そして、あまりにも癇に障った。
まるで、舞台の終幕に向けたカーテンコールのように。
「もっとも――」
身を折ったまま、彼は目だけを上げた。
唇にはまだ笑みがある。
「もし私が、今までの話はすべて嘘だと言ったら?」
空気が、唐突に張り詰めた。
紀惠の呼吸が乱れる。
琉璃の眼差しは一段と冷えた。
明はゆっくり顔を上げ、ゾルを睨みつけ、一語ずつ叩きつけた。
「……今、なんて言った?」
火山が噴き上がる直前のような声音だった。
ゾルは、ようやく期待していた反応を得たように、目の奥の愉悦をいっそう濃くした。
「あるいは」
ゆったりと、さらに言葉を重ねる。
「今の一言こそが嘘だと言ったら――皆様は、どんなご感想を抱かれるでしょう?」
たった二文。
だがそれは、細く冷たい二本の刃となって、同じ場所へ交錯しながら突き立った。
紀惠の顔から、文字どおり血の気が引いていく。
真実が何度でも裏返され得るのなら。
苦痛そのものすら、相手が興じるための言葉遊びでしかないのなら。
先ほど自分の心を引き裂いたあの痛みは、一体何だったのか。
琉璃の指先も、微かに震えていた。
説得されたからではない。
その逆だ。
この瞬間、彼女は理解したのだ。
銀海文明にとって真実とは、人に手渡すものではない。
真実とは、支配のための道具だ。
霊潮能を採取するための、もう一つの道具に過ぎない。
そして明は、ゾルを見つめたまま、なおも激しく渦巻いていた最後の感情さえ、ゆっくり沈めていった。
ゾルは身を起こし、少し残念そうに言った。
「どうやら私は、人類の言う“ユーモア”というものを、まだ理解できていないようです」
本当に惜しんでいるかのようだった。
まるで観客の誰ひとり、自分の演目を正しく味わえなかったとでも言いたげに。
「ですが、構いません」
彼は片手を上げ、後方へと緩やかに導いた。
「ここまで辿り着いた時点で、すでに十分に完成している」
展望環台の中央で、銀色の星門が再び光を帯びた。
門枠の縁は、平穏で、冷たく、
一度たりとも誤作動を起こしたことがない機械のようだった。
よく見れば、そこには奇妙な神聖さすらある。
柔らかな白光が内から外へ流れ出し、床の上へ細長い道を引く。
その光は静かだった。
静かすぎて、傲慢に見えた。
人の悲喜も離別も、その前ではただ正確に処理されるべき工程の一つにすぎないと、最初から知っているかのように。
ゾルは横へ一歩退いた。
「では、今宵の観劇はこれでお開きです」
「皆様の喜怒哀楽は、すべて滞りなく記録されました」
「これほど完成された姿で終幕へ至るのを見届けられたこと、私にとっても光栄の至りです」
胸元へ軽く手を添え、礼を示す。
「そして銀海文明は、常に約定を重んじます」
「よって、今ここで約束を履行しましょう――三名を地球へ送還します」
紀惠はその星門を見つめたまま、しばらく動けなかった。
ゾルは穏やかに付け加える。
「どうぞご安心を」
「我々は常に、誠実です」
一拍置いて、その声はいよいよ残酷に柔らかくなった。
「何しろ――我々に比べれば、人類の寿命はあまりにも短いのですから」
最初に我に返ったのは琉璃だった。
彼女は紀惠を支え、銀海星に長居できる場所ではないと理解したうえで、低く言う。
「先に行って」
紀惠は、深い茫然からようやく引き戻されたように、反射的に明を見た。
だが明は、すぐには動かなかった。
ただ、じっと星門を見ていた。
ゾルが開いたのは、合法星門。
そのことを明はよく知っている。
それは、自分と琉璃が以前開いた“門”とは別種のものだ。
一方は安定し、完成され、監視下にある。
もう一方は不安定で危険だが、束縛を受けない。
前者が正式な航路図に記されたルートなら、後者は秩序を引き裂いたあとに残る密航の抜け道に近い。
だが本質では、もしかすると同じものなのかもしれない。
星門が起動した、その瞬間。
明は感じ取っていた。
それらは同じ一枚の門ではない。
しかし、同じ“より深い通路網”へ接続している。
正規航路と密航水路は、平時は互いに分離している。
だが、最後に港へ接続するごく短い区間だけは、同じ海域へ落ちる。
そしてその海域には、かつて自分と琉璃が手ずから裂いてしまった痕跡が、まだ残っている……。
明の心が、少しずつ沈んでゆく。
ゾルがこうして余裕をもって自分たちを帰せるのは、そのさらに深部にある違法通路が残っているからだ。
あれが存在し続ける限り、地球は常に危険の中に置かれる。
それがあれば銀海文明は自在に出入りできる。
規則に縛られず、最も都合のいい時を待ち、暗口から再び地球へ侵入することができる。
そして自分は――
自分はE-0。
サンプル。
信号。
最初から、その“門”と接続するよう設計された存在だ。
もし今この瞬間、その深部の暗口へ手を触れられる者がいるとすれば。
それは自分しかいない。
地球を本当に安全にしたいなら。
そう思ったとき、明の中で覚悟はすでに定まっていた。




