番外編:真心の伴い(2/2)
「だからこそ、あの二人の子にはあれほど寛容だったのです。あなた方にも、強制的な処置ではなく、軟禁と監視にとどめていた」
榊原は彼女を見つめる。
「おまえが監視につけた人間、まさか――」
「個別最適化です」
フィルは落ち着いて言葉を継いだ。
「男には女を、女には男を」
言い終えると、さらにひと言付け加える。
「そのほうが接触効率が高いので」
榊原は一度目を閉じた。
銀海文明のあの無駄なく整いきった行政設計の背後に、どれほど不純な個人的趣味が紛れ込んでいたのか、ようやく理解した気がした。
だがフィルはなお続ける。
「私はもうひとつ好きな言葉があります。“近水楼台先得月”というものです」
「……」
「それに」
彼女はかすかに笑った。
「私たち銀海星人の寿命と外見条件を考えれば、理論上、陥とせない城はそうないはずです」
今度ばかりは、榊原も本当に咳き込んだ。
老いた顔に、めずらしく熱がさす。
こんな台詞、他人が言えば冗談で済む。
だが彼女の口から出ると、冗談として片づけるには、あまりに実感がありすぎた。
なにしろ――身に覚えがありすぎる。
昨夜ようやく貞操を失ったばかりの人間は、翌日に当人とそういう議論をするのには、あまり向いていない。
彼の反応を見て、フィルの目の笑みはむしろ深くなった。
榊原は彼女を見ず、低く言う。
「おまえの考えていたのは、これか」
「融合です」
フィルは即答した。
何度も何度も心の中で反芻してきた答えなのだろう。
古びた椅子に腰掛けた彼女の背後には、年季の入った中華風の窓格子。
その瞳には地球の灯りと、もうひとつ、ほとんど空想に近い明るさが映っていた。
「数世代も混血が進めば、みな結局は地球人類でしょう?」
「あなた方は私たちの血を残し、私たちはあなた方の感情と混沌を残す。まずは上から、上層から下へ。単純な植民より、そのほうが安定的で、ずっと長く続くのではありませんか?」
榊原はすぐには答えなかった。
ただ静かに、彼女を見ていた。
かつての三十七号。
今のフィル。
銀海文明の最も冷たく硬い側に立ちながら、それでもなお、こんなほとんど無邪気に見える話を口にする。
荒唐無稽だ。
危うい。
だが同時に、奇妙な光がある。
時間軸を十分に長くとるなら、それは確かに、実現し得る“可能性”でもあった。
しばらくしてから、榊原が問う。
「たとえ、おまえたちが人類を戦利品にし、奴隷として扱ったとしてもか」
フィルは静かに答えた。
「たとえそうでも」
一拍置き、続ける。
「逆もまた同じです。“門”が閉じた以上、地球に残された銀海星人も、やがてあなた方の戦利品、あるいは奴隷になるでしょう。そこが第一歩です」
「そして黒川致遠がいる限り、第二、第三の段階も、きっとすぐに始まる。最後にそれが成るところまで」
その声は安定していた。
残酷さから目を逸らすでもなく、真正面から見据えた声音だった。
「耐えられるのか」
榊原は視線をそらし、彼女をまともに見なかった。
自分にはもう見届けられない。
だがフィルには、その第二、第三の段階を目にする可能性が十分にあった。
旧時代の人類史にあった暗黒の時代のように、人がまるで商品同然に売買され、値踏みされ、処分されるような光景を。
しかも彼女は、それをただ見るだけではない。自らそのただ中を生きることになるかもしれなかった。
フィルは彼の横顔を見つめ、静かに、しかしまっすぐ言った。
「数世代も経てば、必ず誰かが立ち上がります」
「あなたのような英雄が」
その目には未来への憧れと、目の前にいる男への崇敬が、隠しようもなく宿っていた。
「そのとき、古い秩序は覆される。戦利品として扱われた奴隷は解放され、新しい秩序がまた生まれる。世界は、また良くなっていくはずです」
榊原はそれを聞き終えてからも、長いあいだ何も言わなかった。
外では風が梢を撫で、細かな音を立てている。
四合院は古すぎた。
古すぎて、何十年も前の影が、いまだ壁の隙間に残っているようだった。
若い日の理想も、壮年期の策謀も、老年の醒めた目も、この狭い庭の中に同時に居合わせていられるほどに。
そして、目の前のこの女もまた、そうだった。
彼女は愛を覚えた。
その学び方は、決して模範的とは言えない。
むしろ、ひどく危うい。
だが彼と出会ったからこそ、文明には別の可能性もあるのだと信じ始めた――そのことだけは、榊原にも完全には否定できなかった。
ようやく、彼は口を開く。
「おまえの考えは、ずいぶん無茶だ」
「わかっています」
「ひどく荒唐無稽でもある」
「それも、わかっています」
「地球の恋愛ドラマを見すぎた挙げ句、夜中に思いついた政策提案みたいでもある」
フィルは珍しく小さく咳払いした。
「初稿を書いたのは、地球時間に換算すると、たしかに深夜でした」
榊原はしばらく黙ってから言った。
「だが、私は嫌いじゃない。その提案、名前は?」
フィルの目が少し明るくなった。
まるで、彼が尋ねるのをずっと待っていたみたいに。
そして、心に決めた相手から認められたことが、素直にうれしいというふうに。
「“星際長期安定融合および異文明間親縁増進計画”です」
部屋の空気が、一瞬だけ静まった。
庭の風まで、つられて止まったように思えた。
榊原はゆっくりと彼女を見る。
「長いな」
「いっそこう呼べばいい――」
そこで一瞬だけ言い淀む。
昨夜の自分の愚かしさを思い出したのかもしれない。
それでも最後には、ちゃんと言葉にした。
「“近水楼台先得月計画”と」
フィルは一瞬きょとんとした。
だがすぐに目を細め、笑った。
黄ばんだ灯りの下で、その笑みはひどくやわらかく見えた。
彼女が何者なのか、忘れそうになるほどに。
「その名前、私はとても好きです」
「褒めたわけじゃない」
榊原は訂正する。
「でも、褒められたことにしておきます」
そう言って彼女は、ごく自然に手を伸ばし、彼の腕にそっと自分の腕を絡めた。
榊原はただそこに座り、戸の向こうの古い庭を見ていた。
まるで、とっくに終わったはずなのに、どこかでまだ終わっていない時間を見つめるように。
長い沈黙のあと、フィルがふいに低い声で呼ぶ。
「榊原義重」
「……なんだ」
「もし私が、五十年前にこれをわかっていたなら、何かは違っていたでしょうか」
榊原は少し黙ってから、淡々と答えた。
「五十年前におまえがそれをわかっていたら、地球人はとっくの昔に、きれいさっぱり籠絡されていただろうな」
フィルはまた少しだけ目を見開いた。
そしてゆっくりと、笑みが戻ってくる。
「では、それも褒め言葉として受け取っておきます」
榊原は何も返さなかった。
ただ、彼女が腕を絡めたままにしておいた。
四合院の灯りは淡く、夜は静かだった。
古い壁の外では、天下がまもなく乱れる。
だがその壁の内側だけは、ほんのひととき、少しの馬鹿げたものと、少しの打算と、そして誰ひとり認めたがらないまま、それでもついに死にきれなかったやさしさを、まだ抱えていられた。
フィルは彼の傍らにもたれ、小さな庭を見つめながら、ふいにひどくはっきりと悟る。
自分が未来の光を信じようと思えたのは――
たぶん本当に、ただ榊原義重と出会ってしまったからなのだと。




