帰る夜(3/3)
二人が戻ってきたときには、テーブルの上に熱い湯、乾いたタオル、塗装のはげた古い救急箱が置かれていた。
紀惠はまず明を見上げた。
部屋着は少し丈が足りなかったが、少なくとも血と裂け目だらけの服は脱いでいる。そのせいで、肩の擦り傷や青痣がかえって目立った。
紀惠は胸を痛め、また目を赤くしながらも、泣くのをこらえて言う。
「こっちへ来て。見せて」
明が座るとき、動きがわずかに止まった。
紀惠はすぐにその不自然さを察し、手つきをさらに慎重にする。湯で湿らせた布で、首筋や腕の灰、乾いた血を少しずつ拭っていく。傷口に触れるたび、明の指先がかすかに縮む。それでも声は出さない。
「大丈夫だなんて、よく言えたものね」
責めるようでいて、ただの心配だった。
明は目を伏せたまま、母を見られなかった。
一方、琉璃も少し大きめの上着に着替えていた。裾は膝近くまで垂れ、袖も長い。それがかえって彼女をさらに細く見せている。椅子に腰かけた姿はどこか固く、こうして誰かに世話をされることにまだ慣れていないのがわかった。
明の手当てを終えると、紀惠は彼女の方を向いた。
「次はあなた。どこが痛むの?」
「……腕と、膝です」
琉璃は小さな声で答えた。
紀惠は何も聞かない。ただ黙って脱脂綿を取り、傷を拭いていく。最初、琉璃の腕は強く張っていた。本能的に引こうとしているのがわかる。それでも最後には、じっとこらえた。
「痛かったら言って」
琉璃は目を伏せたまま、二秒ほどしてから、ごく小さく応じた。
「……はい」
外では、街全体が無理やり平らにならされた深夜が続いている。
だが部屋の中には、湯気と薬の匂い、布がこすれる微かな音しかない。
手当てが終わると、紀惠は鍋をもう一度火にかけた。
「何も食べてないでしょう」
低く言う。
「まず温かいものを飲んでからにしなさい」
鍋からまた白い湯気が上がる。部屋に漂う生活の匂いも、それに伴って少しずつ立ちのぼった。
明は忙しく動く母の背中を見つめ、胸の奥がじわじわ熱くなるのを感じた。
銀紋の熱とは違う。
もっと純粋で、もっと重く、だからこそ、まともには受け止めきれない熱だった。
やがてテーブルに椀が並ぶ。
汁は薄く、味も乏しい。けれど、縁から立ち上る湯気を見た瞬間、明は目を閉じたくなった。
琉璃も椀を両手で包み込む。湯気で指先が少し赤くなる。
こんな匂いに、これまで特別な意味を感じたことなどなかった。
なのに今は、ひどく温かい。
しばらく、部屋は静かだった。
どれほどか経ってから、ようやく紀惠が勇気を振り絞るように顔を上げ、明を見た。
「今……話してくれる?」
問いはひどく小さかった。
問い詰める調子ではない。
あまりにも多くを失ってきた人が、壊れものに触れるみたいに、そっと真実へ手を伸ばしている声だった。
明は椀を持つ指に少し力を入れた。
もう、話さずに済むことではない。
そうわかって、息をひとつ吸い、今日一日起きたことを大まかに語り始めた。
学校の異変。
地下施設。
追跡。
人間ではない存在。
門。
そして逃走。
母が耐えられないだろう部分、とりわけ深いところは意図的に伏せた。琉璃も横から必要なところだけ短く補い、危険だった部分は少し曖昧に、やわらかくした。
それでも紀惠は、話が進むにつれて手を握る力を強めていく。指の関節が白くなるほどに。
大きすぎる話はわからない。
だが、ひとつだけわかることがある。
自分の息子は、あと少しで帰ってこられなかった。
部屋の中に、長い沈黙が落ちた。
やがて紀惠は、ふいに手を伸ばし、琉璃の手を握った。
琉璃が、はっきりと息を止める。
予想していなかったのだろう。自分がこんなふうに触れられるなど。
制御でもない。
検査でもない。
引き寄せる力でもない。
感謝と震えを帯びた、ただ人としての触れ方だった。
「ありがとう」
紀惠は低く言う。目には涙がにじんでいた。
「うちの明を助けてくれて……本当に、ありがとう」
琉璃は一瞬、どう返せばいいのかわからなくなったようだった。
目を伏せ、指先が無意識に少し丸まる。
「白石さんのお母さん……」
いつもよりさらに小さな声で言う。
「そんなに気を遣わないでください。明は同級生ですし、同級生同士で……困っていたら助け合うのは、当たり前なので」
そこまで言ってから、一度だけ明の方を見た。そして付け加える。
「それに……明にも、たくさん助けてもらいました」
明も反射的に琉璃を見た。だが彼女は、視線を返さなかった。
その言葉が落ちたとき、部屋の中の何か細いものが、静かに変わった。
紀惠の目に残っていた警戒は、また少しだけ薄れる。
それでも、説明のつかない違和感までは消えなかった。
この少女はどこか冷たすぎる。生活に擦れた痕跡がまるでない。そのことが、なぜだかたまらなく痛々しい。しかも、どう考えても「家」から最も遠いはずのその子が、自分の息子を家まで送り届けた。
紀惠は立ち上がり、少し慌てたように棚の中の残り物をかき集め始めた。
「缶詰が少しあるから……出すわ」
「パンも二人で分けて。温かい汁も、もう少し飲んで。薬を塗ったあとだと、体が弱るから……」
口にするうち、また声が詰まる。
明はその背中を見て、胸がきつく締まるのを感じた。
その瞬間、妙な感覚がよぎった。
人間は帰る場所を持ち、互いを気にかける。こんな、ぼろぼろで、ほとんど何もない場所でさえ、わずかな温度を守ろうとして手放さない。
だからこそ、あの遠く冷たい文明は、こんな場所を貪るように見つめるのかもしれない。
彼らには、それがないから。
あるいは、かつて持っていて、失ったから。
琉璃はテーブルに座ったまま、小さな台所で慌ただしく動く紀惠の背中を見ていた。
ふいに焦点が少し揺らぐ。
植えつけられた記憶が、よみがえる。
あたたかい灯り。
きちんと並べられた食器。
やわらかな笑顔。
毎日が、何事もなく過ぎていくような平穏。
あの頃、彼女はそれを「家」だと思っていた。
でも違った。
本当の家は、乱れるものだ。
慌てる。
泣く。
誰かが突然帰ってきただけで、部屋じゅうの秩序が崩れてしまう。
けれど、その無秩序があるからこそ、すべてが本物に見える。
羨ましかった。
胸の奥からゆっくりと滲み上がる酸い痛み。静かで、鋭い。
琉璃は顔を伏せ、指先でそっと掌を押さえた。その感覚を押し込めるみたいに。
そのとき――
明が、テーブルの上の半分のパンを彼女の方へ押した。
ごく自然な仕草だった。
「先に食べて」
琉璃は目を上げ、少しだけ固まる。
明もまた、自分の動作があまりにも自然すぎたことに、そのとき気づいたらしい。耳の後ろがわずかに熱くなった。それでもパンを引っ込めはせず、低い声で言う。
「血、かなり流してたし……さっきもずっと俺を連れてきてくれた。無理しすぎだよ。……それに、あの栄養ゼリー、うまかったし」
琉璃はその半分のパンを見つめ、しばらく動かなかった。
二秒ほどしてから、ようやく手を伸ばし、それを受け取る。
「……ありがとう」
声はひどく小さい。
鍋からまた立ちのぼった湯気に、ほとんど呑まれてしまうほどに。
その様子を見ていた紀惠は、ほんの少し表情を止めた。
何も言わない。
ただ目の奥に残っていた警戒が、さらに少しだけやわらいだ。
鍋の中の汁が、ようやくまた白い湯気を上げ始める。
紀惠は椀を二人の前に置いた。指先はまだ少し震えていたが、できるだけ平静に見えるよう努めていた。
そして席に戻り、夜の気配と疲れを全身にまとった二人の子供を見つめる。
ここにいる。
本当に帰ってきた。
ようやく、そこまで信じかけた、そのときだった。
けれど、この温かさは、あまりにも薄かったのかもしれない。
琉璃の目が、ふいにわずかに変わる。
彼女は顔を上げ、窓の外を見た。
「どうした?」
明がすぐに気づく。
琉璃はすぐには答えなかった。
ただ、そっと椀を置き、横顔をわずかに傾けて、夜の深みにあるごく細い異音を探る。
住宅区にあるはずのない高周波振動。
遠い。
だが、近づいている。
次の瞬間、ついさっき静まったばかりの明の胸の銀紋も、ふっと淡く光った。
夜の中で、見えない糸がまた張りつめたように。
紀惠も何かを感じ取ったのか、反射的に窓の方を見る。
建物と建物の隙間、その遠くに、淡い白光が見えた。外壁と通りをなめるように、ゆっくりこちらへ掃いてくる。
街灯ではない。民間巡回機の照明とも違う。
もっと精密で、もっと執拗な、何かの探索装置の光。
古びた住宅街を、一層ずつ、ふるいにかけるように。
遠くでは、放送がなおも穏やかに続いていた。
【夜間秩序は回復しました】
【市民の皆様は安心してお休みください】
【皆様の平穏な生活をお祈りします】
その声は、優しすぎるぶんだけ、痛烈な皮肉に聞こえた。
部屋の中の三人は、誰も動かなかった。
けれど、この、今にも砕けそうな短い温もりの中で、三人ともはっきり理解していた。
家には辿り着いた。
だが、嵐もまた――
その家の戸口まで、追いついてきていたのだ。




