帰る夜(2/3)
明が深く息を吸い込み、ようやく前を向くと、それから二人で中へ入った。
階段室は暗い。
センサー灯は壊れていた。
ついさっき安寧署の人間がこの棟を調べたばかりなのか、踊り場の角にはまだ新しい靴跡が何筋も残っていた。妙に整った並び方だった。階を上がるごとに、配管の奥からぼやけた唸りが聞こえる。旧時代の残骸が、壁の内側で息をしているようだった。
明はほとんど駆け上がるようにして三階へ着いた。
だが、本当に扉の前まで来ると、足が止まる。
表札には、317とあった。
明はその前に立ち尽くしたまま、激しく上下する胸を押さえる。手を上げる。しかし、扉に触れる寸前で止まった。
銀紋がまた疼いた。
警告のように。
本能そのものが、これ以上進むなと告げているみたいに。
背後で、琉璃の声がした。
「迷わないで」
明は奥歯を噛みしめ、扉を叩いた。
ドン。
ドン、ドン。
すぐに中から足音が返ってくる。
少し乱れた足取りだった。最初は聞き違いかと思い、それから慌てて現実だと気づいたような。
扉が細く開く。
その隙間の光の中に、白石紀惠の顔が現れた。
ひどく痩せていた。
頬はわずかにこけ、目の下には洗っても落ちない青黒い隈がある。この十六年間の夜を一度もまともに眠れなかったかのようだった。古い上着を羽織り、髪の先は少し乱れている。明の記憶にあるよりも、ずっと薄く、脆く見えた。人を支えるための殻だけが、やっとのことで残っているような姿だった。
けれど、その顔だった。
自分が、見てもわからないかもしれないと恐れていた、その顔。
そして紀惠は、明を見た瞬間に固まった。
次の瞬間、涙があふれた。
「……明」
ひどく小さな声だった。
それでも、それは深海へ沈む錨のように、ばらばらになっていた明の何かを、一気に引き戻した。
顔が、はっきりする。
彼の目頭がたちまち熱くなる。
胸の銀紋が、ふるりと震えた。痛みではなかった。長く引き離されていた何かが、ようやく自分の名に結び直されたような感覚だった。
明は、ようやく思い出す。
理屈でも、推理でもない。
ただ、その一声――「明」で。
「……母さん」
ほとんど飛び込むようだった。
紀惠はぶつかられて半歩よろめいたが、すぐに両腕で彼をきつく抱きしめる。指先は震えていた。少しでも手をゆるめれば、十六年前のあの日のように、また誰かに奪われるとでもいうように。
「どこにいたの……」
彼の肩に触れた途端、紀惠の声は砕けた。
「あの人たち、あなたが――」
「ここにいる」
明も喉を詰まらせる。
「まだ、ここにいる」
紀惠はさらに強く抱きしめた。
それは、ただの母親が息子を抱く力ではない。長く溺れていた人間が、最後の浮き木にようやく触れたときの抱きつき方に近かった。全身が震えているのに、それでも離さない。
琉璃は扉の外に立ったまま、その光景を見ていた。指先が、音もなく強く握られる。
部屋の中は暖かかった。
実際に外よりずっと温度が高いわけではない。ただ、そこに漂うかすかな、ありふれた、取るに足らない生活の匂いが、外の夜をはっきりと隔てていた。
鍋にはまだ何かが温められている。テーブルには半分に切った栄養配給パン。黄色味のある小さな灯りが壁を照らし、狭く窮屈なはずの空間を、妙に柔らかく見せていた。
この柔らかさを、琉璃は知らない。
あるいは、知っていたと思っていた。
明と共鳴し、“門”が開いたとき、漏れ出たエネルギーに引かれるようにして、彼女もまた失われたはずの断片を少し取り戻していた。だからこそ、目の前の光景が、なおさら眩しかった。
紀惠はようやく扉の外にもう一人立っていることに気づいたように、はっと顔を上げた。
琉璃を見た瞬間、その顔色がわずかに白くなる。
目に最初に浮かんだのは警戒。だが、その直後、自分でも説明できない何かがかすめた。
見知らぬようでいて。
それでいて、あまりに遠く、あまりに曖昧な何かに触れたようでもある。
彼女の気配は、十六年前、病院で見た「あまりにも静かな」人々にどこか似ていた。だが、同じではない。
蒼白で静かなその少女が、扉の外に立っている。傷を負い、裾には血がついている。
本来なら警戒すべき相手のはずなのに、胸の奥が不意にひどく縮んだ。とうに切れたはずの細い糸が、この瞬間だけ、かすかに震えたような感覚。
理屈がない。
警戒のようでもあり、口にできない親しさのようでもある。見れば見るほど、自分でもわからない痛みが胸ににじむ。
だが、わからないからこそ、なおさら警戒せずにはいられない。
「……その子は?」
再会の震えがまだ声に残っていた。それでも本能的な防備が、すでに一枚重なっている。
琉璃は少し間を置いた。その問いに対し、思わず低く答える。
「白石君の同級生です」
紀惠はすぐには信じなかった。
明の同級生なら、たいてい顔くらいは知っている。けれど、この顔に見覚えはない。何より、琉璃の服についた血、裂けた布地、そして静かすぎるほど静かな気配は、「普通の同級生」という言葉にどうしても重ならない。
紀惠の眼差しは、幼獣をかばう母獣に似ていた。疲れ果てて今にも倒れそうなのに、それでも本能で明を半歩ぶん背後へ引く。
明は我に返って、あわてて言った。
「母さん、本当に同級生なんだ。それに、何度も助けてもらった」
三人で立ったままではあまりに目立つと気づき、さらにやわらかく続ける。
「とにかく、先に中に入れてくれない?」
紀惠は一瞬だけ呆けたように明を見、それから琉璃を見る。
見知らぬ者。危険。けれど同級生で、しかも明を助けた相手。
それらを、ほんの短い時間で無理やりひとつに繋ぎ合わせるように。
警戒は消えなかった。それでも最終的に、彼女は身を横へずらした。
「……とにかく、入って」
扉が閉まる音は小さかった。
だが、それはまるで、外にある別の世界をひとまず締め出す音みたいだった。
部屋は狭い。
古いソファ、食卓、本棚、半ば閉じた布の仕切り。それだけで、居間はほとんど埋まってしまう。だが狭いからこそ、暮らしてきた痕跡はすべて、いやでも寄り添うように並んでいた。洗って窓際に干された服。隅に置かれた、枯れかけの緑の鉢。冷蔵庫に貼られた期限切れの配給票。何度も補修された椅子の脚。
そして、壁際の古い写真。
その中で、幼い明は紀惠の隣で笑っていた。目を細め、何も知らないままの顔で。
あまりにもきれいな笑顔だった。
別の世界のものみたいに。
扉を閉めてから、紀惠はようやく二人のひどい有様を真正面から見た。
明の服はとうに破れ、灰だけでなく、乾いては擦れてまた滲んだ血がこびりついている。袖口は擦り切れ、裾は裂け、胸元や脇腹にもはっきりとした擦過傷の跡があった。
琉璃も似たようなものだった。
上着は何か所も裂け、胸元や袖には乾いた血。裾には泥水と埃が跳ね、顔色もひどく悪い。
紀惠は二人を見て、目を潤ませながら声を掠れさせた。
「まず鍵をかけて……二人とも立ってないで」
それ以上考えるより先に、彼女は戸棚を探り始める。
「明、先に奥で着替えなさい」
「あなたも……あなたも先に着替えて。外はあんなに寒いのに、そんな服のままじゃ……」
そこまで言って、自分でも急すぎたと思ったのか、付け足す。
「明の同級生で、あの子を助けてくれたんでしょう。なら、今はほかのことより先に、体をちゃんとしないと」
言いながらも、指先はまだ震えていて、物を探る手つきも落ち着かない。
「新しいのはないの。前に大きめで買ってた部屋着が残ってるくらいで……明ならまだ着られると思う。この上着は洗ってあるから、女の子には大きいかもしれないけど、それでも今のままよりはいいわ」
「母さん、俺は――」
「いいから」
紀惠はほとんど即座に遮った。母親の強さが、その一瞬だけ戻る。
「先に着替えなさい。無事に帰ってきた、それでいいの。ほかはあとで」
それから琉璃のほうを向き、口調を少しやわらげたが、切実さは消えなかった。
「あなたも。濡れたのも汚れたのも、先に脱いで。傷があるなら、あとで薬を持ってくるから」
琉璃は一瞬、どうしていいかわからないような顔をした。
誰かに、まるで当然のように「まずは世話をしよう」という範囲の中へ入れられたことなど、なかったのだろう。
だが紀惠は彼女が戸惑う時間をほとんど与えず、服をその手に押し込んだ。
「先に着替えて」
低い声で言う。
「体を壊しちゃだめ」




