帰る夜(1/3)
未明。
通りでの抗議行動は、ほぼ片づけられていた。
もともと幹線道路に群がっていた人々は、囲いへ追い立てられる羊のように、灰色の制服と警告灯に押され、一団ずつそれぞれの住居へ追い返されていく。まだ遠くで喉を張り上げて罵声を飛ばしていた者も、ほどなくして、さらに大きな放送の音にかき消された。
【夜間秩序は回復しました】
【市民の皆様はご自宅へお戻りください】
【情緒の失調は個人信用評価に影響します】
【皆様の平穏な生活をお祈りします】
街はまた静かに見えた。まるで何も起こらなかったかのように。
安寧署は、再び安寧をもたらした。
ただ、路地の影という影には、騒ぎを無理やり押し潰したあとの気配がまだ残っていた。焼け焦げた配線の匂いのように。血が流れ、雨に薄く引きのばされた地面のように。あるいは、どうしても消えない何かの体温のように。
白石明は天城琉璃の後ろについて、街角を巡回する安寧署の人間を避けながら、狭い路地をいくつも抜けていった。
それだけではない。
二人はうっすらと感じ取っていた――
ほかにも、自分たちを探している者がいる。
しかも一組ではない。
それが何なのか、明にはわからない。琉璃も立ち止まって見極めようとはしなかった。
同じ網の中に、別の糸が混ざり込んでいるようだった。
その糸がどこから来て、誰に属しているのか、二人にもわからない。だからこそ、足取りはいっそう軽く、慎重になる。
見つかるのが怖いからだけではない。
この夜が過ぎたあと、本気で自分たちを見つけ出そうとする者は、もう一方だけではない。そう悟っていたからだ。
今夜の騒ぎは、一見すれば民衆の為政者への不満、安寧抽選や都市配給、あらゆる制度的な死への反発に見える。だが、実際はそんなに単純ではない。
今の局面は、銀海文明が一方的に「攻め込んできた」わけではない。
より正確に言えば、最初に“門”を開いたのは地球人の側だった。フィル=レグナは、その開かれた“門”と、長年にわたる浸透工作を足がかりにし、技術と、人類上層部が未知の力に抱いた恐怖を利用して、この都市の実権を力ずくで奪い取ったのだ。
彼女のもっとも恐ろしいところは、即座に武力を振るったことではない。
いつでも振るえると、人々に信じ込ませたことだった。
だから上層部の人間たちは、全面的に信じていたわけではないにせよ、自分の命や地位を賭けてまで試そうとはしなかった。
わずかでも可能性がある以上、フィルの背後で“門”をくぐってきた銀海星人たちは、必要となれば「自衛反撃」を行う資格を持つことになる。そうなれば、地球側からのどんな能動的抵抗も、「先に発砲したのは地球側だ」と包装されかねない。
その結果、地球の上層部は「やむを得ず」「一時的に」という体裁で、もっとも現実的で、もっとも卑劣な道を選んだ。
権限を渡す。
利益を得る。
そして、つかの間の延命も得る。
本当の厄介さが始まったのは、そこからだった。
もともとフィルにできたのは、機器の異常を引き起こし、信号を遮断し、情報を流布する程度の操作にすぎなかった。だが「現実の」権限を手にしたことで、彼女はそれ以上のことができるようになった。
そして、その後に行われた多くのことは、もはや「異星文明が地球へ直接干渉している」という形ではなくなる。地球にもともと存在していた統治構造そのものが、さらに高く、さらに冷たく、さらに効率的な意志のもとで、地球人を管理し始めるのだ。
自分たちの手で、自分たちを締めつける。
だから大半の場合、星際法が前面に出てくるまでもない。
配給管理を強めることもできる。安寧署の権限を拡大することもできる。信用評価が生活を縛る力をさらに強めることもできる。民間の不安と猜疑を、意図的に発酵させることもできる。
人々がより厳しい管理を受け入れるなら、それは銀海文明にとって都合がいい。
受け入れないなら、規模の小さい反発は接収した権限で鎮圧すればいい。規模が大きくなって衝突が起きても、全面戦争より死者は少なくて済む。
もし本当に局面が制御不能に陥り、銀海文明側にまで死傷者が出れば――それは、地球人自らが「やむなく反撃する」という名分を、相手に差し出すことに等しい。
そのときになって初めて、明と琉璃が開いた“門”は、この惑星そのものの傷口になる。
だから、地球側が“門”を開き、フィルがこの都市を掌握した瞬間から、すでに多くのことには、本当の意味での解決策がなくなっていたのだ。
あとは、ぬるま湯で煮られるように従順化されるか。
あるいは、恐怖と失望の中で民衆が政府への信頼を完全に失うか。
銀海文明にとっては、どちらも同じ結果へ向かう別の道筋でしかない。せいぜい、時間を引き延ばせるだけだ。
地下空間で共鳴が起きたとき、明は銀海文明の計画の断片をわずかに見ていた。それをほんの少し深く考えただけで、背筋が冷えた。
自分たちは、本当に取り返しのつかない過ちを犯したのではないか――
そう思った、そのときだった。
胸の銀紋が、唐突に鋭くまたたいた。
闇の中で、急に目が開いたように。
明は低く息を漏らし、足元を半歩よろめかせる。反射的に胸を押さえた指の隙間から、かすかな銀光がにじんだ。
琉璃はほとんど即座に足を止めた。
振り返りざま、彼の手首をつかみ、もう片方の手をその胸元に当てる。暴れ出した脈動を、力ずくで押し殺すように。
「抑えて」
声は低い。だが、揺らがない。
明は歯を食いしばった。額に、瞬く間に冷や汗が浮く。
その光は皮膚の表面から発しているのではなかった。もっと内側、骨の芯から透けてくるようだった。まるで彼の身体の奥で、遠い場所に属する何かが目を覚まそうとしているかのように。
エネルギーの漏出――
それは位置情報であり、呼び声でもある。
「制御を覚えないと」
琉璃は彼を見据えた。
「見つけられる」
明の喉が上下した。
「……どうやって?」
琉璃は半秒ほど沈黙した。
「感情で覆うの」
低い声で言う。
「負の感情は逆に増幅する。だから逆よ。自分をつなぎ止める、前向きな感情を思い浮かべて」
明は息を大きく吸い、呼吸を整えようとした。
前向きな感情。
その言葉が、この場では妙に遠かった。
目覚めてからここまで、彼の前にあったのは恐怖と痛みと狼狽、そして真実を知ったあとの冷たさばかりだ。多すぎる。人ひとりをそのまま覆い尽くせるほどに。
目を閉じる。
最初に浮かんだのは、ぼやけた一枚の顔だった。
次に、その輪郭が少しずつはっきりしてくる。
母親だ。
窓辺で赤い紐を握りしめ、ぼんやり座っていた姿。
料理を運びながら、いつも「先に食べなさい」と言っていた声。
怖かったはずなのに、それでも自分に笑いかけてくれた顔。
どの光景も欠けていた。水に浸かり、時間に揉まれて皺になったみたいに。けれど、それだからこそ、そこに残っている温もりは本物だった。
胸の中を暴れ回っていた灼けるような光が、たしかに少しだけ弱まる。
だが、まだ足りない。
そのとき、なぜか、もうひとつの像が浮かんだ。
どこかの場面ではない。
すぐ目の前にいる、この人だった。
天城琉璃。
彼女は自分を連れて安寧署の追跡を逃れた。共鳴したとき、あの銀海と数えきれない映像を共に見た。巨大な光束が落ちたときも、自分も傷ついていたはずなのに、彼を引きずるようにして逃がした。半ば意識を失っていた彼を支え、地下通路を歩かせた。
彼女だって、怖かったはずだ。
それでも、立っていた。
ずっと、彼の前に。
明の呼吸が、少しずつ深く沈んでいく。
胸の光は、さらにおとなしくなった。
琉璃はその銀光が盛りから衰えへと移っていくのを見つめ、ほんのわずかに目元の緊張を緩めた。
「それでいい」
明は目を開け、彼女を見る。
二人の間は半歩。互いの吐息の温度すら感じられるほど近い。だが、夜気のせいか、あるいはさっきの数秒が静かすぎたせいか、明はふいに、胸のどこかが銀紋の痛みよりもきつく締まるのを感じた。
彼はゆっくり視線をそらし、低く言った。
「行こう」
琉璃もそれ以上は何も言わず、背を向けてまた歩き出す。
路地口から吹き込んだ風が、彼女の髪の先にわずかに混じる銀青をかすめた。夜に呑まれかけた冷たい光のようだった。
やがて二人は、古びた集合住宅の前へたどり着いた。
街の縁に近い場所だ。
壁はまだらに剥がれ、コンクリートはあちこち大きく裂けている。外壁には、色褪せた標語の一部だけがかろうじて残っていた。
【生きるのは僥倖】
その先はもう読めなかった。
期限の切れた慰め文句が、風と時間に削り取られ、ほんの断片だけを宙に残している。慰めというより、呪いに見えた。
琉璃が顔を上げ、三階の閉まりきっていない窓を見た。
「彼女はあそこ」
明の心臓が、強く縮む。
母さん。
その二文字が脳裏に浮かんだ瞬間、彼は一瞬、後ずさりしたくなった。
会いたくないわけじゃない。
逆だ。会いたいからこそ、怖い。
扉を開けたとき、その人がまだ見知らぬままだったらどうしよう。
十六年苦しんできたことを知っても、それでも自分が彼女を思い出せなかったらどうしよう。
ここまで必死に生き延び、必死に帰ってきた果てに、もっと大きな空白しか手に入らなかったら――
琉璃は彼のためらいを見て取ったのか、急かしはしなかった。ただ隣に立っている。




