最後の五星上将(4/4)
「私も、もうあなたの側を離れない」
それは恋の言葉ではない。
少なくとも、それだけではない。
彼女は自分自身を錠にし、彼をその片端として繋ぎ止めようとしている。
榊原は当然、それを理解した。
だからこそ彼は、値踏みするような目で彼女を長く見てから、ゆっくりと言った。
「自分を使って、私を縛るのか」
「そこまでの代価を、銀海文明が認めると?」
フィルは目を逸らさない。
むしろ真正面から受けて立つ。
「今の言葉は、銀海文明のために言ったんじゃない」
「少なくとも、この一言だけは」
あまりにも本心めいていた。
本心に見えすぎて、当の彼女でさえ、その中に償いが何割あるのか、計算が何割あるのか、そして今なお切り捨てきれない未練が何割あるのか、分かっていないかもしれない。
だからこそ危うい。
榊原は彼女を見つめる。
喉仏が、ごくわずかに動いた。
動揺ではない。
一瞬だけ浮いた感情を、無理やり押し込めた反応に近かった。
計算だけの相手は怖くない。
怖いのは、計算しながら本当に情も動かしてしまう相手だ。
なぜなら、本人にすら、どこまでが演技か分からなくなるからだ。
「いいだろう」
榊原は言った。
「見張りたいなら見張れ」
「だが忘れるな――」
彼は目を上げる。
老いてなお鋭いその眼差しは、なおもっと高い場所に立っていた頃のまま。
「私がそのボタンを残しているのは、お前に屈したからじゃない」
「お前に毎日思い出させるためだ」
「お前は、刃の横で眠っているんだとな」
フィルは静かに彼を見つめた。
そして、ふっと笑った。
その笑みには懐かしさも、疲れも、そして彼女自身すら認めたくない安堵も混じっていた。
「相変わらず、人をときめかせる言い方をするのね」
「脅しているんだ」
榊原が訂正する。
「分かってるわ」
返答は早い。
「でも、それで心が動かないとは限らないでしょう」
言い終えると、五十年前、あまりにも短く、短すぎて忘れられていいはずだったいくつかの瞬間をなぞるように、彼女は手を伸ばし、榊原の腕を取った。
動作は自然だった。
まるで何度も心の中で予行演習してきたように。
同時に、彼がすぐ振り払うかどうかを確かめる意図も透けていた。
榊原の肩線が、わずかに強張る。
ほんの一瞬だけ。
老人の関節がわずかに軋んだようにも見える程度の硬さ。
だがフィルには分かっていた。そうではない。
それはためらいだ。
そして、自分をまだ彼の最後の選択肢から完全には切り捨てていないという証明でもある。
彼はすぐには振り払わなかった。
それだけで、十分だった。
「本当は、ずっと私を待っていたんでしょう?」
フィルはついに、長く胸の奥にしまっていた問いを口にした。
榊原が生涯独身だったことを、彼女は知っている。
声はひどく軽い。
重く言えば、自分の方が先に耐えられなくなると分かっているように。
榊原は正面からは答えない。
ただ窓の外、庭の暗がりを見つめ、低く言った。
「物是人非だ」
その四文字が落ちた瞬間、書斎の静寂はさらに深く沈んだ。
否定ではない。
肯定でもない。
答えを、もっとも触れにくい場所へ置いて、彼女に想像させる言い方だった。
フィルは、歳月を刻んだ彼の横顔を見つめ、目を揺らした。
それでも結局、もう半歩だけ近づく。
「今の私は、もう行かなくていい。ずっとあなたのそばにいられるわ」
言葉そのものは揺らがない。
だが彼の腕を取る指先だけが、気づかれぬほどわずかに力を増した。
少しでも緩めれば、また五十年前のように、期限が来れば背を向けて去るしかない位置に戻ってしまう気がしたからだ。
榊原は振り返らないまま、ただ問う。
「お前を信じていいのか」
フィルは彼を見る。
今度の返答は遅かった。
答えに綺麗な形などありえないと、自分でもよく分かっているのだ。
それでも――
「もちろんよ」
彼女は言った。
「あなたの命が尽きるその時まで、私はあなたのそばにいる」
榊原は知っている。
自分という老人がいなくとも、計画通りであれば抑止力そのものは残る。
だがフィルが一人欠ければ、銀海文明の植民進展には決して小さくない穴が開く。
彼女は自分自身を使って、彼を縛ろうとしている。
ならば彼もまた、彼女を使って銀海文明の手を遅らせ、そのぶん地球人類に時間を稼がせることができる。
彼らがいま、何より必要としているもの――時間だ。
時間が伸びれば、変数が生まれる。
だから榊原は、あえてそれを指摘しない。
あるいは――
計算よりもさらに深い層、彼自身すら見たがらない場所に、まだ完全には死にきっていない何かが本当に残っているのかもしれなかった。
人は老いる。
かつての紅顔だけが、ほとんど変わらず目の前にある。
それは滑稽であると同時に、あまりにも現実離れしていて、正気な人間ほど余計に正気にならざるを得ない。
そして同時に、正気な人間ほど、ある一瞬だけは正気でないふりをしたくなる。
だが榊原が知らないことが一つある。
フィルにとって――
銀海文明から自分が一人消えても、大勢にはさしたる変化はない。
だが人類の側に、榊原義重の代わりが何人いるというのか。
そして、銀海文明が最も潤沢に持っているものもまた――時間なのだ。
二人はしばらく、そのまま立っていた。
見た目だけなら、五十年遅れの寄り添いにすら見えるかもしれない。
だが当人たちだけが知っている。
彼らは互いの中に「自分」を見ているのではない。
一生で最も理解してはならなかったはずの、なのに誰より深く理解してしまった「他者」を見ているのだと。
それは再会ではない。
休戦だ。
しかも、ただの仮初めの。
やがて榊原が、ようやく口を開いた。
「それで……次は何をするつもりだ」
フィルは小さく首を傾けて彼を見る。
唇にゆっくり笑みが浮かぶ。
そこには郷愁も、探りも、そして最後の一手を盤上に据えた棋士だけが見せる静かな愉悦もあった。
「もちろん――」
「昔、恋人同士としてできなかったことを、全部やり直すのよ」
そこで一拍置き、目の奥の笑みを深める。
「たとえば……まずは、ちゃんと映画を一本観るとか」
榊原は横目で彼女を見た。
その視線には冷たさがある。
同時に、疲労に近い吟味もあった。
彼女のその言葉の何割が、失われたものを埋めたい本心なのか。
何割が、自分をこの書斎から、指揮盤から切り離し、彼女が完全に管理できる場所へ連れ出す意図なのか。
――だが、試させればいい。
自分で試して、無駄だと知った方が、こちらが説明するより早い。
榊原は少し考え、やがて淡々と言った。
「誘っているのか」
「それとも、私がここを離れたあと誰に連絡するのか、そのボタンがまだ使えるのか、確かめたいのか」
フィルは一度まばたきし、否定もしない。
「両方よ」
榊原は彼女を見て、冷たく笑った。
「なら、私が受けるとしても、それは何かを埋め合わせたいからじゃない」
「ただ見てみたいだけだ――」
そこで一度言葉を切り、ようやく視線を彼女の顔に戻した。
「お前が勝つために、どれほど本気で自分自身まで賭けるつもりなのかをな」
フィルは怒らなかった。
むしろ笑みは少しだけ本物に近づく。
「ちょうどいいわ。あなたは私の本心を見て、私はあなたの底線を見る」
窓の外から差し込む月光が、斜めに二人を照らした。
けれど、彼らには分かっている。
これはただの再会ではない。
互いを人質に取った状態での同伴だ。
そして書斎の中では、あの旧式の物理指揮盤が、なお微かな光を灯したままだった。
押されなかった心臓のように。
あるいは、まだ引かれていない引き金のように。
この夜が明けたあと――
最後の五星上将は、降伏したわけではない。
ただ、しばらくのあいだ敵と肩を並べて歩くことを受け入れただけだ。
それが旧情の残り火なのか。
それとも二人の強者が、互いを同じ危地へわざと縛りつけたのか。
その答えは――
おそらく、当の二人にすら、まだ分かっていない。




