挿話110 望月千代女(イース国間諜)
かつて“先代”の望月千代女は言った。
『わしらの戦いは戦いにあらず。各地で手に入れた情報を生きて持ち帰ることこそ本義。闘争などもってのほかじゃ。それは次なる敵を呼ぶだけで、敵を殺せば、次の戦いを呼ぶだけ。より強い敵を差し向けてくるし、武田への警戒を強めるだろう。それはお屋形様のためにはならぬ。ゆえに歩き巫女は戦わず、そういったものは三ツ者の連中に任せればよい。いいな』
それを今、この状況で思い出すのはなんというか皮肉以外の何物でもなく。むしろこんなことなら、もっと体術やら人を殺す技術を学んでおけば良かったと思う。
いつも、お屋形様の仕事は情報収集が主で、直接の戦闘は先代が言うように他の者がやることだった。戦うにしても、自分の身を守るためというのが一番だった。
けどここでは違った。イリスたちを先に行かせるために避けることのない戦いに身を投じることになった。
本当。どうしてこんなことになったのか。
……半ば知盛に担がれた感がするけど。ま、いいか。イリスとの出会いも悪いものではなかった。
誰かのために戦う。
今までもお屋形様のために戦ってきたけど、もっと直截的に、情報収集だけでなく実際に戦うことは。きっと昔も、未来もないだろう。
「やぁ、よく飛びましたね」
「…………」
答えはない。応える必要もない。答える余力もない。
声を出せば胸が痛み、喉が焼け、口にあふれる血が零れ落ちる。
「分け身に、不可思議な体術。よい戦いでした。これでまた私は強くなれた」
男――黄は汗1つかかないまま、涼しい顔をして突っ立っている。
こっちはボロ雑巾みたいになって転がっているというのに。
まさか私の分身が効かないとは思わなかった。
襲い掛かった分身そのすべてに対し、蹴りを入れらた。
1発1発が槍で突かれたかのような衝撃と痛みだった。それを分身体分。
分身といってもしっかりと痛覚はある。5体だとすれば5倍の痛みが返ってくる。どういう仕組みか知らないけど、ほんと、この異能とやらを作った奴は一度、顔を出せと思う。
「では名残惜しいですが、これで終わりにしましょうか」
黄が明日の天気の話をするかのように。私の死を告げる。
きっと余裕の顔で微笑んでいるに違いない。ほんと化物だ。なんで私はこんなやつと……。
「何か言い残すことはありますか?」
「…………」
「何もないと」
「――――――――い」
「なんでしょう?」
「くたばれ、クソジジイ」
「…………やれやれ。いけませんね。負けは負けと認めること。それが次の段階に上がるための重要なことです」
ゆっくりと、散歩するような速度でこちらに近づいてくる。
それは死を宣告する閻魔大王の使いの足音。その距離が1歩になった時に、私は死ぬ。
その前に気を失えればどれだけ楽か。
でもそれはできない。お屋形様の面目を失うことになるし、何よりイリス。彼女ともっと……だから。
「まぁ。まだ――」
「なんでしょう?」
「負けてないし」
「強がりを言いますな」
「強がりじゃ、ない」
「ならここから逆転ができると? まぁその前にとどめを刺しますが」
「……忍は化かし合いとか、そんなのは幻想。だけど、ここでは化かし合い……ううん、一方的に化かす」
「なんですって?」
意識が消える。今まで床に転がって、男を見上げていた私の感覚が。
同時、戻る。視覚、触覚、嗅覚。その全てが、黄の背後に自分の体があることを知覚させる。
もう1つの視覚。そして統一された視覚。
男の向こう。今、とどめを刺されようとした自分が消えた。分身体の自分。それを愕然としていた黄が、何かに気づいたように振り返ろうとするが遅い。
「分け身か、しま――」
「はぁぁぁぁ!!」
背後からの完璧な奇襲。それには相手もすぐに反応できない。
全身の力を込めた一撃を見舞う。
体重のすべてを乗せた跳び蹴り。それが確実に敵の背中をとらえた。勢いのまま、相手の体を蹴り飛ばす。
「ぬぅぅ!」
「吹っ飛、べっ!」
右足を地面につけ、そこからさらに床を蹴って威力を増す。
「がっ!」
相手の体が吹っ飛んだ。
床にバウンドせず、そのまま肩から壁にぶつかった。反動で頭を打ったと思う。
声もなく、そのまま重力に引かれて床に倒れ伏す敵の姿を見て、深く息を吐いてつぶやく。
「はぁ……はぁ……見えなかった、でしょ。これが……無影、脚」
膝をつく。
もう立てない。
でも行かなきゃ。
こんなところで倒れていられない。
奥へ。彼女のもとへ。
なのに――
「ふぅ……今のは効きましたね」
声が響く。
壁に激突し、倒れたはずの男がゆらりと。その体を起こした。




