挿話72 望月千代女(イース国間諜)
ゼドラ軍来る。
その報告は一瞬のうちに町中に響いた。
自分もイリスも当然そのことを誰にも話していない。
けどここは湾港。商人が多くいる。そういう奴らは情報が早い。私が戻った1時間後には彼らも情報を掴み、それをどっかの阿呆が町中にばらまいたのだ。
それからは地獄だった。
家財を持って逃げようとする者。
さっさと降伏しようと画策する者。
何より多かったのが、
「お前らが来たせいだ! なんとかしろ!」「そうだそうだ! 責任を取れ!」「出ていけ! 俺たちの街を戦場にする気か!」
そうやってイリスに詰めかけてきた馬鹿ども。
これまで救世主だなんだと持ち上げていたらしいけど、ひとたび危機が迫ればこんなもん。そもそもがゼドラ国に制圧された都市だろう。それを自分たちで裏切っておいて、ちょっとでも危なくなったらぐだぐだと文句を言う。
自分勝手で自分本位。全てが自分の思う通りにならないと癇癪を起こす子供と変わらない。
これならまだ。北信濃の馬鹿どもの方がマシってもの。
しっかりと己を持って武田に反抗してきた。あの軍神とか祭り上げられてる馬鹿を引き込んで抵抗した。それはムカつくけど、今ここにいる子供よりはマシだ。
「イリスちゃん、こいつら殴っていい?」
だからラスがそう言いだしたのには激しく同意したくなる。
「ちょ、ちょっと待った! いいわけないでしょラス!」
「ちっ」
「舌打ち!? なんかラス、物騒じゃない!?」
「イリス。私もラスに同意」
「千代女!」
「冗談。でも半分本気。どうするつもり?」
「それは……」
イリスが言葉に詰まる。
彼女自身、どうすればいいのか分かっていないのかもしれない。それもそう。こんな高度な政治的な判断を、私よりはるか年下の彼女がしようというのだ。その責任の重さに潰されないかという思いもある。
「千代女ちゃん、イリスちゃんをいじめないで」
ラスがこちらに敵意を向けてきた。
この子は本当に一途だ。どこかあの越後の馬鹿に似てる。これくらい扱いやすかったらいいのにね。
「いじめてない。ただ事実を述べてるだけ。だからとりあえずあの馬鹿たちを黙らせるのから先じゃない?」
「じゃあそうしよう!」
「そうしないで、ラス! 千代女も煽らない!」
イリスに怒鳴られた。しゅん。
けどここは追い込んででも彼女が決めるしかない。
「でもイリス。これはイリスが決めなきゃダメ。そして、決めたならやり遂げないとだめ。どれだけ辛くても、どれだけ腹立たしくても、どれだけ苦しくても。イリスは決めなくちゃならない。自分の未来を、そして民のことを」
「民……」
イリスが虚を突かれたように呆然とつぶやく。
そう。お屋形様は言っていた。
『民衆は己の本分が認められないと抵抗する自分勝手なもの。だがな千代女。そういった者たちでも、己が子供のように接しなければならんのだ。わしは太郎(義信)に何もできなんだ。だからその分の愛情を民に注ぐのだ』
そう教えてくれた時。お屋形様は哀し気だった。
きっと太郎様のことを考えていたのだろう。将来を期待した嫡男。それを切腹させなければならなかったという悲劇。お屋形様も辛かっただろう。
私は自分を責めた。太郎様の件を事前に検知できなかった。そのせいでお屋形様が苦しんだ。もっと上手くできたはずなのに。
けどお屋形様は私を責めなかった。
『これはお前のせいではない。だから気に病むな。これは私の……いや、大名として上に立つ者の責務だ。だから千代女。もしお前がそれでも気に病むのなら。お前はその力で次に立つ者のことを支えてやってくれ。お前ならできる』
それはきっと、四郎(勝頼)様のことを言っていたのだろう。お屋形様の次の世代。そのために私は生きると。
だがそれはできなくなった。
この世界に来てしまったから。お屋形様と。四郎様と離れ離れになってしまったから。
それは哀しいことだったけど、それでもこの世界での出会い――イリスとの出会いはまた新しい何かが始まったと思った。
彼女とは最初は敵だった。
その後、色々あって彼女の味方になった。敵だった私を、彼女を殺そうとした私を、イリスは許してくれた。そのうえで言ってくれた。
『千代女。その力を貸してくれないか』
それは天啓だった。
お屋形様の言っていた、次に立つ者。その誘いを断る術を、私は知らなかった。
だから彼女のために戦い続けてきた。あのムカつく風魔とも手を組んだし、越後の馬鹿の下っ端の本庄とかいうやつを殺すのも我慢した。ゴサでの騒乱で鶴を助けるために死を覚悟もした。
その3人もいまやいない。
鶴のことは哀しかった。
ずけずけとこちらに踏み込んでくるのには辟易としたけど、同じ神職にある者として少し共感はあったし、なんとなく微笑ましい感じがしていた。けど死んだ。イリスの姉を助けて死んだと聞くから、きっと満足だっただろう。
彼女もイリスのために散った。
なら私も。そして今は、彼女の成長を見届ける時だ。
お屋形様の言っていた。民の横暴。それをどう捌くかで彼女の将来が決まる。
どれだけ辛くても。どれだけイラついても。どれだけ苦しくても。感情を表に出すことなく判断しないといけない。そしてその時には自らが血を流すことも厭わない。
それが上に立つ者の責務。
イリスは目を閉じる。
そして小さく、深く深呼吸。
ふたたび目を開けた彼女。
この時のイリスはお屋形様と同じだった。
「皆の言いたいことは分かった。僕らはここを出る。出て戦う」
その瞬間。私は彼女のために死のう。
改めてそう決めた。




