第99話 奇蹟
陣幕に入って来たのは、僕の見知っている人だ。
「鶴!」
彼女の名を呼ぶ。
いつも通りの肩だしの巫女風ルックスだが、どこかくたれて見える。彼女も彼女で、今回の奇襲の対応をしていたのだろう。どうやら無事みたいでよかった。
その後ろに従える少女――新島八重だ。彼女がここにいるのは、鶴が保護したからだろう。亡命してきた客将身分として、同じく保護したクース軍とは離して軟禁していた。
彼女の処遇をどうするか最終決定する前にこの出来事だから、彼女をしっかり守ってくれた鶴には感謝しかない。
ただその顔がどこか浮かないような顔をしていて、それが不思議だった。いや、数日前は味方だった相手に殺されそうになったんだ。心も落ち着かないだろう。
けどその2人がなぜここに?
しかも、その前に鶴が言った言葉。
「鶴、大丈夫って……」
「お姉さんは大丈夫だから。イリス、私に任せて」
「え、あ、でも」
姉さんはもう今まさに死出の旅路に発とうとしている。そう僕も覚悟している。
この状況をひっくり返せるのは、それこそ超天才的な医者が、無菌の手術室に輸血や治療器具、助手などの医療体制ばっちりな状態であるか。あるいは本当の奇跡でも起こさないと無理な話。
過度どころか、もう一分たりとも期待はできない。
そもそも大祝鶴姫には、確か医術の話なんてなかったと思う。新島八重の方は、確か看護師になったとかって話があったけど……でも鶴は自分に任せてって言ってるし。
やっぱり無理だ。
大丈夫なんて言われても、姉さんが助かる見込みはない。そこに淡い期待なんて入り込む余地もなく、それに裏切られれば再び傷つく。それはもう嫌だった。
「ちょっと失礼」
そんな僕の絶望をよそに、ベッドの反対側から姉さんの枕元に足を運んだ鶴は、その右手を姉さんの腹部の上にかざす。
「…………」
何か口が小さく動いているようだけど、何かは聞こえない。
「いいのか?」
急に大人びた言葉。独り言? 一体鶴は何をしようとしているのか。
「……うん」
少しの間を開けて、鶴が小さくうなずいた。
たったそれだけのことなのに、どこかこの決して清潔だとも豪奢ともいえない陣幕が、一気に清められた聖殿にも感じられた。
「我が名は大山津見神。常世にうつろふ三島の守神。我、神を祀る者なり。我、大祝なり。」
それは呪文いや、祝詞なのだろうか。
彼女は今、天に、神に祈る。姉さんの無事を。
けど、いかに神職とはいえ、そのようなことを簡単にできるはずもない。ましてやここは異国。日本式の祝詞なんて風土に合うはずもない。
それに言葉だけで姉さんが救えるなら。それはもう魔法とも呼べる奇跡。スキルだなんだ飛び交うこの世界だけど、死者蘇生とも言える魔法レベルのものをお目にかかったことは決してない。
だから彼女のしようとしていることは、不可能に手を伸ばす愚行。
そう思ってしまえれば。どれだけ楽だったか。
「石長比売は長寿の象徴。木花之佐久夜毘売は繁栄の象徴。2つの神を織り成したまえば、黄泉平坂を登らしたまわん。今一度、この世の因果をこの者の身に宿らせたまえ」
そう言い切って、ふぅと大きく息を吐く。同時、両手を静かに姉さんの包帯だらけの胸元に優しく添える。
瞬間。
「っ!」
光が走った。
雷のような、フラッシュのようなまばゆい刹那の残光。
光の収まった後は、それの発する前と何も変わらない光景。
それでもどこか、より“澄んだ”印象が周囲に満ちているようにも感じられる。
一体何が起きたのか。
一体何を起こしたのか。
けれどそんなことはどうでもいいくらい。
その時に起きたのは。まさに奇跡だった。
「ん……イリリ?」
姉さんの声。
しかもうっすらと目を開けたその顔には、つい数分前にあった死相は完全に消えている。むしろ前より肌のつやがよさそうだ。
「ふわぁぁぁ、あー、なんかよく寝た。どっか飛んできそうな感じあったけど、いやいや、もう爽快だわー」
聞き間違いじゃない。
というかここまでけだるそうに、けど溌溂とした様子で話す姉さんは、ほんの数分前までの彼女ではなく。この1年。ずっと一緒にいた。あのタヒラ・グーシィンそのものだ。
そう思うと、もう止まらなかった。
「姉さん! 姉さん!」
「わっ、もう、イリリったら……」
何が起きたか分からない。
けど姉さんは死なない。それが直感的に分かったから、安堵と困惑と喜びと不思議がないまぜになった感情が爆発して、姉さんの枕元に跪いてその手をぎゅっと握りしめた。
差し出されて握れなかった手。
氷のように冷たかっただろうその手は、今は血が通ってこうも温かい。
ラスも感激して涙を流している。
医者は奇跡だ奇跡だと連呼しているけど、これ以上騒ぐんだったら蹴飛ばしてやろうと思った。
上杉謙信はつまらなそうな、けどどこか嬉しそうな鼻息を鳴らしている。
そして――
「鶴、ありがとう! よく分からないけど……奇跡だ!」
この奇蹟の立役者の鶴に目を向ける。
と、そこで気づいた。
何が、というのかは分からないけど異変だ。
これ以上ない異変。
思わず姉さんの手を放して立ち上がる。
鶴は何か大事なものを出し切ったかのように呆然と立ち尽くしていて、僕の声と視線にようやく気づいたらしく、ゆっくりと、顔をあげ、
「あ――」
「鶴?」
「うん。良かった……」
と笑った鶴は――
ふっと。
まるで電池が切れたかのように、体の支えを失った鶴の体はその場に崩れ落ちた。
「っ! 鶴!?」
慌てて彼女のもとに駆け寄り、助け起こす。
軽――くはない。重い。それは完全に弛緩した体が重力に負けてしまっていることを示す重さ。それは立ち上がることを放棄したのであり、何よりそれを継続不可能にしたものを示している。
ぬちゃ。
不快な粘液性のある液体の感触。
それがなんでここにある。彼女の体を触れた時からその感触を覚えることになったのか。
すぐにその事実が脳裏に浮かぶけど、それを一切に拒否する思考が僕を惑わす。
「ああ、鶴……なんで!」
「……あーあ、ばれちゃった」
いたずらっ子がばつの悪さをごまかすための笑い。
そう言いながら、鶴は力なく笑う。
大祝鶴姫。
戦国の世。大祝職の娘。瀬戸内の島を守るため、恋人と共に自ら陣頭に立ち大内の大軍を打ち破った不撓の女性。
彼女の背中は。
とめどなく漏れる血に塗れていた。




