第089話 あの弟子にして、この師匠あり(その一)
大魔導師と称される女性が、異形の森を歩いていた。
そこは、クレタスの北方に位置するトリア大洞を抜けた先、呪いの森と呼ばれる魔女の巣くう地だ。
自生する木々は、天に向かって真っ直ぐに育っているものなど一本もない。曲がりくねった幹や枝が、森の奥へ手招きしているかのように揺れている。樹皮は黒く変色し、濃霧によって薄暗くなった樹海を、一層不気味に飾り立てていた。
鳥や動物の鳴き声すら聞こえず、森はしんと静まり返る。揺らいでいる草木からも、葉擦れの音などは一切聴こえてこなかった。
耳鳴りをも覚えそうな静寂の中を、その場に似つかわしくない姿の大魔導師ラーネが進んでゆく。
広いつばの付いた三角帽子をかぶり、流れ出た長い髪は深い橙色で、暗い森にあっても艶やかに輝いている。これでもかと露出された肩周りは、健康的な美しさを有し、歩きに合わせてなびくマントが、その肩に触れることもなくふわりと浮かんでいた。
「昔は、こんな辛気臭い場所じゃなかったさね」
ラーネは、小さいため息を一つついた。
昔とはいえども、その記憶は八百年前にさかのぼる。
薬草の知識を専門とする魔女がいて、動物を愛し愛される魔女がいた。森は光差す場所もあれば、闇深い奥地も存在していた。温かな花畑の隣には、毒々しい沼地が広がる、そんな不可思議な風景が、ラーネの脳裏に呼び起こされる。
魔女の中には、呪いの儀式を好んで使う者もいたが、彼女らは互いの領分を犯すことなく成り立っていた。
多種多様な魔女が生活を営んでいたため、当時は「魔女の森」と呼ばれていたのだ。
だが、いつの頃からか、呪術を生業とする魔女が力を求め始めると、この地は「呪いの森」と忌避されるようになっていったのである。
「呪術なんざ、発展性のない技術だと、説明してやっただろうに」
ひときわ大きなため息を吐くと、ラーネは歩みを止めた。
森の奥から三つの気配が、近づきつつあることに気付いたからだ。
木々の間、暗い影の中から、ぼやりと浮かび上がったのは、三人の老婆の顔だった。
「おやおや、久しぶりの顔を見たよ。昔のまんまだわね」
「森が懐かしくなったのかい? 帰って来てくれたのかい、嬉しいねぇ。お帰り。お帰り」
「嬉しかないね! 第一声が『発展性が無い』って文句じゃないか。こっちから願い下げだよ」
暗闇のローブに包まれている顔は、ラーネから数歩離れた場所で、現れては消えてを繰り返す。それはまるで、深い森が瞬きをしているかのようにも見える。
朧げな声は、あちらこちらから同時に響いて聞こえていた。
老婆達の皮膚は、枯れ果てたかのように無数の深い皺が覆いつくし、生者とは思えぬほどに青白い。落ちくぼんだ目に、眼球の類は見当たらず、視線がどこへ向けられているのかさえ不明であった。
「望郷の念に駆られたわけでもないさね。呪詛を振り撒いてる輩の存在を耳にしたから、やめさせるために来ただけさ」
ラーネは呆れた表情で肩をすくめる。そして「ちなみに」と続けて言う。
「あたしゃ、あんたらの名前が出てこないんだけれども、知り合いだったかい?」
三つの老婆の顔は、互いを見やると、首をぐるぐると捻る。
「あらあら、忘れられてしまったのだわね。長い間会っていなかったものね」
「わたしらは……そう『魔女』と呼ばれていたじゃないか。魔女だよ、忘れてしまったのかい? 悲しいねぇ」
「悲しかないね! 薄情者が。お前さんのことを思い出さない日はなかったほどなのに。わたしらの前から姿を消した――」
別々の言葉を吐いていた老婆らが、すっと一所に集まると、ラーネを虚空となった双眸で凝視する。
そして、裂けんばかりに口を開き、甲高い声を上げた。
「「「奇禍の魔女ラーネ」」」
森に充満した重く気怠い空気が震える。
そこかしこにある影から、無数の黒き腕がラーネへと襲い掛かった。足元からも出現したソレを、避けられる者はいないであろう。
全身に纏わりつく真黒い手は、実体化するほどの濃さをもった呪詛だった。
「わたしらが、八百年以上もの長きにわたり、生き長らえているとは思わなかったんだわね」
接近した老婆が、ラーネの顔に愛おしそうに頬ずりをする。ざらりとした不快な感触に、ラーネは目を細めた。
魔女と呼ばれる者達の身体的な能力は、さして人族と変わらない。寿命を無視し、八百年を越えるには、何らかの術を用いているはずだ。
「魔女ラーネと言ったかい? そうかい、お前さんも、わたしらと同じ魔女なんじゃないかい。一つになるべきだわ。それがいいねぇ」
肩口に顎をのせた老婆は、辻褄の合わぬことを口走りながら、良案を思いついた表情を浮かべる。
「いいわけがないね! わたしらのボロボロの肌を見なよ。お前さんだって同じ年月を生きてるはずなのに、なんで小綺麗な肌をしているんだい」
ラーネを頭の天辺から足の爪先まで、品定めするように観察している老婆が、憎々しげな顔で言った。
「まあまあ、こんなに若々しいなら」
「取り込んでしまうのはもったいない」
「わたしらの体として、使ってやろうじゃないか」
ラーネの眼前に顔を並べ、三人の老婆は「わたしの」と声を揃える。
呪詛の腕が、ラーネの内側へ浸透するため、みしりと拘束している力を強めた。
大地に根を張るように、ラーネの肌の上に黒い染みが広がる。
「うっさい婆どもだね。古い肩書を思い出させるんじゃないよ」
息も出来ぬほど締め付けられているはずのラーネは、涼しげな様子で首を振った。
「我慢していないでね、その身体を明け渡し――」
再び頬ずりをしようと近付いた老婆の顔を、ラーネの右手が鷲掴みにする。残る二つの顔は、事態が把握できずに固まっていた。
呪術は万全な状態で発動しており、その影響下では、どれほど屈強な戦士であろうとも身動きなど取れるはずがなかったからだ。
「だから言ってんだよ、呪術なんざ伸びしろが無いってさ」
言うと同時に、ラーネは爪を立てて、バリっと引き裂く。
たまらず、老婆は叫び声をあげながら空中をのたうち回った。
「なんだ、そんなになっても痛みは感じられるのかい」
ラーネは「こりゃ驚きだわね」と呟きながら、体に纏わりつく呪詛を、埃でも落とすかのように払うのだった。
次回投稿は10月18日(日曜日)の夜に予定しています。




