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燦光伝  作者: sanpo
54/63

*53

     


 長い間、湖鬼神は王の死に気がついていないように見えた。

 新たな血の匂う〈王の間〉で、物言わぬ躰を揺さぶって問い続けた。

「今、何と言った、(あけひ)王よ? 俺が(やみひ)だと? それは沙嘴の第二王子の名だろう? おい、陽王?」

 幾度か塗り重なった血のせいで黒衣と化した王の朱の彩羅に湖鬼神の同色の髪が零れかかる。

「頼む、答えてくれ! 教えてくれ……!」

 雲が流れて、また月を隠した。

王の言った(・・・・・)通りです(・・・・)

 いつからそこにいたのか──

 陽王の代わりに湖鬼神の問いに答えたのは惹苺(ジャモ)皇太后だった。

「月王子、よく故郷へ戻ってくれました。そして、この母の元へ……!」

 湖鬼神は王を抱えたまま闇の中に湧いて出たかのようなその女を振り返った。

あなたも(・・・・)? 俺が月だと言うのか?」

 皇后は昂然と頷く。

「あなたは月です。母には一目でわかりましたよ。愛しい子!」

「う、嘘だ! そんな馬鹿な──」

「何年離れて暮らそうと母なら自分の息子を一瞬で見極められます。尤も──」

 血より濃厚な麝香の香り。

 惹苺は一歩、一歩、湖鬼神へ歩み寄る。

「あなたが確証を得たいというなら……どうしても目に見える証拠が欲しいなら……それ(・・)です」

 母が白い指で指し示したのは、湖鬼神の脇腹に残る古い刀傷だった。

「今さっき、陽王も謝っていたでしょう? それ(・・)はねえ、その昔、あの子がおいたをして弟のあなた(・・・・・)につけた怪我の痕なのよ」


 最初、湖鬼神を襲ったのは閃光──

 白い嵐──

 黒漆の〈王の間〉が吹雪の沙海に思えた。

 色を失った世界で身中の血が凍りつく亀裂音を確かに聞いた気がする。

 全身が震えて、息ができなかった。

(じゃあ……俺が?)

 俺はこの手で兄を殺めたというのか?

 痺れた頭に中で、王に刃を突き立てた、その瞬間の自分の姿を幻視した。

(俺が斬りつけた時、王は剣を捨てた……)

 俺が月だと(・・・・・)気づいて(・・・・)王は凶器を捨てたんだ……

 争うのを拒否したんだ……

 それを、俺は──

 今経っても、王自身に投げつけた自分の罵倒が耳に蘇る。


   ── 血を分けた兄弟を平気で殺める畜生め!


「過ぎてしまったことはどうにもなりません。いえ、むしろ……これこそ天啓かも知れませんよ」

 王の亡骸の前で項垂(うなだ)れる湖鬼神の肩に皇太后は優しくその手を置いた。

あなたこそ(・・・・・)真の王となるべき者に違いありません。偽王に代わるべく天に定められし者! 今こそ、あなた(・・・)が沙嘴王となるのです!」

 深く頭を垂れたまま動かない湖鬼神に朗々と声を高めて皇太后は言うのだ。

「心配しないで。この母がついています。私が力を貸してあげます。これからは二人手を携えて沙嘴を治めるのです。月、私の言う通りになさい。あなたならできます」

 微笑を含んで皇太后は続けた。

「湖鬼の将……〈沙海の覇者〉として鍛え上げてきたんですもの! 脆弱な父王や優柔不断な兄王と違って……無知で暗愚な弟王子と違って……きっと力溢れる、何物にも脅かされない恐るべき国を築いて行けますとも!」

 ゆっくりと黒髪が揺れて、初めて湖鬼神が母を見た。

「私はこの日が来るのを待ち望んでいたのです!」

 水禽を思わせる裳裾を引いて母はうっとりと話し続けている。

「凡庸でか弱い者共は寄り集まって群れをなせばいい。独り、真実の力を持つ者こそ〈支配〉という宝剣を帯びることができる。〈王〉とはそういう絶対的な力を有す者を指す言葉のはず。

 若き日、私はそれを信じてあなたの父君を選んだのに──当の沙嘴王は偽王でした」

 心底残念そうに惹苺皇太后は息を吐いた。

「あの人は何でもできる立場にありながら私のささやかな願い一つ満足に叶えることができなかった。

 妻や己の幸福よりも民草のそれを気にかけるとはなんて腰抜けなの?

 そんな者は〈王〉じゃなくて〈奴隷〉じゃないの? 私は大変がっかりしました。

 でも、あなたは(・・・・)違うでしょう(・・・・・・)?」

「ああ、それで?」

 唐突に湖鬼神が口を開いた。

「それで、あんたは湖鬼の将を……今、俺にこうやってる(・・・・・・・・)のと同じように(・・・・・・・)誘惑したのか?」

 湖鬼神の声に含まれた陰鬱な響きに気づいて惹苺は喋るのをやめた。

「何のことです?」

(ちのひ)の父の話さ。俺は湖鬼だから(・・・・・・・)知っている(・・・・・)

 そいつにも現王を蹴落として取って代わるよう(そそのか)したのか?」

 皇太后はまじまじと床に腰を付いたままの次男を眺めやった。

 暗い微笑を宿した双眸。

「俺に対しての〈母親〉という切り札の代わりに、そいつには〈同族の女〉の色香を使って?」

「何を言っているの、月?」

「汚い女だな、おまえは?」

 湖鬼神は立ち上がると容赦なく母の腕を掴んだ。

 皇太后は蒼白になった。

「こ、この子は母に向かって何をするの? 月?」

「うるさい! 俺の名を……そんな風に呼ぶな! おまえのような人間に今更……その名で呼ばれたいものか!」

 漸くわかったぞ(・・・・・・・)……!

 湖鬼神は抗う母を引き摺って兄王の遺骸の前に戻った。

「陽王。あんたはさっき言ったな? 自分がどれほど〈湖族の血〉を憎んでいるかと。憎んでも憎みきれない……全ての元凶こそそれ(・・)だと。だけど、それは少し違うぞ!」

 湖族じゃないんだ(・・・・・・・・)

「種族の血じゃない!」

 湖鬼神はきっぱりと言い放った。

「災厄は全てこの女の中にある(・・・・・・・・)! こいつが持っている狂気と欲望のせいだ!」

  


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