*52
遠い夏の日……
茉莉花の白い花の揺れる中院……
自分を追って駆けて来た黄の彩羅の弟王子は叫んだ。
「兄上! お待ちください、兄上!」
「待たないぞ!」
いつもいつも、小賢しいほどくっついてついて来る一つ違いの弟だった。
今日こそは一人になりたかったのに……!
母の贈物をゆっくりと眺めようと思っていた。
昨日、中院の暗い木陰で母がこっそり自分にだけ教えてくれたのだ。
── 贈り物をあげる。私の泉を覗いてご覧なさい、陽……
果たして、たゆたう透明な水底に、大人の印、立派な剣が沈めてあった。
「私のだ! 触るな!」
有頂天になって陽王子は叫んだ。
「母上が私に賜ったんだ! 私にだけ教えてくれたんだぞ!」
「嘘だ!」
泉に先に飛び込んだのは弟だった。
「私の分もあるじゃないか!」
いつもいつも……
生意気で敏捷い月め!
またしても、真っ先に剣を手にしたのは月王子だった。
慌てて陽王子も飛び込んだ。
「勝手に先に触れるな! 私が兄だぞ! まず私が選んでからだ!」
確かに水中には二振りの剣が隠されていた。
どちらも大人の男が帯びる、本物の武具……!
「何だよ? 兄上がノロマだからいけないんだ。私はこっちに決めた!」
「生意気な! 母上は私にだけ教えてくれたんだ。おまえは何も知らなかったくせに。おまえは勝手についてきただけだろ? おまえなんかオマケなんだよ!」
「何だと!?」
どちらが先に剣を抜いたのかは憶えていない。
だが、その後の、朱に染まった茉莉花のことは憶えている。
弟王子の脇腹から、後から後から流れ出た大量の血と、その匂いも。
血は傍らの、その芳しい赤──本当は白──い花と同じくらい甘い匂いがした……
人の血が甘いと、その日、陽は知ったのだ。
今、湖鬼神と名乗った男は、とうに乾いた古い血溜りの中で、喘ぎながら末王子の亡骸を胸に掻き抱いていた。
「螢? 何てこった……おまえ……こんな酷い……」
二人とも、私の目の前で、
と、陽は思った。
弟たちはいつも血だらけだ。
目の前の弟たちはいつも血塗られている。
誰のせいだ?
剣を下げたまま陽王は黒髪の湖鬼へと歩み寄った。
静かに尋ねる。
「おまえ……湖鬼神と言ったな? その傷……その傷は……」
湖鬼神は獣のように動いた。
螢の胸に残っていた短剣を引き抜くと振り向きざま斬りつけた。
「ウオーーー……!」
「え?」
一振りめ、王は俊敏にも避けることができた。
体勢を立て直して対峙した湖鬼は涙に濡れた顔で叫んだ。
「俺は剣を失った! この勝負、あんたの勝ちだ、陽王! だが、俺は刺し違えてでも──やってやる! 俺はあんたを許さないっ!」
(私を? 許さない……?)
再度、捨て身で突進して来る湖鬼神。
刹那、王は自分の剣を捨てた。
王の手を離れた剣は骨のような乾いた音を響かせて〈王の間〉の床に落ちた。
ほとんど同時に、湖鬼神の剣が王の胸を深く抉っていた。
湖鬼神には王のこの行動が理解できなかった。
「……何故、剣を捨てた? あ、あんたの方が優位だったのに?」
床に崩折れた王は何か言おうとしている。
膝を折り、耳を寄せる湖鬼神。
「陽王?」
「謝りたかった……私だって……ずっと……胸の奥に引っかかっていたんだ」
「?」
「だが……知らなかったんだもの。おまえが生きていたなんて……」
「オイ? 何を言っているんだ?」
抱き起こした湖鬼神の腕の中で王は囁く。
「私は悪い兄だった。おまえが許さなくて当然だ。だが……」
血を吐いて、咳き込みながら、それでも陽王は懸命に言葉を繋いだ。
「ほ、本当に悔いている……ごめんな?」
わけがわからず戸惑う湖鬼神の乱れた黒髪に手を伸ばすと陽王は微笑んだ。
「あの日は……ごめんよ……月……」
「──」
湖鬼神の硬った腕の中で沙嘴王・陽は魂切れた。
先刻、螢がそうだったように、兄弟の胸の中へ深く頭を落とすと、動かなくなった。




