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「月……?」
腕を捕らえたまま、息子が残る方の手で死せる王の胸から静かに短剣を引き抜くのを見て母は心底震え上がった。
「俺は騙せないぞ! いや、おまえなんかに誑かされた愚かな男は俺の身内には一人だっていなかったはずだ!」
父王も、兄王も……弟王子だって!
「さっき、おまえ自身がその口で言った通り、誰一人あんたの狂気には踊らされはなかった! 皆、優しくて賢明で清廉な真の王族だったんだ!」
「月……!」
「いいとも。あくまで俺をその名で呼ぶのなら──ならば、俺だって証明して見せてやる」
自分の肩先にも届かない緑青色の母。
それを斬ることに湖鬼神は何の躊躇いもなかった。
「父王や陽王や螢同様……俺もおまえを拒絶してみせる。誰が言いなりになどなるものか!」
「あ、あなたは本気でそんなことを……?」
「おまえこそ万死に値する! 下劣な毒婦! 腹黒い沙海の蛇め! おまえが引っ掻き回したおかげでこの国が滅茶苦茶になったのがわからないのか?」
母を掴む手に力が篭る。一歩踏み出して湖鬼神は思い出した。
「そうだ、最期に一つだけ聞きたいことがある。あの日、剣を泉に置いたのは何のためだ?」
一瞬、惹苺は体を強ばらせた。
観念したのか、後悔しているのか、それとも単に癖なのだろうか? ため息を一つ吐いて笑った。
「まさか、あそこまで騒動になるとは思わなかったわ。私はただ……帝国へ行きたかっただけ」
「何だと?」
湖鬼神は耳を疑った。
「王子の人質を帝国が強く望んでいるのを廷臣たちの会話から盗み聞いて……それで、協力してくれる人に託してこっそり帝国へ親書を送ったのよ」
《 近く騒擾起きる。その機を利用すべし。 》
「私は約束通り騒ぎを起こす必要があった。でも──」
悲しげに皇太后は顔を曇らせるのだ。
「結局あれも失敗した。第一王子に付き添って私も帝国へ行くつもりだったのに、先王はそれを許さなかったし、私が一番の協力者なのに島帝国の方からも王后は必要ないと拒否された」
「何故、それほど帝国に行きたかったんだ?」
「あら、私が最初に目指したのはそこなんですもの! あそこは何でも手に入る豪奢な国……夢の楽園だと聞いたから……!」
帝国へ行こうとして砂漠を超えて来て、力尽き、倒れていた異郷の娘を遠乗りに出ていた先王が見つけて城へ連れ帰ったのだ。
それがどんな災禍の種になるか若い王は知らなかった。
螢がやはり異郷の娘に恋をしたように、恋の炎は一瞬に燃え上がる。誰もそれを止めることなどできはしない。
湖鬼神は父の真心と純愛を詰る気にはなれなかった。
むしろ、愛した人がその愛に値しない人間だったことを知り、自分の愛が間違いだったことを悟った時の父の絶望を思って戦慄した。
「王様だったから……后になれるなら……小国でもいいと思って求婚を受け入れた私が馬鹿だったわ」
「なんて奴だ! もうたくさんだ──」
湖鬼神は剣を天に振り翳した。今こそ悪夢を断ち切るべきだ。既に血塗られた自分はこの役割に合っている──
「やめて、月! 本気で私を、実の母を殺そうというの?」
惹苺は身をくねらせて抗った。
「よりによって、陽が弟の螢を殺し……そしてまた、その陽が弟のあなたに殺された……その同じ剣で?」
「!」
流石に湖鬼神は動きを止めた。
振り下ろしかけた剣を見てしまう。
「恐ろしい! あなたたちこそ呪われた兄弟だわ!」
「な、何だと!」
湖鬼神の一瞬の逡巡。
その隙をついて惹苺は息子の腕を掻い潜り扉へと逃れた。
「誰か! 誰かある……!」
王城中に響き渡るかと思われる絶叫……!
「湖鬼が出た! 衛士は何をしている!? 湖鬼が〈王の間〉で陽王を……私の息子を殺したのよ! 助けて!」
「クッ、妖婦め!」
きりりと唇を噛む瑚鬼神だった。だが、もう遅い。
惹苺皇太后は狂ったように回廊中を叫び廻っている。
「早く! 早く! 誰かある……!」
「湖鬼だと?」
いち早く駆けつけたのは紂将軍とその側将たちだった。
「うん?」
〈王の間〉に続く暗い回廊。
帝国征夷派遣軍総帥はこの時、初めて沙嘴国の皇太后を目の当たりにした。
紂謖はかつて螢を見た時と同じ目つきで惹苺に視線を走らせた。
「助けて……!」
皇太后は血に汚れた裳裾もしどけなく将軍の胸の中に倒れ込んだ。
「湖鬼が城内に侵入しました! 私と陽王が螢王子の死を静かに弔っている〈王の間〉にやって来て……陽王を殺したのよ!」
(これまでだ!)
帝国人に縋って泣く母の声を聞きながら湖鬼神は短剣をその場に捨てると高窓へと走った。
そのまま中院へ飛び降りる。
紂将軍は腕の中で泣きじゃくる惹苺をつくづくと眺めやった。
(ほほう! こいつは……!)
それから、やおら部下達に向き直って叫んだ。
「何をしている! 追うぞ! その湖鬼とやらを引っ捕えるんだ!」




