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百物語  作者: こうた


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第三話:夜行バス

長距離夜行バスというのは、独特の閉塞感がある。

カーテンで完全に遮断された車内は、深夜になるとすべての照明が落とされ、乗客たちはリクライニングシートを深く倒して、ただ目的地に着くまでの退屈な時間を眠って過ごす。

大学生の直人は、実家へ帰省するために、深夜二時発の格安夜行バスに乗り込んでいた。

乗客はまばらで、直人の隣の席も空いていた。彼は通路側の席に座り、お気に入りの音楽をイヤホンで聴きながら、浅い眠りを繰り返していた。

どのくらいの時間が経っただろうか。

ふと、耳元で音楽が途切れた。スマートフォンのバッテリーが切れたわけではない。ただ、イヤホンのコードが微かに引っ張られたような違和感があった。

直人はうっすらと目を開けた。

車内は一寸先も見えないほどの暗闇に包まれている。聞こえるのは、大型バスが高速道路を走る、単調で重い地鳴りのようなエンジン音だけだ。

「……?」

何か、奇妙な音が混じっていることに気づいた。

シャリ、シャリ、シャリ、シャリ。

それは、ビニール袋を擦り合わせるような、あるいは、乾いた爪で何かを引っ掻くような、細く小さな音だった。

音は、直人のすぐ後ろの席から聞こえてくるようだった。

直人は座席の隙間から後ろの様子を窺おうとしたが、シートが高く、暗闇のせいで何も見えない。ただ、後ろの席の乗客が、何かを熱心にいじっているのだろう。そう思って、再び目を閉じた。

しかし、その音は次第に形を変えていった。

クチャ、クチャ、クチャ……。

今度は、何か湿ったものを咀嚼するような音が聞こえ始めた。それも、人間の立てる食べ物の音にしては、あまりにも粘り気があり、骨が軋むような嫌な音が混じっている。

同時に、車内のエアコンの臭いとは明らかに違う、妙に生臭い、川の泥が腐ったような悪臭が漂ってきた。

直人は不快感に眉をひそめた。後ろの席の人間は、こんな深夜に一体何を食べているのだろうか。

クチャ、クチャ……。

音が、だんだんと近づいてくる。

気のせいではない。直人が頭を乗せているヘッドレストの、ちょうど真後ろ。布一枚を隔てたすぐ向こう側で、その音がしているのだ。

じわじわと、言いようのない嫌悪感と恐怖が直人の背中を駆け上がった。

彼はやり過ごそうと、わざとらしく大きな寝返りを打ち、通路側へ身体を向けた。

だが、音は止まらない。それどころか、今度は直人の耳元で、かすかな「吐息」が聞こえた。

「……ぅ……あ……」

それは、言葉にならない、掠れた老人のような、あるいは子供のような、判別のつかない声だった。

直人は恐怖で全身がすくみ、目を開けることができなくなった。開けてはいけない、と本能が激しく警鐘を鳴らしていた。

その時、直人の肩に、冷たいものが触れた。

氷のように冷たく、そして酷く湿った「何か」が、彼の衣服の上から、ゆっくりと滑るようにして首筋へと移動してくる。それは、人間の指のようだったが、関節の数が異常に多いかのように、ぐにゃぐにゃとした不自然な動きで直人の肌を這い回った。

(助けてくれ、誰か……!)

直人は心の中で叫んだ。しかし、周囲の乗客は皆、深い眠りに落ちているのか、物音ひとつ立てない。運転手の手元だけが、遠くで微かに光っているはずだが、通路のカーテンに遮られて見えなかった。

肌を這う冷たい感触は、ついに直人の顎の下まで達した。

そして、耳元で、肉が擦れるような音がした。後ろの席の「何か」が、シートの隙間から無理やり首を伸ばし、直人の顔の真横まで這い出てきているのが、気配で分かった。

クチャ、クチャという音が、鼓膜のすぐ傍で響く。

耐え切れなくなった直人は、パッと目を開け、反射的に隣の空席へと身体を突き飛ばすようにして避難した。

暗闇に目が慣れた彼の視界に、シートの隙間から覗く「それ」が映り込んだ。

それは、人間ではなかった。

異常に長い首が、前の座席を回り込むようにして伸びていた。その先端にある頭部は、毛髪が一本もなく、皮膚がドロドロに腐り落ちており、剥き出しの眼窩から、真っ赤な眼球が二つ、直人を凝視していた。

その口は、自分の肩から溢れ出た、赤黒い肉の塊を貪り食っていた。

「あ……あ……」

直人は悲鳴すら上げられず、座席にへたり込んだ。

その怪物は、直人が動いたのを見ると、咀嚼をピタリと止め、泥のような割れた口を大きく開いた。

『……つぎは、おまえだ……』

その瞬間、バスが大きく揺れ、激しいブレーキ音が車内に響き渡った。

直人は衝撃で床に転がり落ちた。

「大丈夫ですか! 急に鹿が飛び出してきて!」

運転手の焦った声が響き、車内の照明がパッと点灯した。

白い光の中に、乗客たちが一斉に目を覚まし、ざわざわと騒ぎ始める。

直人は震えながら、すぐに自分の後ろの座席を振り返った。

そこには、誰もいなかった。

ただの空席だ。シートには汚れ一つ残っていない。

しかし、直人が座っていたヘッドレストの布地だけが、まるでバケツの水をひっくり返したかのように、じっとりと黒い液体で濡れそぼっていた。

バスはそのまま目的地に到着し、直人は命からがら降車した。

あれは夢だったのだ、強烈な金縛りの一種だったのだと、彼は自分に言い聞かせ続けた。

だが、実家に帰省したその日の夜。

自分の部屋で布団に入った直人は、再びあの音を耳にすることになった。

シャリ、シャリ、シャリ、シャリ……。

音は、閉め切った窓の向こうからではない。

彼が敷いている敷布団の、ちょうど「頭の真後ろ」の床から、じわじわと何かが這い上がってくるような音が、静かな寝室に響き渡っている。


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