第二話:深夜の物音
一人暮らしを始めて、最初に悩まされるのは「音」かもしれない。
会社員の拓也が引っ越した木造のアパートは、お世辞にも防音性が高いとは言えなかった。隣の住人がテレビを見る音や、上の階の人間が歩く足音が、薄い壁や天井を通して日常的に聞こえてくる。
「まあ、お互い様か」
そう割り切って、拓也は耳栓を買って対処していた。実際、それらの生活音は不快ではあったが、都会の集合住宅ではよくあることだと諦めがついていた。
だが、入居して二ヶ月が経った秋口の夜、拓也は妙な音で目を覚ました。
時計は午前二時を回っている。耳栓をすり抜けて聞こえてきたのは、微かな、しかし明瞭な「音」だった。
コン、コン、コン、コン。
固い木を、人間の指の関節でリズミカルに叩くような音。
最初は隣の部屋から聞こえるのかと思った。しかし、耳を澄ますと、音の方向がどうもおかしい。壁からではない。
足元だ。
いや、正確には、自分が寝ている「畳の真下」から聞こえてくる。
拓也の部屋は二階だ。一階には、物静かな初老の男性が一人で住んでいるはずだった。昼間に挨拶をした時は、とても夜中に天井を棒で突くような真似をする人には見えなかった。
コン、コン、コン、コン。
規則正しい音は、一分ほど続いた後、ふっと途絶えた。
気のせいか、あるいは一階の住人が何か作業でもしていたのだろう。拓也はそう無理やり納得し、再び目を閉じた。
しかし、その音は次の夜も、その次の夜も、全く同じ午前二時に始まった。
コン、コン、コン、コン。
ただ叩くだけではない。日が経つにつれて、その音は少しずつ「移動」していることに気づいた。
ある夜は部屋の隅から。またある夜は、拓也が寝ている布団のちょうど真下の位置から。まるで、床下にいる何かが、拓也の居場所を確かめるようにして、下から畳を叩いているようだった。
寝不足とストレスで、拓也の精神は限界に近づいていた。
一階の住人に苦情を言おうかとも思ったが、もし全く関係のない、別の「何か」だったらと思うと、妙に足がすくんだ。
そして四日目の夜。
その日は、いつもの「コン、コン」という乾いた音ではなかった。
ベチャリ、ベチャリ。
それは、濡れた肉の塊を、床板に叩きつけるような、湿った鈍い音だった。
拓也は布団の中で身を硬くした。耳栓をしているにもかかわらず、その不快な音は脳を直接揺さぶるように響く。
ベチャリ、ベチャリ、ズルリ……。
引きずるような音が続く。何かが、床下を這い回っている。それも、ただのネズミや小動物ではない。もっとずっと大きく、重い何かが、狭い床下の空間を、肉体を押し潰しながら移動している音だ。
(何なんだ、一体……!)
拓也は恐怖で息を殺し、掛け布団を頭から被った。
すると、その音が、ゆっくりと自分の布団の真下へと近づいてくるのが分かった。
畳一枚を隔てたすぐ下。
そこで、音がピタリと止まった。
静寂が部屋を支配する。拓也は自分の心臓の音がうるさくて、それだけで狂いそうだった。
どれほどの時間が経っただろうか。もう音はしない。諦めてどこかへ行ったのだろうか。
そう思った瞬間。
ガリガリガリガリガリ!!!
突如として、激しい音が足元から炸裂した。
何かが、狂ったような勢いで、下から畳を爪で引っ掻いている。
「うわあ!」と拓也は短い悲鳴を上げ、布団を跳ね除けて飛び起きた。
部屋の明かりをつけると、引っ掻く音はピタリと止んだ。
拓也はゼィゼィと荒い呼吸を繰り返しながら、自分が先ほどまで寝ていた敷布団を剥ぎ取った。
そこにあるのは、古い、何の変哲もない畳だ。
しかし、よく見ると、畳のイグサの隙間から、細い「黒い毛」のようなものが数本、突き出ている。
拓也は腰を抜かしそうになりながらも、その毛をじっと見つめた。
それは、人間の髪の毛だった。
下から、畳の目を突き破って、生えてきたかのように。
もう限界だった。
拓也は朝を待たずにアパートを飛び出し、そのまま漫画喫茶へ避難した。翌日、彼は管理会社に連絡を入れ、一階の住人について問い合わせた。夜中の騒音について、それとなく確認したかったのだ。
電話に出た管理会社の担当者は、拓也の言葉を聞くと、怪訝そうな声を出した。
「あの……拓也さん。言い忘れていましたが、一階のあの部屋の入居者さん、体調を崩されて一ヶ月前から入院されていますよ。今は空き部屋です」
「え……? でも、昼間に挨拶をした時は……」
「それは引っ越してすぐの時でしょう? その数日後に入院されたんです。今は鍵も閉まっていますし、誰もいるはずがありませんよ」
じゃあ、あの音は誰が鳴らしていたのか。
あの髪の毛は、どこから。
拓也は恐怖のあまり、その日のうちに解約手続きを済ませた。荷物の搬出はすべて業者に丸投げし、自分は二度とあの部屋に足を踏み入れなかった。
引っ越し後、新しいマンションで暮らし始めた拓也は、ようやく静かな夜を取り戻したかに見えた。
しかし、一週間ほど経った夜。
深夜の二時。
拓也は、ふと目を覚ました。
新しい部屋はコンクリート造りで、防音性は完璧なはずだった。
静まり返った部屋の中で。
彼の耳に、あの音が聞こえてきた。
コン、コン、コン、コン。
壁からではない。
今度は、彼が寝ているベッドの、ちょうど「真上の天井」から。
何かが天井裏を這う、ベチャリ、という湿った音が、ゆっくりと彼の頭上へと近づいてきている。




