第四話:にやにや様
地方の大学に進学した従兄の部屋へ、遊びに行った時のことだ。
そのアパートは、古びた学生街の路地裏にあり、一階の廊下は昼間でも薄暗かった。従兄の部屋は突き当たりの角部屋で、四畳半一間の狭い空間には、本や服が足の踏み場もないほど散らばっていた。
「悪いな、散らかってて。まあ適当に座ってくれ」
従兄はそう言って苦笑いし、万年床の端に私を座らせた。久しぶりに会う従兄との会話は弾み、私たちは夜が更けるのも忘れて話し込んだ。
夜の十二時を回った頃、私はふと、部屋の隅にある小さな窓が気になった。
換気用なのだろうか、すりガラスの嵌まった小さな引き違い窓が、天井に近い高い位置に取り付けられている。その窓の鍵(クレセント錠)の周りに、びっしりと何重にも、黒いガムテープが貼られているのだ。
「あの窓、どうしたの? 壊れてるの?」
私が指差すと、従兄はそれまで浮かべていた笑顔を、ピタリと消した。
部屋の中の空気が、急に冷え込んだような気がした。
「……見ちゃったか。いや、触らない方がいい。開かないように固定してあるんだ」
従兄は声を潜め、部屋の隅を警戒するように見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
一ヶ月ほど前の、やはり雨の降る静かな夜だったという。
従兄がベッドで本を読んでいると、突然、頭上のあの窓が「コン」と小さく鳴った。
外は二階だ。足場になるようなベランダもない。鳥か何かがぶつかったのだろうと思い、従兄は気に留めなかった。
しかし、数分後。
また、コン、と音がした。
今度はさっきより少し強い。爪の先でガラスを叩くような、硬い音だ。
従兄は怪訝に思い、ベッドから立ち上がって窓を見上げた。
すりガラスの向こうは、外の街灯の光でぼんやりと白く濁っている。何も見えないはずだった。
だが、ガラスの向こう側に、何かがぴったりと張り付いているのが分かった。
それは、人間の「顔」の輪郭だった。
街灯の逆光になって、シルエットだけが黒く浮かび上がっている。
二階の、足場もない窓の外に、誰かが浮いている。その事実だけで従兄は硬直した。
ガラスの向こうの影は、ゆっくりと動き、指らしきもので窓を少しずつ押し開けようとし始めた。古い窓だったため、鍵をかけていても、建付けの隙間からガタガタと不快な音が響く。
従兄は恐怖のあまり動けなかったが、影は諦めず、何度も窓を揺さぶった。
そして、すりガラスのわずかな隙間から、その「顔」の一部が、室内の明かりに照らされた。
それは、真っ白な、肉の削げ落ちた老人のような顔だった。
いや、老人というよりは、能面の「痩男」をさらに歪ませたような、人間離れした無表情さだった。
だが、その口元だけが、耳の下まで裂けるかと思うほど、異様に大きく、にやぁ……と釣り上がっていた。
目は一切笑っていない。ただ、口だけが「にやにや」と笑っているのだ。
「ひっ……!」
従兄が声を上げると、ガラスの向こうの『にやにや様』は、自分の存在に気づかれたことを喜ぶように、さらに口を大きく広げ、窓を叩く速度を上げた。
ガタガタガタガタ! ガタガタガタガタ!!!
従兄は狂ったように這い回り、手元にあった黒いガムテープを掴むと、窓枠ごと、鍵の周りをめちゃくちゃに貼り付けた。
完全に窓を塞ぎ、外が見えなくなると、叩く音はピタリと止んだという。
「それ以来、怖くてあのガムテープは剥がせないんだ。管理会社には内緒にしてるけど……」
従兄はそこまで言って、深くため息をついた。
私は背筋が寒くなり、それ以上その話題に触れるのをやめた。その夜は、お互い何となく寝付けず、朝方になってようやく浅い眠りに落ちた。
翌朝、私は用事があったため、早々に従兄の部屋を後にした。
悲劇が起きたのは、その三日後のことだ。
従兄の母親から、私の実家に泣きながら電話が入った。従兄が、アパートの部屋で精神を病んで精神病院に搬送されたというのだ。
私は胸騒ぎを覚え、すぐに従兄のアパートへと向かった。
部屋にはすでに警察の現場検証が終わり、鍵が開けられた状態だった。中に入ると、部屋はあの日のままだったが、一つだけ、決定的な違いがあった。
部屋の隅の、あの小さな窓。
黒いガムテープは、切り裂かれていた。
それも、外から破られたのではない。
内側から、従兄自身の爪で引き剥がされ、引き裂かれた形跡があった。
そして、窓は完全に、全開になっていた。
部屋の机の上には、従兄が書いたと思われる、震えた文字のメモが残されていた。
『もう駄目だ。ガムテープの隙間から、にやにや笑いながら覗いてくる。
だけど、違った。
あいつは外から叩いてたんじゃない。
中に、部屋の中にいたんだ。
外に出たくて、中から窓を叩いてたんだ。
今、僕のすぐ後ろで、耳元で、にやにや笑いながら、窓を開けろって囁いてる』
従兄が発見された時、彼は部屋の真ん中で、自分の口の両端を指で限界まで引き裂き、血まみれの顔で「にやにや」と笑いながら、開いた窓をじっと見つめていたという。
私は今でも、夜中に窓ガラスが「コン」と鳴るたびに、心臓が止まりそうになる。
あれは、外にいる誰かが入りたがっている音なのか。
それとも、もうすでに部屋の中にいる何かが、外へ出たがっている音なのだろうか。




