第2話 アラフィフ介護士 子供を助ける
そんなわけで、俺は電柱を蹴飛ばしていた。
もちろん、蹴ったところで状況が変わるわけじゃない。道が開けるわけでも、スッキリするわけでもなかった。
……あんな啖呵を切って職場を飛び出した以上、もう戻ることはできないだろう。
仮に別の施設で再スタートできたとしても、今の介護業界の状況は厳しい。
給料? 労働環境? 言い出したらキリがない。
でも、やっぱり一番は――コンプライアンスの問題だ。
ニュースでは職員による高齢者への暴力・暴言がよく取り上げられるが、現場にいればその逆も珍しくない。いや、むしろ多いくらいだ。
機嫌が悪いからといって殴りかかってくる入所者。
若い女性職員を見つけては、ベッドに引きずり込もうとする爺さん。
挙げだしたらキリがない。
そんな現場で、少しでも身を守ろうとすれば――
「か弱い高齢者に対して何をしたんですか!?」なんて言われて、たちまち加害者扱いだ。
問題が起きた時、自分の潔白を証明するのに膨大な時間がかかる。
それでも報われないなら、我慢するか、辞めるしかない。
今の介護士ってのは、そういう仕事だ。
(もう十分やったよな……。退職金はないけど、少しは蓄えもあるし。介護以外の道を探してみよう。溜まった歴史小説でも読みながらちょっと休もう)
そう思ってふと顔を上げた時、辺りがずいぶん暗くなっていることに気づいた。
時計を見て、慌てて夕飯でも買おうと近くのコンビニに向かう。
……と、その時、目に飛び込んできたのは点滅を始めた青信号と、それを渡っている小さな影だった。
小学校低学年くらいの子ども。
塾帰りなのか、小走りで横断歩道を渡っていたが、信号が点滅していることに気づいていないようだった。
(ちょっと危ないな)
コンビニに向かうのをやめ、信号の方に目をやる。
案の定、子どもは渡りきる前に信号が赤に変わってしまった。
――そして、そこに走ってきたのが、中型のトラックだった。
ライトに照らされた子どもが立ちすくむ。
トラックも気づいたが、止まりきれない。距離が近すぎた。
気づいた時には、俺は走り出していた。
勢いのまま、子どもを後ろから突き飛ばす。
もし高齢者だったら、間違いなく転倒骨折してるくらいの勢いだった。
(ごめんな。多少擦りむいても、轢かれるよりマシだろ……代わりに、俺が――)
子どもが転がってトラックから離れたのを確認した瞬間。
次に俺の身体を貫いたのは、今まで感じたことのない衝撃だった。
(あ……息が詰まる……いや、止まりそうだ。体の半分が……痛い。ああ、俺、撥ねられたんだ)
一瞬のうちにいろんなことが頭をよぎる。
体が宙に浮いたような感覚。次の瞬間、地面との激突。
(……痛ぇ。体が動かねぇ……あの子は……?)
目だけで追うと、子どもは立っていた。泣きそうな顔で、俺を見つめている。
(……よかった、無事だな。怖かったよな、ごめんな)
ふと、思う。
(腹減ったな……コンビニ、行かなきゃ……あれ、体が動かねぇ?)
頭がぼんやりしてきた。
(最近、夜勤続きだったしな……疲れが溜まってたんだろ……歳は取りたくねぇな)
そして、顔をつたう温かいものに気づく。
(なんだこれ……やけに温かい。しかも赤い……水道管でも破裂したか?)
(……錆びてんのか? それにしちゃ多いな。文句言わなきゃな、水道局に)
くだらないことばかり頭に浮かぶ。
(……今日はほんと、踏んだり蹴ったりだった……)
まぶたが重い。眠い。とにかく眠い。
(……このまま、ちょっとだけ、眠らせてくれ)




