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第1話 アラフィフ介護士 職場を首になる。

「やっちまったなぁ……」


 職場からの帰り道、俺は電柱を力なく蹴った。もちろん、電柱に恨みがあるわけじゃない。ただ、どうにもならない感情を発散したかっただけだ。


 俺は介護士だった。つい一時間前まで


 22歳で資格を取り、関連資格も取得しながら20年以上、一生懸命やってきた。元の職場では唯一の男性介護士。独身のまま、がむしゃらに働いてきた。


 ……少しだけ、要領と運が悪かったかもしれないが。


 退職のきっかけは、ある男性利用者の一言からだった。


「このお茶は何だ! こんなに熱くて飲めるか! 今の若いもんは……」


 お茶会の場で昆布茶の温度に文句をつけ、そこから「俺を誰だと思ってるんだ!」の連呼。入居者たちの前で怒鳴り続けていた。その男性、つい最近は「ぬるいお茶なんて飲めるか!」と怒鳴っていたくせに。


 ターゲットにされ、泣きそうになっていた新卒の女性職員をかばおうと、「まあまあ」と俺が間に入ったのがまずかった。怒りの矛先が俺に向いた。


「お前なんぞ関係ない!」

「そんな体型じゃ女も寄りつかんだろ!」

「甲斐性なしが! こんな仕事しかできんのか! 誰の世話で飯が食えてると思ってるんだ!」


 理不尽な暴言は慣れている。年数だけは長くやっているから、柳に風のごとく受け流すことも身についていた。……普段なら。


 だが、この日は違った。


 相手も、若い女性職員から俺のようなむさいオッサンに変わったのが気に入らなかったのだろう。

 突然、杖を振り上げて向かってきた。


 昔も同じようなことがあり、実際に叩かれたことがあった。学生時代は空手部で、今も趣味で続けていたので、打たれ慣れているし、守るべき箇所も心得ている。

 今回も顔だけは守ろうと身構えていた、その瞬間だった。


「バタン!」


 大きな音とともに、その男性利用者が杖を振りかぶった反動でバランスを崩し、顔から床に転倒したのだ。


 一瞬、何が起きたのか理解できず、俺は呆然としていた。


 寮母たちが「○○さん、大丈夫ですか!」と駆け寄る。男性は呻きながら自力で起き上がったが、額に小さなコブをつくっていた。


 まだ状況を把握しきれない様子だったが、俺の顔を見た瞬間、表情が豹変した。


「こ、殺される~! ここは人殺しの集まりだ~!」


 寮母の手を振り払って、杖も使わず小走りで自室へ戻っていった。その後ろ姿を見ながら、元気だなとすら思った。


 ……だが、その後のことは思い出したくもない。


「殺される!」

 施設長に呼び出され、件の利用者の家族からそう電話が入ったと聞かされた。


「職員に暴力を振るわれた」

 家族より関係各所へ通報が入り、施設へ説明を求められてきたのだそうだ。


 他の職員たちが状況を話してくれたが、今の介護現場では何より高齢者が優先される。


 職員にその気がなくても、気に障る対応ひとつで「暴力」「暴言」と判断されてしまう。


 施設長もここ数年、神経をすり減らしながら入居者と職員の間を取り持ってきたのは知っている。


 だが、今回は様子が違った。家族の圧力、弁護士、法的措置まで示唆され、相当イライラしていたのだろう。


「20年以上もいて、年寄り一人まともに扱えないの? そんな問題起こすくらいなら、その辺の子供でもスカウトした方がマシ。年寄りの世話なんて、誰にでも出来るよ!」


 吐き捨てるような口調で言われ、あとは職員の処遇や対応の面倒さについて延々語られていたと思うが、もうあまり覚えていない。


 ただ、20年以上積み重ねてきたものが、この一件で無に帰す――そんな気がした。


 そして、施設長の言葉が、現場に対する本音なのだとも感じた。


 俺自身も、介護士が報われない現状に、どこか嫌気がさしていたのかもしれない。


「もう、いいや……」


 そう思った瞬間、俺は介護着を脱ぎ、施設長に渡した。


「お世話になりました。子供でもできると思うなら、そうしたらいいんじゃないですか」


 一礼し、俺は西日のまぶしい事務所を後にした。


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