第151話 日本政府らしい例外
アメリカ合衆国、ワシントンD.C.。
ホワイトハウスの地下深くに位置する大統領直轄の危機管理センター(PEOC)、通称「セキュア・ルーム」。
分厚いコンクリートと鉛の防護壁に囲まれ、外部のいかなる電磁波も音声も物理的振動も完全に遮断するこの絶対的な密室には、常に無機質で凍てつくような空気が循環している。
だが今日、この空間を満たしているのは、かつての冷戦期のような核の恐怖でも、差し迫ったテロの脅威でもなかった。それは、同盟国であるはずの極東の島国から一方的につきつけられた「人類の進化の青写真」に対する、底知れぬ疲労と、圧倒的なまでの当惑であった。
円卓の上座に座る第48代アメリカ合衆国大統領、キャサリン・ヘイズは、手元に置かれた極秘の報告書をじっと見つめたまま、微動だにしなかった。彼女の眉間には深いシワが刻まれ、その瞳には、大国を率いる指導者としての威厳と同時に、重すぎる現実に押し潰されそうになる一人の人間としての苦悩が滲んでいる。
円卓を囲むのは、アメリカという巨大な国家のシステムを根底から支える最高幹部たちだ。国防長官、統合参謀本部の高官、保健福祉長官、FDA(食品医薬品局)長官、国家安全保障補佐官、大統領首席補佐官、そして情報機関のトップたち。
さらに、この会議の中心的な報告者として、日本政府との極秘協議から帰還したばかりの二人——タイタン・グループの若き総帥ノア・マクドウェルと、CIA長官エレノア・バーンズが、ヘイズ大統領と真っ直ぐに対峙するように座っていた。
「……皆様、お集まりいただき感謝します」
大統領首席補佐官が、重苦しい沈黙を破って進行の口火を切った。
「本日は、先般、日本政府の内閣官房との間で行われた極秘協議において、彼らから提示された新たな『アンノウン由来技術』の段階的公開案に関する報告と、それに対する我が国の方針決定を行います。
……マクドウェル氏、バーンズ長官。報告をお願いします」
その促しを受け、エレノア・バーンズが手元の端末を操作し、壁面の巨大なメインモニターに数行のテキストを投影した。彼女の表情は氷のように冷たく、一切の感情の揺らぎを感じさせない。
「結論から申し上げます。日本政府は、国内の指定閉域研究施設および厚生労働省の厳格な管理下において、新たな医療技術の『限定治験』を開始する方針を固めました」
エレノアの言葉に、円卓の閣僚たちが一斉にモニターへと視線を向けた。
「今回、彼らが提供を開始するのは、細胞の制御やナノマシンの局所応用から一歩踏み込んだ領域……すなわち、『人工臓器』です」
会議室の空気が、微かに、しかし決定的に揺れた。
「初期の治験対象となるのは、『一時埋め込み型人工肝臓』です。これは完全置換型ではなく、機能回復までの橋渡しや救命を目的としたものに限定されます。
そして、この治験は『日本国内の患者を中心に行う』ことが原則とされました。製造方法、ナノマシンの制御中核、および患者の適合処理プロセスは、日本側で完全にブラックボックス化され、非公開となります」
エレノアは、淡々と、しかしその言葉が持つ重みを正確に叩きつけるように続ける。
「さらに、人工義手および人工義足については、健常時の能力を超えない『機能回復型』のみを対象とします。人工眼球はまだ基礎治験の準備段階。
そして、日本政府は『健常者の強化利用の禁止』および『サイボーグ兵研究は日本政府として行わない』と明言しました」
そこまで報告を聞き終え、キャサリン・ヘイズ大統領は、深く、肺の中の空気をすべて絞り出すような溜め息を吐いた。
「いよいよ人工臓器ね。
日本の魔法使いも、行くところまで行ったわね」
大統領のその第一声には、畏怖と、そして逃れようのない現実への諦観が複雑に混じり合っていた。ガンを治す薬、血液を濾過するフィルターに続き、ついに人間の身体の「部品」を機械と置き換える領域にまで、あの国は手を伸ばしたのだ。
「大統領、これは医療としては文字通りの革命です」
保健福祉長官が、興奮を隠しきれない様子で身を乗り出した。彼の目には、長年アメリカの医療制度が抱えてきた巨大な絶望を打ち砕く、圧倒的な希望の光が映っていた。
「急性肝不全、移植待機患者、重症肝疾患……! これまでドナーが見つからずに見送るしかなかった患者たちを、人工的なインフラで橋渡しできる。これで救える命の数は、計り知れません」
「同時に、軍事的にも革命です」
その言葉を遮るように、国防長官が低い声で鋭く割って入った。彼の目は、医療の希望ではなく、冷酷な戦場のロジックを見据えていた。
「失われた四肢を補い、内臓を代替する。これが意味するのは、戦傷兵の驚異的な復帰率の向上であり、兵站への負担軽減です。我々にとっても、決して無視できるものではない」
「いきなり嫌な方向へ行かないで」
キャサリンは、手で軽く制するようにして国防長官を嗜めた。
命を救うという純粋な医療の話が、一瞬にして戦争の効率化へと直結してしまう。それがこの部屋の、そしてアメリカという覇権国家の持つ拭い難い本性であり、彼女が最も嫌悪する部分であった。
◇
「長官のおっしゃる通り、医療としての価値は絶大です。そして、我々アメリカにとっても無関係ではありません」
保健福祉長官が、再び医療の立場から強く主張した。
「アメリカ国内にも、肝移植の待機リストに名を連ね、今日明日を生きるのにも苦労している急性肝不全の患者が多数います。日本がまず自国だけで治験を行い、慎重にデータを集めるという合理性は理解できます。
……しかし、同盟国として、将来的な治験参加枠を我々にも求めるべきです。アメリカ国民が日本に滞在して治療を受ける形でも構いません」
長官は、机の上で両手を強く握りしめた。
「人工臓器が存在すると分かった以上、救える可能性のある命を無視することはできません。我々の国民にも、その恩恵を受ける権利があります」
保健福祉長官の言葉は、医療行政を預かる者として、そして何よりも一人の人間として極めて真っ当なものであった。目の前に確実に命を救えるロープが垂れ下がっているのに、それを「外国の技術だから」と見過ごすことは、為政者として許されることではない。
「そうね」
キャサリンも、その純粋な倫理的要請に深く頷いた。
「人工臓器があると分かった以上、命を落とす人を見捨てるなんてできないわ。我々にも扉を開くよう、交渉の余地はあるはずよ」
だが、その純粋な希望の光に、FDA(食品医薬品局)長官が極めて慎重なトーンで冷や水を浴びせた。
「大統領。お気持ちは理解します。
ですが、まず日本国内で治験データを十分に積み上げる必要があります。この技術は、これまでの薬や点滴とはわけが違います。外科的に体内へと埋め込まれ、物理的に稼働する『生命維持インフラ』なのです。万が一の拒絶反応や未知のバグが起これば、即座に患者の死に直結します」
FDAの厳しい安全基準に照らし合わせれば、全く未知の原理で動く機械の臓器を、安全性の担保もないままアメリカ人の体に入れるなど、狂気の沙汰に近いのだ。
「その点について、日本側も極度に警戒しています」
エレノアが、冷徹な声で引き継いだ。
「日本側は、処置後のメンテナンスと長期追跡を最重要視しています。
……したがって、彼らが海外患者を受け入れる場合、処置だけをしてすぐに帰国させることは絶対にありません。彼らは患者を帰国させず、一定期間日本に滞在させる方針を固めています」
「……つまり、アメリカ人患者が対象になるとしても、日本に滞在し続ける必要があるということですか?」
保健福祉長官が、信じられないというように聞き返した。
「はい。指定病院、または政府指定医療滞在施設の管理下に置かれるでしょう」
エレノアは、その条件がいかに重い意味を持つかを示唆するように目を細めた。
「母国に帰って地元の病院で診てもらう、ということは許されない。彼らは『日本の完全な管理下から外れること』を絶対に認めません。技術の漏洩を防ぎ、事故時の責任の所在を自国の法体系の枠内に収めるための、極めて強固な防護壁です」
キャサリンは、腕を組みながら深く考え込んだ。
異国の施設に長期間留め置かれ、自国の医療システムから完全に切り離される。それは患者にとって途方もない負担であり、アメリカ政府としても自国民の保護の観点から非常に扱いが難しい。
「それでも、希望者はいるわ」
キャサリンがぽつりと呟く。
「いるでしょうね。命がかかっていますから」
ノアが、コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ楽しげに笑った。
「家を売り払い、仕事を手放してでも、海を渡って日本の施設に監禁されることを喜んで受け入れる患者は、アメリカ国内にも山のようにいるはずです。命と自由を天秤にかければ、人間は必ず命を取りますからね」
◇
「では、日本政府の『原則』については理解しました」
国家安全保障補佐官が、議論を次のフェーズへと進めるべく口を開いた。
「ですが、先ほどバーンズ長官が『原則として海外患者は受け入れない』と言いましたね。……ということは、裏を返せば、例外があるということですか?」
「はい」
エレノアは、手元の端末を操作し、スクリーンに数行のテキストを表示させた。
「正式な表向きの制度ではありません。公表されるものでもありません。
だが、日本政府内部では、極めて限定された『非公開の国家例外審査プロトコル』を用意する方針です」
「特例、ですか」
キャサリンが目を細める。
「発動の条件は?」
エレノアは、日本の官僚たちが緻密に組み上げた、血も涙もない冷酷なリストを読み上げた。
「国家安全保障上の重大性がある場合。
同盟維持上の重大性がある場合。
あるいは、人道上の極めて高い緊急性がある場合。
……かつ、医学的な妥当性があり、国内の治験枠を不当に圧迫しないこと」
エレノアは、そこで一度言葉を切り、最も重要な一文を強調した。
「そして、『金銭や地位だけでは、絶対に発動不可』とされています。
条件を満たした場合でも、処置後の日本滞在義務、および日本側の診断・メンテナンス管理を受け入れることが、絶対の前提条件となります」
読み上げられた条件を聞き終え、キャサリンは静かに押し黙った。
彼女は、スクリーンに映し出されたそのテキストをじっと見つめ、脳内でその制度設計がもたらす意味を咀嚼し……やがて、フッと微かな笑みを漏らした。
「日本政府らしいわね」
「どういう意味ですか、大統領」
国防長官が、怪訝そうに尋ねた。
「表では綺麗に原則を立てる」
キャサリンは、日本の官僚たちの顔を思い浮かべながら、その狡猾で隙のない制度設計を高く評価した。
「でも、完全な例外ゼロにはしない。いざという時のための裏道はちゃんと用意しておく。
……ただし、その例外にも厳しい条件(鎖)をつける。使えるようで、簡単には使えない。いかにも日本政府らしい、見事な官僚答弁の具現化だわ」
ノアが、優雅に同意した。
「まさに、机の下に消火器を置いているようなものです。
普段は誰にも見せないし、存在すら教えない。本当に火事になった時だけ、そっと取り出して使う。
……ただし、遊び半分で勝手に使った者は、厳しく処罰されるというわけです」
エレノアが、情報機関の視点からその制度の「本質的な意味」を解説する。
「重要なのは、この特例が『金を払って処置だけ受けて帰ることを許さない』という点にあります。
日本滞在義務と、日本側の徹底した管理。これを拒否できない時点で、この特例プロトコルは、世界の富裕層向けの都合の良い『裏口(VIPルート)』としては非常に使いにくくなります」
「例外はある。でも、例外を買うことはできない」
キャサリンが、納得したように深く頷いた。
「そういう設計ね。命を金で売り買いする市場にはしないという、彼らの強烈な意志を感じるわ」
◇
「大統領。アメリカとしては、この特例プロトコルを利用する可能性を考えるべきですか?」
国家安全保障補佐官が、極めて実務的な問いを投げかけた。
制度が存在するのなら、それを使える状況をシミュレートしておくのが彼らの仕事だ。
「考えるだけなら当然よ」
キャサリンは即答した。
「ただし、最初から“使わせろ”と迫るのは違うわ」
会議室で、具体的な想定ケースが次々と挙げられていく。
「アメリカ政府中枢の人物……例えば、副大統領や国務長官クラスが、突発的な急性肝不全に陥った場合」
「あるいは、NATOの同盟維持に重大な影響を持つ欧州の要人」
「アメリカ国内の医療ではどうしても救命できないが、日本の人工臓器なら間に合う可能性がある、国際的な人道案件」
「治験条件に合致し、かつ日本側の管理条件を全面的に受け入れる患者」
だが、エレノアは即座に冷水を浴びせた。
「特例申請は、政治的爆弾です。
もしそれが外部に漏れれば、『日本国民優先と言いながら、裏でアメリカの要人を優先して受け入れた』と、日本国内の世論が激しく燃え上がる可能性があります。日本政府の屋台骨を揺るがしかねない火種です」
「アメリカ国内でも同じですよ」
ノアが皮肉っぽく笑う。
「『なぜその人物だけが、日本の奇跡の治療を受けられたのか』。特権階級の癒着だと、メディアがこぞって叩くでしょうね」
「一般患者から見れば、不公平に見えるでしょう」
保健福祉長官も、憂鬱そうに同意した。
「だから、こちらから軽々しく使ってはいけないのよ」
キャサリンは、円卓の全員を厳しい目で見回した。
「本当に国家的、あるいは人道的に絶対に必要な時だけ。
そして日本側の条件を全面的に受け入れる」
キャサリンの決意は固かった。それは同盟国に対する敬意であると同時に、強大すぎる力を持つ相手に対する絶対的な危機管理でもあった。
「日本が“滞在しろ”と言うなら、滞在させる。診断を受けろと言うなら、受けさせる。
……命を預けるなら、相手の管理も受け入れるべきよ」
「その姿勢なら、日本側も拒否しにくくなります」
エレノアが、冷徹にその外交的効果を評価する。
「逆に、“処置だけして帰らせろ”と言った瞬間に門前払いでしょう」
ノアが肩をすくめて結論づけた。
◇
「特例は要人向けの極限対応です。それは理解しました」
保健福祉長官が、再び話題を医療の全体枠へと引き戻した。
「それとは別に、一般のアメリカ人患者向けの将来枠を、公式なルートとして交渉すべきです」
「日本側の治験データが一定数揃った後、国際治験枠を作る形が現実的です」
FDA長官も、制度的な落とし所を提示する。
「その場合も、患者は日本滞在を求められるでしょう」
エレノアが釘を刺す。日本が「管理権」を手放すことは絶対にないからだ。
「医療ビザのような枠が必要になりますね」
保健福祉長官が呟く。
「人工臓器治療滞在ビザ。嫌なほど現実的です」
ノアが、新たなビジネスの匂いを嗅ぎ取ったように楽しげに笑う。
「正式な名称はもう少しマシにしてちょうだい」
キャサリンが顔をしかめた。
「方針を固めるわ。
アメリカは日本に対し、圧力ではなく、あくまで『希望』として伝える」
キャサリンは、このデリケートな外交交渉のスタンスを明確にした。
「日本の国内治験方針を尊重する。
将来的なアメリカ人患者の参加枠に関心があること、そして、日本滞在・メンテナンス義務を受け入れる前提であることを伝える。
製造方法や制御中核の開示は求めない。医療責任・帰国後フォロー体制について、建設的な協議をしたい、と」
「弱腰すぎませんか?」
国防長官が不満を漏らした。
「命がかかっているからこそ、圧力をかけないのよ」
キャサリンは、彼を鋭く睨みつけた。
「同盟国の治験制度を壊してまで助かる命は、次の命を危険にするわ。我々は傲慢な要求者ではなく、良きパートナーとしてテーブルに着く必要があるの」
◇
「人工臓器がアメリカに知られた時、国内で何が起こるか。そのリスクも整理しておく必要があります」
エレノアが、アメリカ国内に波及する政治的・社会的混乱のシミュレーションを開始した。
「まず、富裕層が確実に日本行きの治療枠を買おうと裏工作を始めます。
保険会社は、日本での高額な長期滞在治療に対する支払い拒否を試みるでしょう。
患者団体は、公平なアクセス権を求めてホワイトハウスにデモをかけ、退役軍人団体は国のために血を流した自分たちへの優先枠を要求する。
議員たちは地元の有力な患者のために口利きをしようと暗躍し、製薬会社や医療機器会社は、自分たちの市場が破壊される恐怖から、何らかの形で市場参入を求めてロビー活動を激化させます。
さらには、悪質な医療ツーリズム業者が動き出し、偽の日本政府特例枠を売る詐欺が横行することは目に見えています」
エレノアが次々と読み上げる国内リスクのリストは、まさに地獄絵図であった。
新しい希望の光が強ければ強いほど、そこに群がる有象無象の欲望の影もまた、色濃く落ちるのだ。
「金持ちだけが命を買う国にするつもりはない」
キャサリンは、机を強く叩いて宣言した。
「大統領、その発言は民衆には称賛されますが、富裕層と保険業界には嫌われますよ」
ノアが、冷徹な資本主義者の顔で皮肉を言う。
「知っているわよ。表ではもっと丁寧に言うわ」
キャサリンも負けじと切り返す。政治家としての建前と本音を使い分けることなど、とうの昔に身につけている。
「日本の『医学的優先順位』という原則は、アメリカでも採用すべきです」
保健福祉長官が、公平性の観点から提案する。
「ただし、アメリカの医療制度でそれを実行するのは極めて難しい」
FDA長官が、民間主導のアメリカ医療の現実を突きつける。金を出した者が最良の医療を受ける。それがアメリカの絶対的なルールであり、それを国家が「医学的優先度」で強権的にコントロールすることは、社会主義的だと激しい反発を招くからだ。
「難しいからやらない、では済まないわ」
キャサリンは断固たる意志を見せた。
この奇跡の技術を前にして、金という古い尺度だけで命を測ることは、彼女の信念が許さなかった。
◇
「それより問題は、サイボーグ兵です」
突然、国防長官が身を乗り出し、これまで抑え込んでいた軍部としての「最大の本音」をぶちまけた。
「また嫌な単語が出た」
キャサリンが、心底うんざりしたように天を仰ぐ。
「人工義肢、人工臓器、人工眼球、神経接続。……大統領、これらが揃えば、兵士の能力を飛躍的に高められます」
国防長官の隣に座る統合参謀本部の将官が、熱を帯びた声で主張を開始した。
「戦場での負傷復帰速度が劇的に上がるのはもちろんのこと、高負荷環境での活動が可能になります。人工肝臓をチューニングすれば、毒物や化学兵器、さらには放射線への耐性を持たせられる可能性がある。
人工眼球によって、暗視・拡大視・高速反応の戦闘能力が得られれば、歩兵の戦闘力は現行の数倍から数十倍に跳ね上がります」
将官は、円卓を強く叩いた。
「もし、中国やロシアが先行してこの技術を軍事転用すれば、通常兵力の差は完全に覆ります。我々の海兵隊が、彼らの不死身の強化兵士に蹂躙される未来が来るのです。
日本が自国で研究しないというのなら、アメリカ独自で進めるべきです。少なくとも、対抗研究は絶対に必要です!」
その言葉は、軍事的なリアリズムに基づいた、強烈な危機感の表れであった。
兵器の進化において、「倫理」という足枷で自ら立ち止まることは、国家の死を意味する。
「この技術が敵対国に渡った時、我々だけが“倫理”を理由に立ち止まっているわけにはいきません」
将官が、キャサリンに向かって決然と言い放つ。
「倫理を理由に立ち止まることも、時には国家の役割よ」
キャサリンは、決して目を逸らさずに反論した。
「敵が同じ価値観で立ち止まる保証はありません」
将官も譲らない。
会議室の空気が、倫理と軍事の狭間で激しく衝突し、火花を散らした。
その緊迫した空気を、ノア・マクドウェルが、ふっと息を吹きかけるようにして鎮めた。
「落ち着いてください。
今すぐ他国がサイボーグ兵を実装できるわけではありません」
ノアの冷たく、どこか嘲るような声に、将官が顔を向ける。
「理由は簡単です」
ノアは、指を折りながら説明を始めた。
「中核技術は、すべて日本側が握っているからです。
制御中核、適合処理、神経接続の詳細なプロトコルは完全に非公開です。日本政府は強化兵士に協力しないと明言しており、あのアンノウン機関の内部においても、強化系技術は開放されていません。
……もし中国やロシアの工作員が日本の病院から現物を盗み出したとしても、それをリバースエンジニアリングして再現することは不可能です。ダウングレード版を自力で開発するにも、途方もない時間がかかります」
さらに、エレノアが軍事的な「運用上のリスク」を突きつけた。
「それに、強化兵士は運用・メンテナンス・退役後の管理が極めて難しい。技術があるからといって、すぐに実戦配備できるような単純なものではないのです」
「……ただし、研究されることは避けられません」
エレノアは、自らの言葉に補足を加えた。
「義肢、臓器、感覚器、神経接続。これらを見た各国の軍が、考えないはずがない。裏では必ず動きます」
「ならば我々が先に進めるべきです」
国防長官が再び主張する。
「日本政府の協力は得られません」
ノアが、ピシャリと撥ね付けた。
「我々が得られるのは、あくまで『健常者水準まで回復させる』機能回復型の義手・義足と、純粋な医療目的の人工臓器までです。それ以上の強化を望めば、日本は我々への供給を完全にストップさせるでしょう」
「それでも基礎になる」
軍高官が食い下がる。
「なら、その範囲で研究すべきですね」
ノアは、冷徹な微笑を浮かべて提案した。
「名前は“サイボーグ兵計画”ではなく、『戦傷回復と機能補償』です」
◇
「……個人的に、サイボーグ兵は趣味ではありません」
ノアは、まるでディナーのメニューを断るかのような気楽さで、ふと本音を漏らした。
「倫理的な理由ですか」
軍高官が、怪訝そうに尋ねる。あの冷血なタイタン・グループの総帥が、倫理などという言葉を持ち出すとは信じられなかったからだ。
「それも多少は。……ですが、軍事産業としてもあまり美味しくありません」
ノアの青白い瞳が、純粋な資本家としての打算の色を浮かべた。
「兵士本人が強くなりすぎると、継続的に売るものが『メンテナンス』中心になります。
人間が弱いからこそ、我々は彼らを守るために、武器、弾薬、装甲車両、航空機、そして膨大な補給物資を絶え間なく売り続けることができる。
……兵士自身が強固な兵器になってしまえば、その巨大な市場が痩せ細ってしまうのですよ」
会議室が、なんとも言えない微妙な空気に包まれた。
倫理や国家の威信をかけて議論していた軍人たちの熱意を、根底から覆す「カネとサプライチェーン」のロジック。
「そこなの?」
キャサリンが、呆れたように呟く。
「そこも重要です」
ノアは全く悪びれずに答えた。
「戦争は倫理だけでなく、予算とサプライチェーンで動きますから」
「ノアの言い方は最悪ですが、導入後の管理が難しいのは事実です」
エレノアが、現実的な情報機関の視点から補足に入った。
彼女は、サイボーグ兵の運用における「管理不能リスク」を次々と挙げ始めた。
「退役後にどうするのか。
銃や戦車なら、退役時に回収できます。しかし、兵士の体内に埋め込まれたパーツを没収できるのか? 体内臓器は取り上げられない。義肢だけ外したとしても、神経接続のポートや生体側の適応処理は残ります。
もし、その退役兵が犯罪組織やテロリストに流れた場合、我々は自分たちが生み出した強化人間と市街地で戦わなければならなくなる。
PTSDを抱えた兵士が、強化義体を持ったままフラッシュバックを起こせばどうなるか。
さらには、民間軍事会社(PMC)への技術流出、メンテナンス権を誰が持つのか、兵士本人の人権をどう扱うのか。……そして、強化の解除が医療的に不可能な場合、我々はどう責任をとるのか」
エレノアは、最後に極めて重く、そして決定的な一言を放った。
「武器なら倉庫に戻せます。
ですが、改造された兵士は倉庫に戻せません」
その一言で、十分だった。
「その一言で十分ね」
キャサリンが、深く頷き、議論を締めくくった。
軍高官たちは不満げな表情を隠しきれなかったが、エレノアの指摘した無数のリスクと、ノアの資本主義的な皮肉の前に、完全に反論の余地を塞がれていた。
◇
「では、方針を整理するわ」
キャサリンが、大統領としての最終的な決断を下した。
「医療について。
日本の一時埋め込み型人工肝臓の限定治験を、アメリカ政府として支持する。
アメリカ人患者の将来的な治験参加枠を『希望』として伝える。日本側の安全性確認を尊重し、決して圧力はかけない。
そして、日本滞在義務・メンテナンス義務を受け入れる前提で協議を進める。富裕層優先は絶対に認めない」
「アメリカ国内でも、導入に向けた準備チームを立ち上げます」
保健福祉長官が応じる。
「特例プロトコルについて。
特例の存在は公にしない。アメリカ側から軽々しく利用要請もしない。
本当に国家的・人道的に必要な場合のみ検討し、利用する場合は日本側の条件を全面的に受け入れる。特例を金持ち向けの抜け道には決してしない」
「軍事について」
キャサリンは、軍高官たちを鋭く見据えた。
「サイボーグ兵は、公として支持しない」
軍高官が反論しようと口を開きかけたが、キャサリンはピシャリと遮った。
「最後まで聞きなさい。
ただし、機能回復型義肢、人工臓器、神経接続、リハビリ技術、戦傷治療の『研究』は進める。
負傷兵を健常者レベルまで戻す研究は、あくまで『医療』だわ」
「妥当です」
ノアが満足げに頷く。
「表向きはリハビリテーションと戦傷治療。強化兵士計画ではない、と」
「ただし、その研究から軍事応用への誘惑が生まれることは避けられません」
エレノアが釘を刺す。
「知っているわ」
キャサリンは、冷徹な声で言い放った。
「だからこそ、名前と目的を間違えない。
“サイボーグ兵計画”なんて名前を付けた馬鹿がいたら、私が即刻更迭するわよ」
大統領の強い意志表示に、軍高官たちは黙って敬礼するしかなかった。
「中国とロシアが、ダウングレード版を独自に開発した場合はどうしますか?」
軍高官が、最後に懸念を口にする。
「可能性はあります」
エレノアが答える。
「短期では難しいでしょう。ですが、徹底的な監視は必要です」
彼女は、監視すべきターゲットのリストを淀みなく挙げた。
中国軍医科大学系研究機関。ロシア軍医療研究所。民間の義肢・神経接続企業。闇医療ネットワーク。富裕層向けの海外クリニック。民間軍事会社。サイバー犯罪組織。偽造人工臓器市場。アンノウン技術を騙る詐欺団体。
「軍事利用は避けられません」
ノアが、現実的な結論を述べる。
「ただし、我々がいきなりサイボーグ兵へ飛びつく必要もありません。監視し、先に基礎医療技術の恩恵をしっかりと押さえる。今は、それで十分です」
「中国とロシアの動きは週次で報告してちょうだい。闇医療と偽造人工臓器市場も、監視対象の最優先事項に入れて」
「了解しました」
エレノアが短く答えた。
◇
「では、日本への返答方針を整理しましょう」
ノアが、ホログラムの画面を操作しながらまとめる。
「日本の慎重な治験方針を支持する。
アメリカ人患者の将来的な治験参加枠を希望する。ただし、日本側の安全性確認を尊重し、圧力はかけない。
日本滞在義務・メンテナンス義務を受け入れる前提で協議したい。
製造方法や制御中核の開示は求めない。
機能回復型義肢と戦傷治療について、将来的な協力を希望する。サイボーグ兵計画への協力は求めない。
中国・ロシアの軍事転用監視について情報共有したい。
特例プロトコルについては、軽々しく発動要請しない。
……以上でよろしいですか、大統領」
「ええ。日本には圧をかけないで」
キャサリンは、念を押すように言った。
「これは命に関わる話よ。同盟国だからといって、治験の順番をねじ曲げるような真似は絶対にしない」
「国内の患者団体や議会から、強烈な圧力が来ますよ」
エレノアが、国内政治のリスクを指摘する。
「私が受けるわ」
キャサリンは、逃げることなくその重圧を引き受けた。
「日本にはあくまで“希望”として伝える。要求ではないわ」
「大統領らしいですね」
ノアが、少しだけ敬意を含んだ皮肉を言う。
「褒めても何も出ないわよ」
キャサリンは、冷たくあしらった。
◇
会議の最後。
キャサリンは、日本から届いた報告書の最後の一文を、じっと見つめていた。
『初期治験は国内患者中心。海外患者受け入れは将来検討。ただし、国家安全保障・人道上の極めて限定された例外については、個別審査。処置後は日本国内での診断・メンテナンス管理を義務づける』
キャサリンは、小さく息を吐き出して呟いた。
「……日本政府らしいわ」
「褒め言葉ですか?」
ノアが、面白そうに問いかける。
「半分はね。
もう半分は、本当に面倒な国だという感想よ」
「ですが、合理的です」
エレノアが、その見事な制度設計を評価する。
「例外を完全に否定せず、しかし例外を商売にしない。しかも処置後の管理義務までつける。富裕層向けの抜け道にはしにくい、完璧な二重底です」
「ええ」
キャサリンは、深く頷いた。
「例外はある。でも自由には使えない。
扉はある。でも、その鍵は日本がしっかりと持っている」
「そして、その中に入った者は、しばらく日本に留め置かれる」
ノアが、その鎖の重さを確認するように言った。
「本当に、日本政府らしいわね」
キャサリンは、少しだけ疲れたように笑い、そして最後にエレノアとノアに指示を出した。
「日本に返答して。
アメリカは治験方針を支持する。将来的なアメリカ人患者枠を希望する。ただし、日本の管理条件を完全に尊重する。サイボーグ兵計画への協力は求めない。戦傷回復と機能補償については、将来的な協議を望む、と」
「了解しました」
エレノアが頷く。
「“サイボーグ兵”という言葉は、公式文書からは綺麗に消しておきます」
ノアが、手元の端末を操作しながら言う。
「当然よ」
「では、“高度戦傷回復および機能補償研究”で」
「……嫌なほど上手いわね」
キャサリンが呆れ顔で言うと、ノアは優雅に微笑んだ。
「名前は大事ですから」
日本は、人工臓器という新しい人類の扉を開いた。
だが、開けたのはほんのわずかな隙間だけだった。
国内患者中心。医学的優先順位。長期追跡。処置後管理。
そして、制度の奥深くに隠された、決して金では買えない非公開の例外プロトコル。
アメリカはそれを見て、苛立ち、感心し、そして納得した。
日本の扉は重い。だが、重い扉だからこそ、世界中の欲望が殺到しても、すぐには壊れないのだ。
問題は、そのほんの少しだけ開いた扉の前に、これからどれほど多くの国と、患者と、軍人と、富裕層が、血走った目で並ぶことになるかだった。
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