第143話 ホワイトハウス、神の火の教科書を受領する
アメリカ合衆国ワシントンD.C.。
ホワイトハウスの地下深く、大統領直轄の危機管理センター(PEOC)、通称「セキュア・ルーム」。
分厚いコンクリートと鉛に囲まれ、外部のあらゆる電磁波を遮断するこの密室は、常に無機質で冷徹な空気に支配されている。だが今日、この空間に充満しているのは、差し迫ったテロの脅威でも他国からの核攻撃の恐怖でもない。
極東の島国から一方的に投げ込まれた、人類の理解を絶する「巨大な知の暴力」に対する、途方もない疲労と当惑であった。
円卓の上座で、第48代アメリカ合衆国大統領キャサリン・ヘイズは、手元に置かれた分厚いプリントアウトの束——日本政府から極秘のセキュア・ラインを通じて送られてきたばかりのデータパッケージの目次——をじっと見つめていた。
「……早くない?」
長い沈黙を破ってキャサリンの口から漏れたのは、大国を率いる指導者としての威厳ある言葉ではなく、一人の人間としての、極めて純粋で素直な疑問だった。
円卓を囲む閣僚や情報機関のトップたちは、誰も即答できなかった。
CIA長官エレノア・バーンズ、タイタン・グループ総帥ノア・マクドウェル、国防長官、国家安全保障補佐官、そしてエネルギー省の科学顧問。彼ら全員の顔にも、大統領と全く同じ困惑の色が浮かんでいる。
キャサリンは、目次の表紙を指先でトントンと叩いた。
そこに記されている件名は、日本の官僚機構が付けたであろう、ひどく硬いものだった。
『教育用・練習用核融合炉設計パッケージおよび段階的理解支援資料について』
しかし、その堅苦しいタイトルの下に続くリストの内容は、異常を通り越して狂気でさえあった。
・教育用13m級核融合炉完全設計図および3D・CADモデル
・基本仕様書
・建設ロボット群自律施工プロトコル
・地球材料工学ベースの素材選定および代替精製リスト
・科学者向け理解促進教科書『アンノウン式核融合の基礎と実践』全五巻
・シミュレーションに基づく想定理解期間:約一週間
・【重要備考】:本データ群を閲覧した科学者に、極度の自己否定と心的衝撃(心が折れる現象)が発生する可能性あり。各国の責任において十分なメンタルケア体制を構築することを推奨
「ねえ、聞いてるのよ」
キャサリンは、少し苛立ったように声を張った。
「私たちが、あの3メートルの完成品を見て『複製不能だ』『人類の科学を五百年は超えている』と絶望して、エネルギー省のトップたちが音を上げたのは、つい数日前のことじゃない?
……それなのに、まるで私たちが白旗を揚げるのをあらかじめ分かっていたかのような、この完璧すぎるタイミングでの『教材』の提供。どう考えても早すぎるわ。
あの『アンノウン』という日本の魔法使いは、一体どこまで我々の反応を予期していたというの?」
エレノアが、氷のように冷たく、感情の読めない声で淡々と答えた。
「データ解析の観点から申し上げますと、大統領のおっしゃる通りです。我々の反応を見てから数日でこの規模の資料群を一から作成することは、地球上のいかなるスーパーコンピューターを駆使しても不可能です。……実際、そうとしか見えません」
「だったら、最初から完成品と一緒にこの教材を付けてくれればよかったじゃないの!」
キャサリンが机を叩く。
ソファで優雅に脚を組んでいたノアが、カップのコーヒーを一口啜り、面白そうに笑い声を立てた。
「魔法使いからすると、こちらが『どこでどうつまずくのか』をじっくり観察してから、そのレベルに合わせた適切な教材を出した方が、教育効率が良いと判断したのかもしれませんね」
「……世界最強の超大国を、まるで小学生の観察対象みたいに言わないで頂戴」
キャサリンは心底嫌そうな顔をした。
「それにしても、この手回しの良さ。アンノウンは、我々が喉から手が出るほど欲しがっているものを、完璧なパッケージとしてラッピングして投げてきた。……実に抗いがたい魅力があるのも事実です」
ノアはそう言いながら、手元のタブレットを操作し、空間にホログラムのウィンドウを展開した。
そこに表示されたのは、日本から送られてきたという『アンノウン式核融合の基礎と実践』全五巻の目次データであった。
第一巻:『アンノウン式核融合の基礎理論と、現代地球物理学とのパラダイム差分』
第二巻:『13メートル級・教育用核融合炉の構造設計および熱力学・磁場制御の完全解説』
第三巻:『次世代材料工学の基礎、特殊合金の精製プロセス、および自律建設ロボット群による施工工程管理』
第四巻:『プラズマ統合制御系・運転理論、および異常事態時の対応アルゴリズム』
第五巻:『絶対的な安全率設計の哲学、定期保守、および地球文明による自力複製に向けた実践演習問題』
「ノア。あなた、まさかもう読んだの?」
キャサリンが、信じられないという目で彼を見た。
「全てを完全に理解したとは言いません。私は専門の物理学者ではありませんからね」
ノアは謙遜するように肩をすくめたが、その青白い瞳の奥には、圧倒的な知の暴力に触れた者特有の、狂気じみた興奮が宿っていた。
「ですが、全体の構造と、彼らがどういう論理的アプローチで我々を『導こう』としているのかは把握しました」
「それで? 評価は?」
エレノアが、短く鋭く問う。
「一言で言えば、これは単なる取扱説明書ではありません。……全く新しい『学問体系』そのものです」
ノアは、ホログラムの目次を指先でなぞりながら語った。
「これを読めば、核融合炉の理解は間違いなく進むでしょう。彼らは我々の現在の物理学の限界を正確に把握し、そこからどう階段を登れば彼らの領域に辿り着けるのかを、恐ろしいほどの精度で記述しています。
……ただし、極めて難解です。アメリカの、いや地球上のトップ科学者であっても、最初から最後まで正確に論理を追うには、文字通り血を吐くような努力が必要になるでしょうね」
「教材なのに、そこまで難解なの?」
キャサリンが怪訝そうに眉をひそめた。
「ええ。ですが、以前提供された『慣性ダンパー』の基礎理論も同じでした」
エネルギー省の科学顧問が、苦渋に満ちた表情でノアの言葉を補足した。
「大統領。彼らが提示してくる情報は、決して人類の平均知能に合わせた親切なものではありません。人類のトップ層が、既存のパラダイムを粉々に打ち砕かれながら、這いつくばって理解するための『限界突破用の教本』なのです」
「なるほど」
エレノアが、情報機関のトップとして冷静に事態を整理する。
「つまり、この教科書を読んだトップ科学者たちが、それをさらに噛み砕き、一般の研究者や技術者でも理解できる『下位の教材』に翻訳し直すプロセスが不可欠になるということですね。この五巻のデータだけで、一つの巨大な学問分野が新設されるに等しい」
「要するに」
キャサリンは深く息を吐き出した。
「アンノウンが大学院の博士課程向けの『神の教科書』を送ってきて、我々はそれを、高校生や大学の学部生向けに必死に書き直さなきゃいけないってこと?
……頭が痛いわ」
◇
キャサリンは、科学的な細かいパラダイムシフトの話を追うのを諦め、大統領としての本質的な確認事項へと話を移した。
「科学の小難しいことは分からないから、結論だけ教えてちょうだい。
……このパッケージがあれば、我が国の科学者は、自力で核融合炉を複製・量産できるようになる。そう理解していいのかしら?」
その直球の問いに対し、ノアは静かに頷いた。
「ええ。その理解で問題ないかと」
科学顧問も、深く頷いて同意する。
「前回渡された3メートル級の完成品は、依然として我々の手には負えないブラックボックスであり、複製不能です。
しかし、今回提示された『13メートル級・教育用核融合炉』は設計思想が根本から異なります。現代の材料工学、現代の加工技術、現代の計測機器の延長線上で、段階的に構造を追いかけ、建設できるように意図的にデチューン(性能低下)されて設計されています」
「つまり、3メートル級は手の届かない『神の火』そのもの。13メートル級は、我々が火の扱い方を学ぶための『練習用の炉』ということね」
「はい。こちらは明らかに、地球側での理解と再現を第一の目的に据えています」
エレノアが肯定する。
「『神の火の実験教材』ですね」
ノアが楽しげに付け加えた言葉に、キャサリンは忌々しげに顔をしかめた。
「その表現、全く気に入りたくないけど、嫌というほど分かりやすいわ」
だが、技術的な理解が可能だとしても、それを実際に「建設」し、「運用」するとなれば、話はまた別だ。
エレノアが、手元のタブレットを操作し、パッケージに含まれていた施工条件のページをメインモニターに表示させた。
「大統領。この『練習用核融合炉』の建設に関するプロトコルですが、非常に特異な条件が付与されています」
「特異な条件? 施工に関する?」
「はい。日本側からの通達によれば、この核融合炉の建設は、日本側の企業である『海道グループ』が独占的に請け負うとのことです」
「海道グループ……ああ、あの日本のインフラからアンノウン関連の技術的窓口までを牛耳っているという、巨大コングロマリットね。まあ、彼らが建設を仕切るというのは理解できるわ。技術の流出を防ぐためでしょう」
キャサリンは頷いた。だが、エレノアの報告はそこで終わらなかった。
「問題は、彼らが提示してきた『納期』です」
エレノアは、報告書の一点を見つめ、一瞬だけ言葉を止めた。氷の女と称される彼女にしては珍しい、明らかな動揺のサインだった。
「……納期が、どうかしたの?」
「建設ロボット群を使用し、施工開始から……『一日で完了する』とあります」
シン、と。
セキュア・ルームの空気が、完全に静まり返った。
「……は?」
キャサリンは、自分の耳を疑い、聞き返した。
「一日って……あなた、何の話をしているの? 仮設テントの設営の話じゃないのよ? 13メートル級の……核融合炉なんだけど」
核融合炉である。超高温のプラズマを磁場で封じ込め、極低温の超電導コイルと複雑な冷却配管が入り組んだ、現代科学の粋を集めた精密巨大プラントだ。それを、「一日」で建てるなど、狂気の沙汰にもほどがある。
ノアが、笑いを堪えきれないというように肩を震わせながら口を挟んだ。
「海道グループは、アンノウン由来の自律型建設ロボット群を運用していますからね。異常な建設速度とナノメートル単位の精度を両立する、あのバケモノのようなロボットたちを使えば、あり得る数字です」
「核融合炉を、一日で建てる建設会社……。どんなブラックジョークよ」
キャサリンは、本気で頭を抱えた。
「正確には、既存の施設や建屋内に『据え付ける』場合の標準施工時間です。土木的な基盤整備や電源の引き込みなどをゼロから全て行う場合は、数日の追加日数が必要になると注記されています」
エレノアが極めて事務的に訂正を入れる。
「追加日数って、そういう問題じゃないのよ! 一日が三日になったところで、狂ってることに変わりはないわ!」
キャサリンのツッコミに、ノアが宥めるように言った。
「大統領。アンノウン案件において、『一日』だとか『数日』だとかいう時間単位で驚くのは、もうやめた方が精神衛生上よろしいかと。彼らの辞書に、地球の工期という概念は存在しないのです」
「……その助言が、今の私にとって一番嫌な言葉よ」
キャサリンは、机に突っ伏したまま重い溜め息を吐き出した。
◇
気を取り直し、キャサリンは居住まいを正した。
「なるほど。技術の提供があり、建設は日本側が一日でやってくれる。
……じゃあ、我々アメリカ側が決定すべきことは、それを『どこに置くか』という場所の選定だけね」
「おおむね、その通りです」
エレノアが頷く。
「では、設置場所の候補について議論しましょう」
国防長官が、あらかじめ用意していたリストをモニターに投影した。
「候補は大きく分けて四つです」
【設置場所候補】
1.エネルギー省直轄の国立研究所(オークリッジ等)
・メリット:世界最高峰の科学者が集結しており、既存の核関連技術の管理体制が整っている。
・デメリット:周辺の一般人口が多く、民間研究者やメディアとの接触機会が多いため、機密保持に難がある。
2.軍管理の隔離施設(エリア51等)
・メリット:安全保障上の観点から言えば最も堅牢。外部との接触を完全に遮断できる。
・デメリット:軍の厳格なルールの下では、科学者たちの研究の自由度が著しく制限され、解析速度が落ちる懸念がある。
3.NASA関連施設
・メリット:先日合意した『宇宙輸送パッケージ』との連携テストが行いやすい。
・デメリット:純粋なプラズマ物理や核融合炉自体の運用経験という点では、エネルギー省に劣る。
4.砂漠地帯への完全新設の極秘施設
・メリット:ゼロからアンノウン技術の解析に特化した環境を構築できる。日本の建設ロボットを使えば、建屋を含めても極短期間で整備可能。
・デメリット:運用開始までのインフラ整備にわずかなタイムラグが生じる。
「私なら、4の砂漠地帯への新設施設を強く推しますね」
ノアが、リストを一瞥して即座に意見を述べた。
「既存の国立研究所に置けば、どうしても余計な目が増えます。この技術は、絶対に他国……特に中国やロシアのスパイに嗅ぎつけられてはならない。物理的に完全に隔離された空間が必要です」
「同意します」
エレノアも、情報機関のトップとして同調した。
「日本から海道グループの建設ロボットや技術者が直接出入りする以上、既存の施設の中に彼らを招き入れるより、最初から日米合同プロジェクトのための『隔離区画』を新設した方が、相互のセキュリティ管理上も安全です」
「分かったわ」
キャサリンは頷き、指示を出した。
「場所の選定は、軍とエネルギー省で急いで絞り込みなさい。ネバダかニューメキシコの砂漠地帯が妥当でしょう。
……ただし、一つ条件があるわ。単なる軍事刑務所のような無機質な施設にはしないでちょうだい。集められるトップ科学者たちには、この施設で長期間、血を吐くような努力をしてもらわなければならないのよ。彼らが『牢獄に入れられた』と感じてパフォーマンスを落とさないよう、居住環境や研究設備の自由度には最大限配慮しなさい」
「では、最高級のステーキとワインが出る『豪華な牢獄』ですね」
ノアが皮肉っぽく笑う。
「ノア」
キャサリンが鋭く睨みつける。
「失礼。最高度のセキュリティを担保した『最先端研究環境』、でしたね」
ノアは悪びれずに言い直した。
「ところで、大統領」
エレノアが、別の重要な懸案事項を口にした。
「今回の『教育用パッケージ』の提供ですが、日本側はフランスに対しても、全く同じものを提示しているとみて間違いありません」
「フランス……。そうね、彼らはITER(国際熱核融合実験炉)の施設を提供するって言って、日本に頭を下げたんだものね」
「ええ。フランスはITERの広大な施設を、この教育用炉の実証場として提供するはずです。結果として、我々アメリカ国内に一基、フランスのITER関連施設に一基、という形で実証炉が並立することになります」
「フランスの連中、さぞかし喜んでいるでしょうね」
キャサリンが少し意地悪く言うと、ノアがクスクスと笑った。
「ええ、涙を流して喜んでいるでしょう。自国の威信であったITERを実質的に放棄させられた『屈辱』で泣いているのか、それともアンノウンの真理に触れられる『歓喜』で泣いているのかは分かりませんが」
「両方でしょうね」
キャサリンも冷たく言い捨てる。
「これで、三者の役割は極めて明確になりました」
エレノアが、国際的なパワーバランスを整理する。
「フランスは、核融合の安全規格の策定と、欧州への政治的通路を担当する。
アメリカは、この技術を基盤とした宇宙輸送、および軍事応用の可能性を握り、実証をリードする。
そして日本は、技術の源泉と、海道グループを通じた建設・管理の首根っこを完全に握り続ける。
……見事な分担です」
「ええ、悪くないわ」
キャサリンは、この構造に一定の満足感を覚えた。アメリカの優位性は、依然として保たれている。
◇
「ああ、それと。大統領」
ノアが、思い出したように手元の別の暗号化ファイルを開いた。
「日本の内閣官房、日下部参事官から、このパッケージの提供に関連して、一つ『追加の要請』が来ています」
「何?」
キャサリンが警戒の表情を浮かべる。
「日本の技術者およびトップ研究者を、アメリカ側に建設される練習用核融合炉の実証プロセスに、『オブザーバー(観察者)』として参加させてほしい、とのことです」
その言葉に、キャサリンは怪訝そうに眉を深くひそめた。
「なんで?
自分たちの国の技術なんでしょ? だったら、自分たちの国(日本)に建設して、そこで堂々と研究すればいいじゃない」
技術の提供国が、わざわざアメリカの施設に「見学」に来させてくれと頼んでくる。一見すると、非常に奇妙で非合理的な要請だった。
「合理的に考えれば、その通りです」
エレノアも同意する。
「ですが、日下部氏からのメッセージには、強い拘りを感じます」
ノアが、少し楽しそうな、獲物の弱点を見つけたような声で言った。
「ここだけの話ですがね、大統領。
……日下部氏は、日本国内でこの『アンノウン技術』が広く研究者たちに共有され、拡散することを、極端に避けたがっているのですよ」
「自国の技術なのに?」
「自国の技術というより、アンノウンの技術だからです」
ノアは、冷徹な心理分析を展開し始めた。
「日下部氏が恐れているのは、中国やロシアの物理的なスパイ活動だけではありません。……彼が真に恐れているのは、日本の優秀な科学者たちの『暴走』です」
「暴走?」
「ええ。
もしこの核融合炉の完全なデータが、日本の大学や研究所に広く渡ってしまったら、どうなるか。
『この無限のエネルギーは、人類の共有財産として公開すべきだ』という歪んだ正義感。
『政府のような腐敗した組織が独占するのは危険だ』という政治思想。
あるいは、『自分の長年の理論が正しかったと歴史に証明したい』という純粋な名誉欲。
……そういった動機から、彼らは意図的に技術を海外の学会やメディアへリークする可能性があります」
エレノアが、情報機関の視点から補足する。
「金で動くスパイよりも遥かに厄介なケースです。彼らは自分たちの行動を『崇高な正義』だと固く信じていますからね。事前の防諜で完全に弾くことは極めて困難です」
「なるほど。日本国内で実証炉を作れば、そういったコントロールの利かない研究者を大量に抱え込むことになるわけね」
キャサリンは、日本の官僚が抱える胃痛の種を理解し始めた。
「はい。しかも」
ノアは、少しだけ肩をすくめて、アメリカの持つ冷酷な強さを強調するように言った。
「日本は、我々アメリカと違って、情報漏洩やスパイ行為に対する法整備が異常なまでに弱い。
もし科学者が正義感から暴走し、技術を漏らそうとした場合……アメリカやフランスであれば、最悪の場合、暗殺や社会的抹殺を含めた『最終的な対処』を躊躇なく実行できます。
……ですが、日本政府は、自国の罪なき(と信じ込んでいる)民間人に対して、そのような強権的な暴力を行使することができません」
その言葉に、会議室の空気が一段と冷え込んだ。
キャサリンも、超大国の指導者として、その冷酷な現実をすぐに理解した。
「……日本では、それができない。だから、最初から技術を渡さないのね」
「ええ。日下部氏は、最初からそのコントロール不能な状況を作りたくないのでしょう。だからこそ、『アメリカやフランスの監視下にある施設』に、日本の研究者をオブザーバーとして送り込み、ガス抜きをしようという腹積もりです」
◇
キャサリンは、呆れたように椅子に深くもたれかかった。
「日本の複雑な国内事情は、よく理解したわ」
「では、オブザーバーの受け入れ要請については、どうしますか?」
ノアが問う。
「受け入れるわ」
キャサリンは即決した。
「日本の優秀な研究者をこちらで一括管理できるなら、我々アメリカにとっても悪い話じゃない。彼らがこの技術をどう解釈しているのか、その反応を間近で観察できるし、何より、これで日本政府への『貸し』が一つできる」
「監視体制については、どうされますか?」
エレノアが確認する。
「当然、最高レベルで。
……ただし、扱いはあくまで丁重にね。同盟国のトップ研究者を囚人扱いでもして抗議されたら、日下部氏がまた胃薬を一箱追加で飲む羽目になるわ」
「では、研究者用の高セキュリティ滞在施設と、専用のメンタルケアプログラムを用意しておきます」
ノアが応じると、キャサリンはふと、苦言を呈するようにボソッと言った。
「それにしても、日本はいい加減、まともな『スパイ防止法』ぐらい制定しなさい、と言いたいわね。いつまで情報保全を我々に依存する気なのよ」
「ていうか、アメリカ政府としては、何十年も前からずっと彼らに働きかけていますよね」
ノアが苦笑する。
「市民団体や野党からの強烈な反対もありますし、彼らの国内政治的に、そう簡単には通せないのでしょう。戦前のトラウマというやつです」
エレノアが冷たく分析する。
「事情は分かるけど……」
キャサリンは、忌々しげに息を吐いた。
「アンノウンのオーパーツみたいな、世界を滅ぼしかねない技術を扱っている国が、その法律すら満足に持っていない状態なの、こちらから見ればかなり怖いわよ」
「だからこそ、日下部氏が毎日胃を痛めて、必死に綱渡りの管理をしているのでしょう」
ノアの言葉に、キャサリンは「妙に納得したわ」とだけ返し、話を進めた。
「エレノア、オブザーバー受け入れの詳細な条件をまとめなさい」
「はい、大統領」
エレノアは、タブレットに素早く条件を打ち込んでいく。
【日本人オブザーバー受け入れ条件】
・人数は初期段階で5〜10名に限定。
・日本政府による事前選抜の後、アメリカ側情報機関による二次審査を実施。
・行動範囲は研究施設内に限定し、個人の外部通信は厳しく制限する。
・研究ログは日米双方で共有。データの無断持ち出しは一切禁止。
・心理評価を事前・滞在中・滞在後に定期実施。
・日下部参事官の指定する日本側監督官(公安等)の同行を必須とする。
・研究への参加は、あくまで観察と補助に限定。
・完全設計図および教科書の、独自コピーの作成は禁ずる。
「……かなり厳しいわね」
キャサリンがリストを見て呟く。
「神の火ですから。これくらいは当然かと」
エレノアが、どこかで聞いたような台詞を返す。
「その『神の火』って言い回し、あなたも気に入ったの?」
「非常に便利で、事態を正確に表す言葉ですので」
◇
「それと、大統領」
エレノアが、例のパッケージの備考欄を指し示した。
「日本側からの『重要備考』についてです。
“科学者の心が折れる可能性あり。メンタルケア体制の構築を推奨”」
「……そこ、本当に真面目に書いてあるのね」
キャサリンは、呆れ半分で言った。
「ええ。極めて真面目な注意書きとして添えられています」
ノアが頷く。
エネルギー省の科学顧問が、深刻な顔で口を開いた。
「大統領。正直に申し上げますと、この警告は決して大げさなものではありません。むしろ、極めて現実的な危機です。
この教科書を完全に理解できてしまった科学者ほど、『自分のこれまでの数十年の研究人生は、完全に的外れなゴミであった』と、己の存在意義そのものを否定されたように感じるはずです。プライドが高い人間ほど、その反動で精神を破壊される危険性が高い」
「……科学者って、本当に面倒な生き物ね」
キャサリンがこめかみを押さえる。
「真理を純粋に愛する人種ですからね。真理の前に己の矮小さを突きつけられれば、壊れるのも無理はありません」
ノアが、どこか他人事のように評する。
「メンタルケアチームを至急編成します」
エレノアが事務的に引き取る。
「ただし、通常の臨床心理士やカウンセラーでは、彼らの絶望を理解できず、対応できないでしょう。トップレベルの科学者の肥大したプライドと、真理に対する挫折感を正確に理解し、慰められる専門家が必要です」
「つまり、科学者を慰めるための、別の科学者を用意しなきゃいけないってこと?」
キャサリンは、もう笑うしかなかった。
「そうなりますね」
ノアが微笑む。
「どこまでも面倒ね、本当に……」
◇
全ての懸案事項の議論が終わり、キャサリンは深く息を吸い込んで、最終的な判断を下した。
「よろしい。決定するわ」
【決定事項】
・日本から届いた教育用13m級核融合炉パッケージを受領。
・アメリカ国内に一基、練習用核融合炉の施工準備を開始。
・場所は軍およびエネルギー省合同で、砂漠地帯の新設施設を選定。
・海道グループの建設ロボットによる超短期施工を受け入れる。
・日本人オブザーバーを、厳格な条件付きで受け入れる。
・フランスとの情報連携は継続(主導権は譲らない)。
・科学者向けメンタルケア体制を至急構築。
・教科書五巻をもとに、国内研究者向けの下位教材の作成を検討。
・中国およびロシアには、一切の技術共有を行わない。
・イギリスには、現段階では限定的な説明のみとし、コア技術の共有は見送る。
「我々は、この教材を使って神の火を理解し、手懐ける」
キャサリンは、円卓の全員を力強く見据えた。
「ただし、その火に燃やされないように、極めて慎重に扱いなさい」
「素晴らしい表現です、大統領」
ノアが拍手をする。
「褒めなくていいわよ」
キャサリンは冷たく言い放った。
◇
会議が終了し、閣僚や軍のトップたちが次々と退室していく。
誰もいなくなったセキュア・ルームで、キャサリンは資料の最後にある、日下部からの補足文を改めて見つめていた。
そこには、非常に事務的で、感情を一切交えない文体でこう書かれている。
『日本国内研究者の段階的参加について、貴国実証施設でのオブザーバー受け入れを検討願いたい』
キャサリンは、そのたった一文に込められた、日本の官僚の凄まじい苦悩と冷徹な計算を読み取り、小さく笑いを漏らした。
「日下部氏って、本当に『火種』を自国の領土に置きたくないのね」
背後に残っていたエレノアが、静かに同意する。
「賢明な判断です。自国の弱点を理解しているからこその、リスク回避策です」
「ええ。自国民の暴走を強権で消せない国が、神の火を国内で広く扱うのは難しすぎるわ」
ノアが、ソファから立ち上がりながら、薄く笑って付け加えた。
「でも、アメリカは違います」
キャサリンは、少しだけ表情を硬くし、決意を込めて言った。
「我々は、恐れながらも、この火を自らの手で扱う。
それが、超大国としての責任であり、覇権を維持する代償よ」
「ええ」
ノアの青白い瞳が、冷酷な光を放つ。
「そして必要なら……その火で火傷し、狂ってしまった者たちを、確実に隔離し、排除する」
「……ノア」
キャサリンは、そのあまりにも非情な言葉を咎めるように名を呼んだ。
「失礼いたしました」
ノアは優雅に一礼し、それ以上は何も言わなかった。
キャサリンは資料を閉じ、重い足取りでセキュア・ルームの扉へと向かった。
その言い方は嫌いだが、ノアの言う通りなのだ。それがアメリカという国のやり方なのだから。
こうして、アメリカは日本から届いた「神の火の教材」を正式に受け取った。
それは、人類の歴史を数百年進める核融合炉の設計図であり、科学者たちの精神を破壊する絶望の教科書であり……同時に、日本という国が抱える『法的な脆弱さ』という弱点を映し出す鏡でもあった。
技術を無邪気に生み出す者。
技術のリスクを冷徹に管理し、他国へ押し付ける者。
技術を必死に学び、自らの覇権の道具にしようとする者。
そして、その真理の深淵に触れ、心身を焼かれる者たち。
ホワイトハウスは、その全ての混沌と欲望を抱え込み、新たな歴史のページを開く準備を始めた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
もし「続きが読みたい」と思われた方は、ページ下部よりブックマークと評価をお願いします。




