第142話 日下部、神の火の教材を受領する
午前二時四十五分。東京都千代田区永田町、首相官邸。
地下五階に位置する『特別情報分析室』は、地上の天候や四季の移ろいから完全に隔絶された、無機質で冷徹な絶対の密室である。分厚い鉛と特殊コンクリートに守られたこの空間には、空調の微かな稼働音と、高度な電子機器が発する微細な熱気だけが滞留していた。
内閣官房参事官である日下部は、ただ一人この部屋に残り、自席のコンソールモニターと対峙していた。デスクの片隅には、すでに半分以上消費された胃薬の箱が、彼が抱える絶望的な疲労の象徴として無造作に置かれている。
日米仏の複雑な外交調整、国内の制度設計、そして何より、次元の彼方から予測不能のタイミングで放り込まれるオーパーツへの対応。彼の胃粘膜は、もはや薬の薬効を遥かに上回る速度で物理的に削り取られ続けていた。
ピロリン。
静寂を破り、極秘の専用ホットライン回線に新着データの受信を告げる軽快な電子音が鳴った。
日下部の手が、キーボードの上でピタリと止まる。
送信元は、言うまでもなくテラ・ノヴァの工藤創一からであった。日下部は、大きく、深い息を肺の底まで吸い込み、重い鉛を飲み込むような覚悟を決めてマウスをクリックした。
表示されたメールの件名を見て、日下部は思わず顔の筋肉を硬直させた。
『練習用核融合炉できました!』
「……軽い。あまりにも、件名が軽すぎる」
日下部は、誰に聞かせるわけでもなく、掠れた声で独り言を漏らした。
人類が何十年もの歳月と数兆円もの莫大な予算を投じても、いまだに安定した実用化の目処すら立っていない「地上の太陽」。現代科学の到達点とも言えるその究極のエネルギー機関を、まるで「新しいプラモデルの組み立てが終わりました」と言わんばかりの、休日の気楽な報告のようなテンションで送ってくる。
この圧倒的なまでの認識のズレ、常識の欠如こそが、工藤創一という特異点の本質であり、日下部の神経をすり減らす最大のストレス源であった。
日下部は、鈍く痛み始めた胃の腑を左手で強く押さえ込みながら、添付されている巨大な送信パッケージのファイル群を展開した。
・教育用・練習用核融合炉13m級完全設計図および3D・CADモデル
・基本仕様書
・地球材料工学ベースの素材選定および代替精製リスト
・海道グループ向け・建設ロボット群自律施工プロトコル
・科学者向け理解促進教科書『アンノウン式核融合の基礎と実践』全五巻
・シミュレーションに基づく想定理解期間レポート:約一週間
目を通すだけで、その情報量の異様さと暴力性が伝わってくる。
わずか一辺13メートルの筐体の中に、1億度の超高温プラズマを安定して封じ込めるための完全な設計図。しかも、フランスのITER(国際熱核融合実験炉)やアメリカのエネルギー省の科学者たちが「自力で」建設できるように、地球で調達可能な既存素材をベースにして意図的にデチューン(性能低下)されているという。
さらに、それを理解させるための「教科書」が、全五巻という大作にまとめられている。
日下部は、その教科書の第一巻のファイルを少しだけ開こうとして、数行の数式が目に飛び込んできた瞬間に、即座にウィンドウを閉じた。
読めない。いや、使われている言語は紛れもなく日本語であり、文字としては読めるのだ。だが、そこに記述されている数式やプラズマ物理学の根本的なパラダイムが、文系官僚である彼の脳の処理能力を完全に拒絶していた。人類の知恵の結晶を嘲笑うかのような、異次元の論理展開がそこにはあった。
そこへ、情報分析システムのAIがファイル群の全体スキャンを終え、自動要約のレポートを画面にポップアップさせた。
『本資料群は、現行の地球文明における核融合研究および材料工学を、数十年から百年単位で強制的に前進させる極めて重大なブレイクスルーとなる可能性があります』
「……でしょうね。言われなくても分かっていますよ」
日下部は、乾いた声でAIの無機質な報告に突っ込んだ。
そして、ふとファイルリストの最後尾、工藤に付き従う工場管理AI『イヴ』によって追記されたであろう【重要備考】の欄に目を留めた。
『本データ群を閲覧した科学者に、自らのこれまでの研究人生に対する極度の自己否定と心的衝撃(心が折れる現象)が発生する可能性あり。各国の責任において、十分なメンタルケア体制を構築することを強く推奨』
その一文を読んだ瞬間。
日下部の口から、エリート官僚としての威厳など微塵もない、限界を超えた人間の生々しい呻き声がこぼれ落ちた。
「ぐえー……」
それは、絶望というよりも、もはや純粋なキャパシティ・オーバーによる強制終了の合図だった。
理解不能なオーバーテクノロジーを押し付けられ、外交と法整備の辻褄を合わせるだけでも発狂寸前だというのに、今度はそれを読んだ世界最高の頭脳たちの「メンタルケア」まで要求されているのだ。
「工藤氏……。世界最高峰の科学者たちの精神崩壊のケアまで、こちらに丸投げするおつもりですか……」
日下部は、机に突っ伏したまま、震える手で胃薬の箱に手を伸ばし、錠剤を一粒、水も飲まずに直接口に放り込んだ。強烈な苦味が舌の上に広がるが、今の彼にはその苦味すらも、現実を繋ぎ止めるための心地よい刺激に思えた。
ゆっくりと顔を上げ、再びモニターを睨みつける。
この途方もない質量を持った情報の劇薬を、どう処理するか。
「……これは、絶対に国内で抱え込む案件ではない」
日下部の冷徹な官僚としての脳髄が、感情を排して瞬時に最適解を弾き出した。
「アメリカとフランスに投げる。丸投げです。ええ、完全に丸投げします。一切の責任とリスクごと、彼らに押し付ける」
自分たちで理解し、管理し、国内の科学者たちのメンタルケアまで行うなど、不可能の極みだ。ならば、喉から手が出るほどこの技術を欲しがっている大国にそっくりそのまま押し付け、彼らにその莫大な管理コストと精神的重圧を背負わせるのが最も合理的である。
日下部は、夜明けを待たずに、官邸のコアメンバーによる緊急の少人数会議を招集する手配を整えた。
◇
数時間後。午前七時。
首相官邸の地下に設けられた、通常のジャミング会議室よりもさらにこぢんまりとした、極秘の実務用小会議室。
集められたのは、副島総理、官房長官、科学技術担当大臣、経済産業担当大臣、防衛担当大臣、外務担当大臣、そして日下部参事官の七名のみであった。
「……来たか」
副島総理が、目の前に置かれたブラックコーヒーのカップに口をつけながら、隈の目立つ顔で重々しく言った。
「はい。来ました」
日下部は、スクリーンに昨夜受け取ったデータパッケージの概要を投影し、一切の無駄を省いて単刀直入に切り出した。
「結論から申し上げます。今回、工藤氏から提出された『教育用核融合炉』の完全設計図および全五巻の教科書一式。……これらは、アメリカとフランスへ丸投げします」
そのあまりにも直截な表現に、円卓の閣僚たちは少しだけ驚いたように沈黙し、顔を見合わせた。
「丸投げ、ですか」
科学技術担当大臣が、確認するように聞き返した。
「はい。丸投げです。理由は極めて単純かつ明白です。日本政府がこの知の劇薬を国内で直接抱え込むと、管理コストが物理的に爆発し、我々のキャパシティを超壊するからです」
日下部は、レーザーポインターでスクリーン上の日米仏の力関係とリソース配分を図示した。
「フランスは、南仏カダラッシュにITER(国際熱核融合実験炉)という巨大な実験施設と、そこに集まる世界最高峰の人材を持っています。彼らはすでに『我々のプライドを捨ててでも教えてほしい』と白旗を揚げ、施設を提供する用意があります。
一方のアメリカは、すでに完成品の3メートル級核融合炉の『現物』を持っていますが、彼らの技術力では解析に絶望しており、理解のための『階段』を必要としています。
……今回の教育版パッケージは、その両国のリソースと絶望的なニーズを完璧に満たすものです。この二カ国に全データを渡し、彼らの莫大な資金と施設、そして人材を使って実証実験をやらせるのが、我々にとって最も安全で合理的なのです」
日下部は、さらに言葉を重ねて論理を補強する。
「日本は、技術の『源泉』と、海道グループを通じた『施工管理(建設ロボットの運用)』だけを独占的に握っていればいい。国内に新たな研究機関を立ち上げたり、複数の大学を巻き込んだりすれば、監視対象が飛躍的に増大し、情報漏洩のリスクが跳ね上がります」
副島総理は、日下部の冷徹な損得勘定を聞いて、静かに、しかし深く頷いた。
「筋は通っている。アメリカの顔とプライドを立てつつ、フランスを実務の土俵に引きずり込み、我々は安全な高みから全体を管理し、成果だけを吸い上げる。外交的にも実務的にも、それが国家としての最適解だろう」
会議の方向性が、「米仏への丸投げ」という大方針で決定しようとした、まさにその時だった。
「ちょっと待ってください、総理。そして日下部くん」
科学技術担当大臣が、極めて厳しい顔つきで口を挟んだ。
彼は、手元にあった別の分厚い資料の束を、テーブルの中央に押し出した。
「日下部くんの言う合理性は、よく理解できる。リスク管理としては完璧だ。……だが、それを国内の研究機関や大学の人間たちが、どう受け止めるかという視点が完全に欠け落ちている」
「……どういうことでしょうか」
日下部が、眉を微かにひそめて冷ややかに問う。
「国内の研究所から、悲鳴に近い不満の声が上がっているのです」
科学技術担当は、深い溜め息とともに、彼が背負っている現場の重い事実を告げた。
「要するに、『アメリカだけずるい。フランスまで入るのに、なぜ日本国内の研究者が、日本発の技術に一切触れられないのか』という、極めてストレートで、そして強烈な不満です」
日下部は、ゆっくりと目を閉じ、そして深く息を吐いた。
「……来ましたか」
「来ています。しかも、抑えきれないほどの強い圧力で」
科学技術担当が、資料の表紙を指先で叩きながら続ける。
「核融合研究の第一人者たち、次世代エネルギー政策の専門家、材料工学の権威、そして主要国立大学の共同研究チーム。……名前は伏せますが、日本の科学界を牽引するトップ層のほぼ全域から、強い突き上げが来ています。
彼らは、アメリカが何かとてつもないエネルギー技術の実証を極秘裏に始めたこと、そしてフランスのITERが不自然な方向転換を見せたことを、独自の学術的ネットワークで完全に嗅ぎつけています」
経済産業担当大臣も、重々しく腕を組んで同意した。
「宇宙関連に関しては、JAXAがNASAと表向き連携するという形で、ある程度のガス抜きができている。
しかし、それ以外のアンノウン案件——深海資源の超効率採掘からヤタガラスの運用、そして今回の核融合に至るまで、実質的に『海道グループ技術部』という一民間企業と、官邸の極秘チームだけで独占している状態だ。
……エネルギー政策を担う経産省としても、そろそろ国内に強固な技術基盤を構築し、他の国内の優秀な研究機関にも技術を降ろしていくべき段階に来ているのではないか、という声は無視できない」
国内の科学者たちの苛立ちは、想像に難くなかった。
自国から生まれた、人類の歴史を根底から覆すような超絶テクノロジー。それが、同盟国とはいえ外国には気前よくポンポンと渡されていくのに、当の自分たちは完全に蚊帳の外に置かれ、指を咥えて見ていることしかできない。
研究者としてのプライド、人生を懸けた知的好奇心、そして何より「真理に触れたい」という根源的な欲求が、それを許容できるはずがなかったのだ。
「日本発の技術で、日本のトップ研究者が触れない。一方で、アメリカとフランスの科学者には教科書まで用意して渡す。……これを、彼らにどう論理的に説明するつもりだ? このまま力で押さえつければ、国内の科学基盤の士気が崩壊し、最悪の場合は頭脳の海外流出を招くぞ」
科学技術担当の痛切な指摘に、小会議室の空気が一気に重く、鉛を飲んだように沈み込んだ。
外務担当も官房長官も、その正論を前にして口を噤んでいる。
◇
数秒の、重苦しく、そしてひどく長い沈黙の後。
日下部が、ゆっくりと目を開き、居住まいを正した。彼の瞳には、一切の感情の揺らぎも、妥協の色もなかった。
「……まず、私が国内の他の研究所や大学に、この技術を投げたくない最大の理由を申し上げます」
円卓の全員の視線が、日下部の一点に集中する。
「技術の『制御』が難しくなるのが、嫌なのです」
科学技術担当が、怪訝そうに眉をひそめた。
「制御、ですか? スパイによる流出の懸念なら、公安調査庁を動かして徹底的に身体検査を行い、通信を遮断すれば済む話ではないか」
「ええ。技術そのものは単なるデータです。図面も資料も、物理的なアクセス制限をかければ管理できます。悪意を持ったスパイであれば、極論を言えば我々が保有する『位相空間レーダー(グラス・アイ)』を用いて対象者を24時間監視し、あらゆる密室の会話や暗号通信を捕捉することで、完全な対応と無力化が可能です」
日下部の声は、どこまでも冷たく、そしてどこまでも人間の本質を的確に突いていた。
「しかし、私が真に恐れているのは、外部からのスパイではありません。グラス・アイで彼らの物理的な行動や言葉は完璧に監視できても……科学者の『人格』、そして『思想』『名誉欲』『信念』といった脳内までは、我々のシステムをもってしても管理できないということです」
日下部は、手元のタブレットにいくつかの心理プロファイリングデータを表示させながら、冷徹に語り始めた。
「科学者は、全員が国を売る悪人ではありません。むしろ、その多くは純粋な善意と、人類の進歩を願うあくなき知的好奇心で動いています。
……だが、だからこそ極めて危険なのです。彼らのその『抑えきれない善意』が、最も厄介で防ぎようのない火種になる」
日下部は、円卓の閣僚たちの顔を順番に見据えながら、言葉に圧倒的な重みを乗せていった。
「想像してみてください。
もし、この核融合炉の設計図を見た優秀な研究者が、『この無限でクリーンなエネルギーは、一部の国家が軍事外交のカードとして独占すべきではない。人類の共有財産として即座に公開し、地球温暖化や後進国の貧困を直ちに解決すべきだ』と本気で信じ込んだら、どうなりますか?
彼らは、自分を裏切り者だとは微塵も思いません。むしろ『人類を救う崇高な正義』だと固く信じて、監視の目をどうにか潜り抜け、海外の学会ネットワークやメディアへ意図的に情報を流出させるでしょう」
科学技術担当が、ハッとして言葉を失った。
科学技術の進歩を「人類共通の財産」と考えるのは、科学者として極めて普遍的で、正当な倫理観であるからだ。
「また、ある者は『自分の長年の理論が正しかったことを歴史に証明したい』『ノーベル賞が欲しい』という純粋な名誉欲のために、禁を破って断片的な論文を発表しようとするかもしれない。
ある者は『日本政府のような腐敗した組織に、この強大な力を独占管理させるのは危険だ。第三者機関の監視が必要だ』という政治思想に基づいて行動するかもしれない。
あるいは、所属する大学や企業の利益を優先し、特許の申請に向けて密かにデータを持ち出そうとする者も確実に出るでしょう」
日下部は、冷徹な官僚としての絶望的な人間観を容赦なく叩きつけた。
「彼らは、金で動く単純なスパイよりも遥かに厄介です。なぜなら、彼らには自分を突き動かす『崇高な目的』と『正義』があるからです。
高度な専門知識を持ち、自らの正義を信じて疑わない『思想犯』。……そんな人間が、神の火の設計図を握った時、我々はそれを平和裏に止めることができますか?」
総理の表情が、険しく曇った。
日下部の指摘は、政治家として痛いほど理解できるものだった。金や権力で動く人間は計算できるが、己の信念を持った人間ほど、コントロールが利かないものはない。
「……なるほど。言いたいことはよく分かった」
防衛担当大臣が、腕を組みながら、鋭く探るような声で問うた。
「だが、それはアメリカやフランスの科学者とて全く同じ条件だろう?
仮にアメリカやフランスで、君が危惧するような『正義感に駆られた研究者』が現れ、情報をリークしようとした場合は、どうなるのだ? 彼らとて、情報漏洩のリスクは同じはずだ」
日下部は、わずかに沈黙した。
そして、部屋の空気を一段と冷たく凍らせるような、極めて低い声で答えた。
「……アメリカやフランスであれば。
最終的には、暗殺なり、失踪なり、完全な社会的抹殺なりを、躊躇なく選択肢に入れるでしょう」
会議室が、息を呑む音で満たされた。
「表には絶対に出しません。交通事故、突然の病死、児童ポルノやスパイ容疑の捏造による逮捕、あるいは精神疾患による強制入院。……国家の根幹を脅かす裏切り者に対して、彼らの情報機関は、手段を選ばずその『存在を物理的・社会的に消去』します。
それが、超大国の冷酷な危機管理能力の現実であり、技術を独占するための最終的な担保です」
総理が、苦渋に満ちた顔で机を叩いた。
「……だが、日本ではそんなことはしない。いや、絶対にできない」
「はい。しません。させません」
日下部は、即座に、そして断固として頷いた。
「我が国は、いかに強大で世界を覆すオーパーツを手に入れようとも、自国の罪なき民間人の命を、国家の都合で闇に葬るような一線を越えるわけにはいきません。もしそれをやれば、我々は真の意味で、法治国家の皮を被ったモンスターに成り下がります。
……だからこそ」
日下部は、科学技術担当を真っ直ぐに見つめ返した。
「最初から、そういう『暗殺か流出か』という最悪の選択を迫られる状況を作らない方がいいのです。
我々には、正義に暴走した彼らを合法的に、そして物理的に『消す』手段がない。ならば、管理できない人数の科学者に、管理不能な技術の核心を渡すべきではないのです」
この重い倫理の線引きに、科学技術担当も、経産担当も、もはや反論することはできなかった。自国の国民を守るために、あえて技術から遠ざけるという、歪で悲壮な決断であった。
「……日下部くん」
外務担当が、少し重苦しい空気を変えるように尋ねた。
「それなら、なぜ『あの男』……工藤創一氏は安全だと言い切れるのだ? 彼こそが、神の火を自在に生み出す、最も危険な爆弾の塊ではないか」
その問いに、日下部は本日初めて、ほんの少しだけ自嘲気味な笑みを浮かべた。
「よく誤解されますが。
工藤氏が安全なのは、彼が極めて善良な市民だからでも、国家に絶対の忠誠を誓っている愛国者だからでもありません」
総理が、苦笑しながら相槌を打つ。
「なかなか酷い言い方だな。だが、事実だ」
「はい。事実です」
日下部は、工藤という人間の本質を、極めて簡潔に言語化した。
「工藤氏は、名誉にも、歴史に名を残すことにも、ノーベル賞にも、国家の支配にも、微塵も興味がありません。
彼は純粋な『工場マニア』であり、自らの技術ツリーを解放して新しいものを造ることにしか関心がない。
……地球そのもののパワーバランス、あるいは人間社会のルールに一切の興味を持っていないからこそ、彼は逆に『完全に安全』なのです」
会議室の面々が、妙に納得したように静まり返る。
「彼は、自分が作りたいものを作り、それが社会にどういう破壊的な影響を与えるかを深く考える前に、『じゃあ次これ作りますね』と別の作業に移ってしまう。
我々からすれば、大問題です。毎月のように世界を滅ぼしかねない技術を無邪気に投げ込まれ、我々はその尻拭いに奔走している。
……ですが、少なくとも彼は、自分の思想のためにメディアに告発したり、学会で自己顕示欲を満たそうとしたり、誰かに技術を売り渡して巨万の富を得ようとはしません。その一点においてのみ、彼は地球上のどの優秀な科学者よりも、国家にとって信頼できるのです」
「……つまり、高邁な理想を持つ普通の科学者の方が、よっぽど国家にとっては危険な存在だと?」
経産担当の問いに、日下部は静かに頷いた。
「はい。場合によっては、ですが」
◇
「中国やロシアへの流出リスクはどう見る?」
防衛担当が、話題を安全保障の現実的な問題へと戻した。
「中国については、あの様子ですので、今のところ過度な心配はしていません。
もちろん警戒は怠りません。ですが、中国は現在、日本との関係維持を最優先しており、我々の逆鱗に触れるような露骨な奪取工作(ハニートラップや物理的な強奪)には出にくい状況にあります。彼らは当面の間、『従順な生徒』のポジションを崩さないでしょう」
「では、ロシアは?」
「ロシアは別です」
日下部の声が再び冷たくなる。
「フランスにITERを使った核融合炉の実証を許せば、欧州のロシア産エネルギーへの依存は将来的には完全にゼロになります。これはロシアのエネルギー外交の息の根を止める、国家存亡の死活問題です。
彼らは背に腹は代えられず、あらゆる手段——サイバー攻撃、妨害工作、そして研究者への直接的な接触や拉致を試みるでしょう」
日下部は、円卓を囲む閣僚たちを見回した。
「国内の研究所や大学に技術を渡せば、それだけロシアの工作員の『標的(接触点)』が増えることになります。標的が増えれば、公安や防諜機関の管理コストは幾何級数的に跳ね上がる。……それだけのリスクを負う覚悟が、今の我々にあるかということです」
理路整然と語られる、国内研究者への技術開示を阻む高すぎる壁の数々。
だが、総理は深く息を吐き出し、日下部の言い分を全面的に理解しつつも、国家のトップとしての政治的判断を下した。
「……日下部くん。君の危惧は、痛いほど分かった。
だが、それでもだ」
総理の眼差しが、強い光を帯びて日下部を射抜く。
「日本発の、人類の歴史を変える超技術だ。それを、アメリカやフランスが最前線で研究し、実証を進めているのに、日本のトップ研究者たちが完全に蚊帳の外で、指を咥えて見ているだけ……という状況は、独立国家としてやはり健全ではない。
それでは研究者の士気も落ちるし、何より、次世代の国内科学基盤が完全に枯渇してしまう」
科学技術担当も、深く頷いて総理に同意した。
「このままでは、アンノウン案件が海道グループと政府の閉じた箱になりすぎます。いつか必ず、内部からの腐敗や、研究者たちの強烈な不満の爆発を招く」
日下部は、その意見を否定しなかった。
彼もまた、官僚として「ガス抜きの必要性」と「国内基盤の育成」の重要性は熟知している。
「……おっしゃる通りです。完全な閉鎖は、抑圧を生み、別のリスクを生みます」
日下部はタブレットを操作し、あらかじめ用意していた『妥協案』をモニターに投影した。
総理が国内の声を拾い上げることは、最初から計算済みであったのだ。
「ただし、今すぐ神の火の核心たる『完全設計図』を国内研究所へ丸ごと渡すのは、やはり非推奨です。
……そこで、このような段階的な参加枠を設けるのはいかがでしょうか」
モニターに、『国内向け段階的技術参加プロトコル』の文字が表示された。
「第一に、『観察枠』の設置です。
日本の選抜されたトップ研究者を、フランスのITER施設やアメリカの実証施設に、政府の厳重な監視付きの『オブザーバー(観察者)』として派遣します。これにより、彼らに最前線の空気を吸わせ、科学者としてのプライドを満たします」
「第二に、『後方支援枠』の創設。
核融合の炉心の完全なデータではなく、そこに使われる素材の応力評価、周辺の超伝導計測機器の開発、冷却系の最適化シミュレーション、あるいは国際的な安全規格の策定といった『限定的・周辺分野』にのみ、国内の大学や研究所の参加を解禁します。これなら、核心技術の漏洩リスクをコントロールしつつ、彼らに『参加している実感』を与えられます」
「第三に、『海道グループのハブ化』。
アンノウン案件の総合技術窓口は、引き続き海道グループ技術部が独占します。国内の研究者は、海道グループと強固な秘密保持契約(NDA)を結んだ上で、彼らを経由して部分的にプロジェクトに参加する形とします。情報の流れを一本化することで、監視を容易にします」
そして、日下部は最後の一つを強調した。
「第四に、『将来的な国内実証炉計画』の検討の明言。
……いずれ、安全性の評価と機密管理の体制が完全に整った段階で、日本国内にも教育用ではない『本番環境の実証炉』を建設する計画があることを、彼らに提示します。この『出口』を見せることで、彼らの不満を未来への期待へと転換させます」
見事なまでの、官僚的な妥協案であった。
「……なるほど。核心の完全開示はせず、周辺領域からの段階的参加でガスを抜き、未来の餌で縛り付けるわけか」
総理が、感心したように頷いた。
「これなら、国内の士気を維持しつつ、我々の管理コストも許容範囲内に収まるな」
「ただし、参加する研究者には、スパイ対策だけでなく、思想的偏向や名誉欲、リーク衝動までを含めた、極めて厳格な心理評価と、グラス・アイによる日常的な監視体制を受け入れてもらいます」
日下部が冷徹に念を押す。
「分かった。国内には、その段階的参加枠で抑えよう」
総理の決断により、国内研究所への対応方針が決定した。
「……それで、日下部くん。国内の研究者たちには、この方針を具体的にどう説明するつもりだ?」
官房長官が、今後の記者会見や個別の根回しを想定して尋ねた。
「正直に言う必要があります。……ただし、全部は言いません」
日下部は、すでに用意していた説明文言のドラフトを読み上げた。
「『現在は国際的な実証の準備段階であり、安全評価と機密管理の観点から、完全開示は時期尚早である』。
『まずは材料工学や冷却系など、限定的な後方支援分野から国内の研究者の協力を仰ぎたい』。
『将来的には、国内での実証炉計画も検討している』。
……この三本柱で説明します。これなら嘘はついていませんし、彼らの理解も得られるはずです」
「よろしい。見事な捌きだ」
総理が深く頷き、会議の最終確認に入った。
「では、アメリカとフランスに対しては、予定通り工藤氏の『教育用パッケージ』を送付するということで良いな?」
「はい」
日下部が、送信内容を復唱する。
「教育用13m級核融合炉設計図、教科書五巻、建設ロボット施工プロトコル、素材選定リスト、日本側の施工案、ITER利用の前提条件、アメリカ側への理解支援案。……そして、あの『メンタルケア推奨』の備考も、そのまま送ります」
「イギリスには送らないのか?」
外務担当が確認する。
「今回は共有しません。イギリスはすでに『バンドエイドMK3』の実戦運用で先行枠を持っています。核融合炉というエネルギーの覇権については、フランスに花を持たせ、両国のバランスをとります」
「よし。決まりだ」
総理が円卓を叩き、会議は終了した。
◇
閣僚たちが足早に退室していく中、日下部は一人、セキュア端末の前に残っていた。
暗号化されたデータパッケージを、ワシントンの指定窓口と、パリのエリゼ宮の指定窓口へとセットし、送信ボタンを押す。
『アメリカ合衆国指定窓口へ送信完了』
『フランス共和国指定窓口へ送信完了』
無機質な緑色のテキストが、モニターに表示された。
日下部は、深く、肺の中の空気を全て絞り出すように息を吐いた。
これで、世界を揺るがす「神の火の教科書」は、欧米の最高頭脳たちの元へと放たれた。彼らが数日後にどのような絶望と歓喜の悲鳴を上げるか、想像するだけで胃が重くなる。
日下部は、もう一度、工藤から送られてきたパッケージの備考欄に目をやった。
『科学者の心が折れる可能性あり』
「……こっちの心も、とっくに折れそうなんですがね。ハハハ、私はいつまで綱渡りしないといけないんだろう…」
日下部は自嘲気味に呟き、箱から新しい胃薬をもう一粒取り出して、水なしで飲み下した。
ピロリン、ピロリン。
休む間もなく、日下部の端末に、今度は国内の各省庁や大学機関からの問い合わせ通知が、滝のようにずらりと並び始めた。
『日本国内の参加枠の拡充について(要望)』
『完全設計図の特例閲覧希望(〇〇大学工学部)』
『フランスITER施設への研究者派遣希望者リスト』
『国内実証炉計画に関する工程表の提示要求』
『アンノウン案件における、海道グループ偏重への懸念について(意見書)』
日下部は、その終わりのない事務処理と欲望のリストを、虚ろな目で見つめた。
「……アメリカとフランスに丸投げして、この件は終わると思った私が甘かった……」
神の火は、海を越えてアメリカとフランスへ渡った。
だが、その強烈な熱と光は、海外だけを照らすものではない。国内の研究者たちもまた、その炎の熱を肌で感じ、惹きつけられ始めているのだ。
触れたい。学びたい。歴史に名を残したい。
その純粋な知的好奇心と欲望は、科学を前進させるために不可欠な燃料であると同時に、国家の管理を焼き尽くしかねない、最も危険な火種でもあった。
日下部は、痛む胃を擦りながら、空になった胃薬の箱をゴミ箱に捨てた。
「……まずは、国内向けの『言い訳(説明資料)』の作成からですね」
世界を動かし、超大国を跪かせる「神の火」。
それは今日もまた、霞が関の地下深くで、一人の官僚の冷徹な机の上で、膨大な事務処理と終わりのない根回しのペーパーワークへと変換されていくのであった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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