第144話 フランス、神の火の聖書を読む
パリ、エリゼ宮(フランス共和国大統領府)。
豪奢な地上の宮殿とは対照的に、徹底した実用性と堅牢さを追求して作られた地下の「緊急事態管理センター(Centre de Planification et de Conduite des Opérations)」。
数日前、日本から極秘のセキュア・ラインを通じて送られてきたデータパッケージが、この部屋に集うフランス政府と科学界のトップたちを、完膚なきまでに揺さぶっていた。
部屋の中央に設置されたホログラム・プロジェクターが、全五巻からなる教科書の目次と、13メートル級教育用核融合炉の精緻な3Dモデルを青白く投影している。
大統領は、円卓の向かいに座る初老の男——南仏カダラッシュでITER(国際熱核融合実験炉)プロジェクトを牽引してきた代表を、静かに見据えた。
「どうだ、“教科書”は」
ITER代表の顔には、明らかな疲労の色が濃く滲んでいた。目の下にはどす黒い隈ができ、数日間まともな睡眠をとっていないことは誰の目にも明らかだった。
しかし、その落ち窪んだ目は、異常なほどの熱を帯びてギラギラと輝いていた。
「……素晴らしい内容です」
代表は、震える声で答えた。
「難しい。あまりにも難しい。私のこれまでの人生の全てを賭けても、この数式の海を泳ぎ切るには時間が足りないかもしれない。……ですが、これは……単なる機械の説明書ではありません」
「では、何だ」
大統領が短く問う。
「核融合炉というものを、全く新しいパラダイムの学問として一から教えるものです。
我々が何十年も手探りで、泥にまみれて積み上げてきた研究の先にある『答え』を、順序立てて、残酷なほど明快に示している」
代表は、空中に浮かぶ教科書のホログラムに、まるで聖遺物に触れるかのようにそっと手を伸ばした。
「これは、科学の聖書です」
会議室が、深い沈黙に包まれた。
「悔しいです」
代表は、ポツリと本音を漏らした。
「正直に言えば、読みながら何度も机を叩きました。なぜ我々はここに気づかなかったのか。なぜ我々はこの無駄な回り道を何十年も続けていたのか。そう思わずにはいられなかった」
科学技術顧問も、深く頷いて同意した。
「日本側からのデータに添えられていた『心が折れる可能性あり』という注意書きは、決して誇張ではありません。
この教科書は、理解できる。理解できてしまうからこそ、研究者の精神に強烈な衝撃と自己否定を与えます。……知の暴力です」
大統領は、組んだ両手の上に顎を乗せ、静かに言った。
「だが、君たちは読むのをやめなかった」
ITER代表は、即答した。
「やめられるはずがありません」
彼の瞳に、科学者としての業の深さが剥き出しになっていた。
「絶望しました。自分の研究が無に帰したと。
しかし、その絶望の向こうに、初めて本物の火が見えたのです。……これを読まずに死ぬことなど、科学者として絶対に許容できない」
その言葉には、理性の国フランスの科学者としての、誇りよりも強い「真理への渇望」が込められていた。
◇
大統領は、最も重要な、国家の命運を分ける質問を口にした。
「では、聞こう。
この教科書と13メートル級の設計図があれば……フランスは、核融合炉を複製できそうか?」
会議室の全員の視線が、一斉にITER代表に集中する。
代表は、一度だけ深く息を吸い込み、そして、はっきりと答えた。
「ええ。間違いなく、出来ます」
会議室に、抑えきれないざわめきが走った。
「もちろん、一日や二日で全てを理解し、組み立てられるわけではありません」
代表は、興奮を抑え込むように言葉を続ける。
「ですが、道は示されています。
材料の選定、磁場制御のアルゴリズム、熱処理、冷却系の取り回し、運転プロトコル、安全停止のフェイルセーフ、保守作業の手順、そして複製のための演習問題。
全てが、我々の手の届く範囲まで、意図的に『下ろされて』いるのです」
「これは、アメリカが持っているような3メートルの完成品ではありません」
科学技術顧問が補足する。
「だが、だからこそ我々にとって価値があるのです。
神が作ったブラックボックスではなく、我々人類が自力で組み上げ、理屈を理解できる13メートル級の炉です」
大統領の顔つきが、スッと変わった。
敗北感から、新たな野心へと火が灯る。
「そうか。
神の火を、この手に……」
それは、フランスが再び世界のエネルギーと科学の中心に返り咲くための、確かな足がかりであった。
「大統領。これはフランスにとって、敗北であると同時に、最大の機会です」
外務大臣が、高揚感を抑えた声で言った。
「我々は最初に火を灯したわけではありません。
しかし、欧州で最初にアンノウン式核融合炉を理解し、実証する国になる可能性があります」
「フランスの核融合研究は、死んでいません」
ITER代表も、力強く頷く。
「むしろ、今ようやく本物の教科書を得たのです。ここからが本当のスタートです」
「よろしい」
大統領は、円卓を叩いた。
「ならば、フランスはこの火を学ぶ。
そして、必ず自分たちの言葉で説明し、制御できるようにする」
先日、日本に対して「謙虚に教えを請う」と白旗を揚げた屈辱は、もはや彼らの中にはなかった。
あるのは、世界の最先端に食らいつき、再びフランスの誇りを取り戻すという強烈なモチベーションだけだ。
◇
科学者たちの歓喜の空気が満ちる中、情報機関(DGSE)の長官が、冷や水を浴びせるように重い話題を切り出した。
「大統領。技術的な見通しが立ったことは喜ばしいですが……ITER内部への展開について、重大な政治的問題があります」
「言え」
大統領が眉をひそめる。
「ITERは、国際協力プロジェクトです。
現在、施設内部には、ロシアおよび中国出身の科学者や技術者も多数在籍しています」
会議室の空気が、一気に冷えた。
「日本政府は、このアンノウン式核融合炉の実証に関わるメンバーから、ロシアおよび中国の関係者を除外することを強く望んでいます」
「……排除か」
大統領は、苦い顔をした。
「核融合という人類共通の目的のために集まった同志を、国籍を理由に外す。
科学の理念としては、あまり気持ちの良い話ではないな」
「ええ……」
ITER代表も、苦しそうに頷いた。
「彼らの中にも、極めて優秀な科学者はいます。政治的な思惑とは無関係に、純粋に核融合の実現に人生を捧げてきた者もいるのです」
だが、情報機関長官は冷徹にその感傷を切り捨てた。
「しかし、今回我々が扱うのは通常のITER研究ではありません。アンノウン式核融合炉です。
これは、ロシアのエネルギー外交に対する致命的な打撃となり得る技術であり、中国にとっても軍事・産業の両面で喉から手が出るほど欲しい技術です」
「特にロシアは」
外務大臣が補足する。
「欧州がロシア産エネルギーへの依存から完全に脱却する事態を阻止するためなら、なりふり構わず、かなり強引な手段に出る可能性があります」
「科学者本人がスパイでなくても、家族、所属機関、あるいは本国当局を通じて、いかなる圧力がかかるか分かりません」
情報機関長官が結論づける。
「本人の善意や科学者倫理だけに期待して、神の火の情報を共有するのは、安全保障上、極めて危険です」
大統領は、深く息を吐いた。
「科学は国境を越える。……だが、情報機関も国境を越える、か」
いかにもフランスらしい、少しばかりシニカルな皮肉であった。
◇
「露骨な排除は避けるべきです」
外務大臣が、現実的な解決案を提示した。
「特定の国籍だけを指名して追い出せば、ITERの国際協調の理念を完全に傷つけ、必ず深刻な国際問題に発展します」
「では、どうするのだ」
「アンノウン式核融合炉の実証プロジェクトを、ITER全体とは完全に切り離した『別枠の極秘選抜チーム』として扱います」
外務大臣の提案に、情報機関長官が同調して詳細を詰める。
「表向きには、専門性の高さ、セキュリティ・クリアランスのレベル、守秘体制、心理評価、そして各国間の合意に基づく『選抜』です。
ロシアと中国の科学者は、“国籍で排除された”のではなく、あくまで“今回の高度な選抜基準を満たさなかった”という形にするのです」
大統領は、静かに確認した。
「つまり、排除ではない。選抜だ、と」
「はい」
外務大臣が頷く。
「フランス政府としては、誰も国籍で排除しない。
ただし、このアンノウン式核融合炉の極秘実証に関わる資格を持つ者は、現段階では極めて限られる……というロジックです」
「それがベターでしょう」
ITER代表も、苦渋の表情ながら同意した。
「科学者としては、同僚を切り捨てるようで苦しいですが……技術の持つ破壊的な性質を考えれば、避けられません」
「よろしい。排除はしない。だが、選抜に漏れる者は出る。
それが今回の公式方針だ」
大統領は決断を下した。
「ロシアや中国には、どう説明する?」
「表向きの説明としては、以下の通りです」
外務大臣が方針を整理する。
「『アンノウン式核融合炉は、日本との二国間における特別実証協力である』。
『極秘性が極めて高く、参加人数を最小限に制限する必要がある』。
『専門分野・守秘体制・心理評価・施設アクセス権に基づき、厳格に選抜する』。
『これはITER全体からの排除ではない。従来のITERのプラズマ研究には、引き続き関与可能である』。
『ただし、アンノウン式炉のプロジェクトには参加できない』」
「もちろん、彼らは納得しません」
情報機関長官が冷たく付け加える。
「当然だ」
大統領も承知の上だ。
「ロシアは激しく抗議し、不当な差別だと騒ぎ立てるでしょう。中国は表向き穏やかに振る舞い、『弟子』のポーズを崩さないかもしれませんが、裏では情報収集の網を何倍にも強めてくるはずです」
「日本にも、この説明方針で良いか、正式に確認を取れ」
「承知しました」
◇
「また、日本側から一つ条件が提示されています」
外務大臣が、手元の資料をめくりながら次の話題に移った。
「日本の科学者が、このプロジェクトに『オブザーバー』として参加する予定です」
「日本の科学者?」
大統領が怪訝そうに眉をひそめた。
「はい。日本政府は、国内研究者のガス抜きと技術吸収のため、アメリカおよび我々フランスの実証に、日本人研究者をオブザーバーとして送り込みたいようです」
「正直、意図は読めませんね」
ITER代表が首を傾げた。
「自国が開発した技術なのだから、本来なら自国内に実証炉を建てて、そこで自由に研究すればよいはずです。なぜわざわざ、他国の施設に研究者を派遣するのでしょうか」
「日本は、国内での技術拡散を極度に恐れていると考えられます」
情報機関長官が、他国の内情を冷徹に分析する。
「自国の研究者を完全に信用していない……というより、日本の法整備や文化では、科学者の暴走を『制御しきれない』と見ているのでしょう」
「監視という体なのか?」
「おそらく、監視とガス抜きの両方です。……フランス側としては、日本人オブザーバーの受け入れを拒む理由はありません。むしろ、日本との関係を深め、恩を売る良い機会です」
「科学的にも歓迎します」
ITER代表も賛成した。
「アンノウン技術に最も近い日本側の研究者が同席するなら、こちらの理解も進む可能性があります。彼らの視点は貴重です」
「よし。日本人オブザーバーは受け入れろ」
大統領は許可を出した。
「ただし、彼らが我々の施設で何を見て、何を学び、何を持ち帰るかは、我々も徹底的に記録する。ただの監視役にはさせんぞ」
◇
「次に、海道グループの受け入れについてです」
情報機関長官が、実務的な懸案事項を口にした。
「来るのは科学者ではなく、建設部隊だな」
「正確には、海道グループの技術担当と、例の『建設ロボット群』です。
日本側の資料によれば、既存施設への据え付けであれば、なんと『一日』で完了可能とのことです」
「一日……」
大統領は、一瞬絶句し、それから苦笑した。
「まあ、もう驚くまい。ワシントンのアメリカ政府も、同じことを言われて頭を抱えているのだろう」
「受け入れ時の問題は、主に三つです」
外務大臣が整理する。
「第一に、あの異常な建設ロボット群のフランス国内への搬入経路の確保。
第二に、フランス側ITER施設の既存設備と、アンノウン式炉との物理的・システム的な接続調整。
第三に、海道グループ技術者の滞在管理と、双方向の機密保持です」
「施設側の準備は急がせます」
ITER代表が請け負う。
「既存のITER関連インフラ——冷却系の予備配管や、電源設備などを一部転用すれば、13メートル級の受け入れ自体は十分に可能です」
「ただし」
情報機関長官が釘を刺す。
「建設ロボットの異常な性能を、フランス側が過度に観察・分析しようとすれば、日本は確実に嫌がります。彼らは技術の『盗み見』を極度に警戒しています」
「観察はする。……だが、盗むようには見せるな」
大統領が、したたかに命じる。
「承知しました。適度な距離感を保ちつつ、可能な限りのデータを収集します」
この辺りの駆け引きの狡猾さは、フランス情報機関の真骨頂であった。
◇
会議が終盤に差し掛かり、大統領は最も気にかけているライバル国の動向を問うた。
「アメリカ側の進捗はどうなっている?」
「彼らも、我々と同じ教育用核融合炉の設置準備を急ピッチで進めています」
情報機関長官が答える。
「おそらく、ネバダかニューメキシコの砂漠地帯にある隔離施設を使うでしょう。海道グループの受け入れ準備も進めていると思われます」
「つまり、競争だな」
大統領の目に、闘争心が宿る。
「表向きは日米仏の、平和的な協力プロジェクトです」
外務大臣が、外交上の建前を口にする。
「表向きは、だ」
大統領は、その言葉を切り捨てた。
会議室が、ピンと張り詰めた静寂に包まれる。
「アメリカに遅れるな」
大統領は、円卓の全員を力強く見回して宣言した。
「屈辱を飲んでまで、神の火を学ぶ席を得たのだ。フランスはただの『欧州の連絡窓口』で終わってはならない。
我々は、アンノウン式核融合炉を欧州で最初に理解し、最初に複製する国になる」
ITER代表の顔が、科学者としての誇りで引き締まる。
「必ず」
「海道グループの受け入れを急げ。
施設を空けろ。
極秘の選抜チームを編成しろ。
ロシアと中国の科学者には、従来の研究に留まってもらう。
日本人オブザーバーは受け入れる。
……そして、絶対にアメリカに遅れるな」
大統領は、最後に強い決意を込めて言い切った。
「アンノウン式核融合炉を複製するのは、フランスが先だ」
◇
会議終了後。
ITER代表は、誰もいなくなった廊下を歩きながら、手元のセキュア端末に保存された『教科書』の第一巻をもう一度開いた。
そこに並ぶのは、これまでの核融合研究の常識を心地よく破壊し、全く新しい宇宙の真理へと誘う、残酷なほど美しい数式の羅列。
彼は、数日間の徹夜で肉体は完全に疲労しきっているはずなのに、口元には自然と笑みがこぼれていた。
「……聖書、か。
いや、これは聖書などではない」
彼は、小さく呟いた。
聖書はただ信じて祈るためのものだ。だが、これは違う。
「これは、問題集だ。
我々がようやく解くことを許された、神が作った問題集だ」
フランスは、技術的な敗北を完全に認めた。
だが、敗北の先に差し出された教科書を、絶望して閉じることはなかった。
ロシアと中国の同僚を選抜から外し、日本人オブザーバーを受け入れ、未知の建設ロボットを施設に迎え入れる。
科学の国際的な理念は傷つき、政治的なリスクも跳ね上がる。
だが、神の火の真理に触れるためには、政治の泥を踏むことをためらってはならない。
フランスはその泥を踏む覚悟を決めた。
そして、欧州で最初にアンノウン式核融合炉を理解し、自らの手で複製するため、国家の知性の全てを懸けた競争へと足を踏み出したのであった。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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