第133話 白衣の神と、油の亡霊
アメリカ合衆国、ワシントンD.C.。
ホワイトハウスの地下深くに存在する、大統領直轄のセキュア・ルーム(極秘会議室)。
外の世界はうららかな季節を迎えようとしているが、この窓のない密室には、常に凍てつくような冷気と、胃を締め付けるような重圧が循環していた。
かつてこの部屋で議論されたのは、空を覆い尽くす巨大な見えない要塞や、月へ数十分で到達する宇宙船といった、人間の理解を拒むSF的恐怖であった。
だが、今日の空気は少し違う。
未知への恐怖ではなく、もっと生々しく、泥臭く、そしてアメリカという国家の「血と肉(資本)」に直結する、極めて現実的な厄介事の匂いが充満していた。
円卓の上座に座る第48代アメリカ合衆国大統領、キャサリン・ヘイズは、手元に置かれた日本の内閣官房から共有されたばかりの「新技術概要資料」をパラパラとめくり、深く、長い息を吐き出した。
その表情には、激務による疲労と、純粋な感心、そして為政者としての強烈な警戒感が入り混じっている。
「……まずは、『がんしぼり君』ね」
ヘイズが、そのふざけた名称をあえて事務的なトーンで読み上げると、円卓を囲む閣僚や情報機関のトップたちが、一様に微妙な顔をした。
相変わらずの絶望的なネーミングセンスだが、中身に書かれていることは、現代の医学と医療経済の常識を根底から書き換える悪魔の仕様書だ。
ヘイズは、資料の該当箇所を指先で弾いた。
「年1回、あるいは半年に1回の定期的な投与。
腫瘍の微小環境にナノマシンを常駐させ、ガン細胞の増殖シグナルを遮断、転移を物理的に防止する。さらに、患者自身のNK細胞やマクロファージの働きを局所的に補助し、免疫環境を改善する。
……そして何より、外科手術や抗がん剤といった既存の治療と完全に併用が可能であり、実質的な大幅な延命——ほぼ『ガンとの共生』を実現する、と」
彼女は顔を上げ、円卓の向かいに座るCIA長官エレノア・バーンズと、タイタン・グループの若き総帥ノア・マクドウェルを見据えた。
「……正直に言うわ。やっぱり日本は、この路線が良いわね」
ヘイズの口から漏れたのは、非難ではなく、心からの賞賛に近い本音だった。
「5億円もする『消しゴム』や、設備が大掛かりすぎる『ザル』は、確かに奇跡だった。でも、あれは一部の特権階級の命を弄ぶための歪な道具にしかならなかった。
しかし、これは違う。既存の医療インフラを壊すことなく、静かに、確実に命を長らえさせる。……しかも、日本国内での価格設定は、約1万ドル(約100万円)前後を想定しているというじゃないの」
ヘイズは、手元のペンを少しだけ乱暴に机に置いた。
元連邦検事として、アメリカの医療制度の腐敗や高額すぎる薬価に憤りを感じていた彼女の、隠しきれない苛立ちが滲み出る。
「1万ドルよ?
アメリカの製薬会社が、ほんの数ヶ月寿命を延ばすだけの新薬に数十万ドルの値札を付け、患者の家と全財産をむしり取っているというのに。
……これだけの効果があって、1万ドル。こちらの感覚からすれば、むしろ安すぎて怖いくらいだわ」
ヘイズは、腕を組み、冷ややかな声で続けた。
「アメリカ政府としては、国内の製薬産業がこの価格破壊によって大打撃を受け、潰れかねない危機に陥るのは理解している。
でも、彼らはこれまで患者の命を担保にして、過剰な利益を追求しすぎたのよ。完全に潰れろとまでは言わないけれど……彼らは一度、痛い目を見るべきね。この日本の『常識的な奇跡』の前に、自分たちの傲慢さを恥じるべきだわ」
大統領の口から飛び出した、国内の巨大産業に対する痛烈な批判。
患者目線で見れば、この「がんしぼり君」は間違いなく神の薬であり、それを格安で提供しようとする日本政府の姿勢は、アメリカの医療ビジネスの醜悪さを鏡のように映し出していた。
だが、その大統領の「正しい本音」に、即座に冷や水を浴びせた者がいた。
大統領首席補佐官であり、政権の裏側のパイプ管理を担うダグラスだ。彼は血相を変え、慌てて身を乗り出した。
「大統領! お言葉ですが、その発言は極めて危険です!」
ダグラスは、周囲の様子を窺うように声を潜めつつ、必死の形相で進言した。
「お気持ちは痛いほど分かります。一般市民の目線に立てば、その通りでしょう。表のメディアで発言されれば、貴女の支持率は爆発的に跳ね上がるはずです。
……ですが! 製薬業界のロビー団体は、我が党、そして大統領の次期選挙戦における最大の献金元の一つです! 彼らが痛い目を見るべきなどという発言がもし彼らの耳に入れば、明日にでも数億ドルの政治資金が凍結されますよ!」
ダグラスの言葉に、会議室の空気がスッと冷えた。
理屈や正義では、大統領が正しい。
しかし、アメリカの政治システムは、膨大な「金」という血液なしには一秒たりとも機能しないのだ。巨大製薬会社の機嫌を損ねれば、政権の運営基盤そのものが崩壊しかねない。
ヘイズは、ダグラスの必死の諫言に、深く、冷たい溜め息を吐いた。
「……ダグラス。私をなんだと思っているの。
それくらいの政治力学、言われなくても分かっているわ。表のカメラの前で、こんな本音を漏らしたりはしないわよ」
彼女は、政治の泥にまみれた現実を嫌というほど理解し、すでにそれに順応しつつある自分自身に、微かな嫌悪感を覚えながら言った。
「でもね」
ヘイズの碧眼が、鋭い光を帯びてダグラスを射抜く。
「いくら私たちが業界を庇ったところで、有権者は馬鹿じゃない。
いつか必ず、この『日本の安価な特効薬』はアメリカの一般層にも浸透する。その時、患者たちが『なぜ我々の政府は、日本の安い薬を入れずに、国内の製薬会社の高い毒を買わせるのか? 日本の方が遥かにマシじゃないか!』と気づき、怒りの声を上げ始めたら……。
……企業からの献金だけで、その巨大な世論の怒りの波を、どこまで持ち堪えられるのかしらね?」
その冷徹な予測に、ダグラスは言葉に詰まり、額に浮かんだ汗をハンカチで拭った。
日本の技術がもたらすのは、単なる医療革命ではない。アメリカ国内の政治と資本の癒着構造に対する、静かで確実な「破壊工作」なのだ。
「……大統領。がんしぼり君の機能と、その価格設定がもたらす社会的な脅威は、おっしゃる通り素晴らしいものです」
沈黙を破ったのは、CIA長官のエレノア・バーンズだった。
彼女は、テーブルの上の資料を指先でトントンと揃えながら、一切の感情を排した氷のような声で切り出した。
「しかし、アメリカの富が日本へ流出するとはいえ、1回1万ドル程度であれば、国家の屋台骨を揺るがすほどのダメージにはなりません。既存の保険システムでどうにか吸収できる額です。
がんしぼり君単体であれば、それはまだ『優秀な医療技術の輸入』という枠内に収まります」
エレノアは、そこで言葉を区切り、円卓の全員を冷たく見回した。
「……我々が真に警戒すべき問題は、医療ではありません。
日本政府が最近立ち上げた、あの『中東基金』……パックス・ファンドです」
その単語が出た瞬間、会議室の空気が一段と重く、そして嫌な湿度を帯びたものへと変わった。
ここからが、この会議の「本当の地獄」の入り口である。
ソファで優雅にコーヒーを傾けていたノア・マクドウェルが、カップをソーサーに置き、楽しげに同意した。
「そうですね、長官。
私としても、あそこまで露骨に中東の王族たちが日本に接近するとは、少々予想外でしたよ」
ノアは、長い足を組み替えながら、事の推移を理路整然と分析し始めた。
「中東の産油国は元々、日本が発表した『次世代の核エネルギー研究』に危機感を抱き、その利権に食い込むために接近してきました。
そして日本政府は、彼らに対する『見返り(あるいは首輪)』として、医療用キットのオリジナルを2つ譲渡し、王族の命を救ってみせた。
……ここまでは、我々も日本政府からの事前の説明で把握していました。彼らは中東のオイルマネーを、国際社会での自分たちのロビー活動や防波堤として利用するつもりなのだろう、と。そこまでは、極めて合理的な外交戦略として理解できます」
ノアの青白い瞳が、スッと細められる。
「しかし、その後に設立された『パックス・ファンド』は、我々の想定していた政治的取引の規模を完全に逸脱しています」
エレノアが、ノアの言葉を引き継ぎ、背後の巨大スクリーンに複雑な資金の流れを示すフローチャートを表示させた。
「大統領。この基金のスキームを見てください。
中東の政府系ファンドが共同出資した、初期投資額100兆円(約7000億ドル)規模のファンド。
しかもその条件は、『事実上の無期限』、そして『無利子』です」
「無利子で無期限の100兆円……」
ヘイズは、その狂った数字と条件に、思わず眉間を揉みほぐした。
「資本主義の原則を完全に無視した白紙の小切手ね。それが、単なる政治的合意ではなく、確固たる『制度』として組み込まれたということ?」
「はい。日本政府は、これまでオーバーテクノロジーをいくつも手にしてきながら、それを国内の民間経済に還元する『パイプ(器)』を持っていませんでした。技術を一気に公開すれば社会が壊れるため、常に隠蔽と出し惜しみを強いられていた。それが彼らの最大の弱点だったのです」
エレノアの指摘は、極めて正確に日本の急所を突いていた。
「しかし、この中東基金が、その『器』になります。
無利子・無期限の100兆円が、医療費補助、インフラ整備、起業支援という形で日本国内に雪崩れ込む。
これによって日本の社会不安は一気に緩和され、水面下で最新技術が企業へと流れ込む完璧なシナリオが成立してしまったのです。
……つまり、日本という国家が、このファンドを起爆剤にして、かつての高度経済成長期など比較にならない速度で『急成長』する可能性が極めて高いのです」
その冷徹な予測に、ヘイズ大統領の顔色が変わった。
ただでさえ技術で世界を出し抜いている国が、今度は無尽蔵の資本を注入され、社会実装のスピードを爆発的に上げる。
それは、アメリカの経済的覇権が、完全に過去のものになるという明確なサインであった。
「……うーん、それは確かに厄介ね……」
ヘイズは、忌々しげに息を吐いた。
前半の「がんしぼり君」の時は、まだ「日本を見習うべきだ」という余裕があったが、このマクロ経済の話になると、大統領としての危機感が一気に跳ね上がる。
だが、エレノアの報告は、まだ「最悪の底」に到達してはいなかった。
「大統領。私がこの会議を招集したのは、日本の経済成長を危惧してのことだけではありません。
……もっと、恐ろしく、そして『アメリカの背骨』に関わる疑惑が浮上したからです」
エレノアの声が、氷点下まで下がった。
会議室の将官や高官たちが、一斉に息を呑み、彼女の次の言葉を待つ。
「日本のオーバーテクノロジーと、中東の資金力。
この二つが結びつく領域といえば……『石油』です」
「石油?」
ヘイズが怪訝そうに問い返す。
「どういうこと?
日本は次世代の核エネルギーを開発して、化石燃料から脱却しようとしているはずでしょう?
だから中東は焦って日本に投資した。……違うの?」
「表向きの理屈は、そうです」
エレノアは、スクリーンに新たなファイルを表示した。
それは、『TOP SECRET』の赤印が押された、数年前の古いインテリジェンス・レポートであった。
「これは約4年前、日本の京葉工業地帯の製油所に極秘裏に持ち込まれた、ある『異常な原油』に関する観測データです」
エレノアが指し示したデータには、硫黄分や重金属の不純物が全く検出されない、自然界ではあり得ないほど純度の高い「完璧な軽質原油」の分析結果が記されていた。
「当時、我々のエージェントがこの異常な原油の存在を察知しました。しかし、日本の公安による徹底的な情報統制と『深海大水深からの試験サンプルだ』というカバーストーリーに阻まれ、証拠不十分で棚上げになっていた案件です。
……ですが、今なら、これが何であったのか、点と点が線になります」
エレノアは、円卓の全員を冷たく見据え、決定的な仮説を叩きつけた。
「日本は、ナノマシンか、あるいは我々の理解を超えた未知のプラント技術によって。
……『石油の人工生成』に成功している可能性があります」
「ば、馬鹿なッ!!」
NSCの高官が、椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで立ち上がり、絶叫した。
「石油の人工生成だと……!?
無から化石燃料を生み出すというのか!?
そんなことができれば、日本は一瞬にして世界最大の産油国になるということか!」
その驚愕は、無理もないものであった。
医療技術も脅威だが、「エネルギー秩序」の根幹である石油を自前で無限に作れるとなれば、それは国家の地政学的な価値を根底からひっくり返す、核兵器以上の破壊力を持つからだ。
「座りなさい。まだ推測の段階よ」
エレノアが冷たく制し、説明を続ける。
「日本が石油を作れるとしても、彼らは自らを『産油国』として名乗り出ることはできません。そんなことをすれば、世界中のエネルギー市場がパニックに陥り、日本は中東のみならず、我々アメリカやロシアからも完全に敵視されることになります。
……だからこそ、彼らには『隠れ蓑』が必要だった」
エレノアは、スクリーンの中東の地図と、日本の地図を赤いラインで結んだ。
「日本が人工生成した無尽蔵の石油を、中東に横流しする。
そして中東は、それを自国の油田から採れたものとしてブレンドし、世界市場に『中東産原油』として販売する。
……その莫大な利益のキックバックが、あの『無利子・無期限の100兆円ファンド』の原資だとしたら?」
会議室に、死のような沈黙が降りた。
単なる技術の貸与ではない。
日本は、自分たちが作り出した「偽の石油」を中東という巨大なロンダリング装置に通すことで、誰にも怪しまれることなく、無限のオイルマネーを合法的な投資資金として自国に還流させるという、悪魔的なスキームを完成させていたのだ。
「……なるほど……?」
ヘイズ大統領は、目を細め、その壮大で恐ろしい仮説を自らの頭の中でゆっくりと咀嚼した。
「つまり……中東を隠れ蓑にして、日本も無限のオイルマネーを手に入れた、と?」
彼女は、さらに一段深く踏み込んで、その事態の真理を言語化した。
「中東の石油が、実質的に『無限』になった、ということなの?」
その問いに対し、エレノアは極めて慎重に、だが重い肯定の色を含んだ声で答えた。
「……推測に推測を重ねた結果ですが。
……恐らくは、その通りです」
CIA長官の口から出たその言葉は、どんな確たる証拠よりも重く、説得力を持っていた。
「正直、にわかには信じられないけれど……。
エレノア長官がそう言うなら、説得力があるわね……」
ヘイズは、深い疲労感と共にデスクに肘をつき、両手で顔を覆った。
がんしぼり君は、まだ「医療」の枠に収まっていた。
中東基金も、単なる「資金」の話だと思っていた。
だが、そこに『石油の人工生成とロンダリング』という疑惑が入った瞬間、それは国家の背骨であるエネルギー秩序と資本主義の根幹そのものへの浸食となる。
アメリカは、その匂いを完全に嗅ぎ取ってしまったのだ。
日本はもはや、気まぐれに奇跡の薬を配る魔法使いではない。
奇跡を資本化し、資源化し、国家というシステムそのものを無敵の怪物へと作り変えようとしているのだ。
「……どうするの。我々は」
ヘイズが、重苦しい声で問う。
「日本を非難する? 制裁を課す?
……出来ないわね。我々自身が、彼らの『医療』と『監視システム』に首まで浸かっているのだから。
ここで距離を取って彼らを敵に回せば、日本と中東の連合体はさらに結束を強め、アメリカは完全に世界から取り残されるだけよ」
大統領の導き出した結論は、あまりにも屈辱的で、しかし絶対的な現実であった。
アメリカは、日本の列から落ちるわけにはいかない。
どれだけ日本が恐ろしく、腹立たしい存在であろうとも、彼らの作り出す「未来」に必死にしがみついていくしか、覇権国家としての生き残る道はないのだ。
「アメリカ政府としては……これまで以上に、日本との関わりを深めるしかないわね」
ヘイズが、敗北宣言にも似た決断を下した。
会議室の軍人たちも、無言でそれを肯定するしかなかった。
その重く、お通夜のような空気の中で。
ソファに座るノア・マクドウェルだけが、一人楽しげに手を叩き、パッと明るい声を上げた。
「いやあ、実に素晴らしい結論です、大統領!」
ノアの青白い瞳が、狂気と好奇心でキラキラと輝いている。
「ちょうど近日中に、日本政府の高官(日下部)との定例セッションが予定されています。
彼らが次に、どんな常識を破壊する手札を切ってくるのか……。
次は何が出てくるか、本当に楽しみですね!」
ノアのその無邪気で心底ワクワクしているような軽口に、ヘイズ大統領は、残された全ての気力を振り絞って、机をバン!と叩いて全力でツッコミを入れた。
「いやだわ!!
全然、楽しみじゃないんだけど!!?」
大統領の悲鳴に近い叫び声が、セキュア・ルームの冷たい壁に虚しく反響する。
『白衣の神』と『油の亡霊』。
極東の島国が放つ果てしない奇跡と欲望の連鎖に、アメリカ合衆国は、もはや振り回されることしかできない道化へと成り下がっていた。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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