雌蟷螂
いつものように、悪夢がイフルズの意識の扉を叩く。
夢は自由だ。だから、不合理にも苦痛を招き入れてしまう。あとは汚濁した五感が洪水のように訪れる。それが拷問や罵倒などの、知る限りのありとあらゆる苦痛で現れる。だというのに、刺激で意識が覚醒することはない。
それは麻酔のない心霊医術じみていて、腹の下の内臓を直接掻き回されるような痛みを伴う不快感だ。誰かなのか何かなのかわからないが、それはイフルズを貫くことを愉しんでいる。少なくとも、彼の主観の中では、直截的にそいつが女性的に感じる。
雌蟷螂。
構造物先生はそう呼んでいた。悪夢を見せるもの。害するもの。その主体としての表象。アルト氏症候群の副産物として、VRでの知覚を処理しきれず、意識が暴走しているのだろう、と擬人化された医療インフラは分析していた。
解決策のない悪夢が始まると、常に耐えるしかない。彼女は一切の解釈も抵抗も許さずに、罵り、締めつけ、切り裂く。周期を持つそれは、まるで毎回が異なる即興曲のようだ。猟奇的な肉感をVRで感覚させられる。許されているのは諦念だけ――早く醒めてしまえ、と願うだけだ。
掴みどころのない雌蟷螂が微笑った気がした。
ぱちりと目を見開く。
仄暗いベッドルームで、覚醒を検知したシステムが自動でカーテンを引いていく。窓から差しこむ陽光に目を細めながら、イフルズは気怠い体を起こした。全身が汗でぐっしょりと濡れていて気持ち悪い。霧散した悪夢が身体にまとわりついているようだった。
またか、と思いながら額に貼りついていた前髪を掻きあげる。
一年前の適性試験を終えてから、継続的に悪夢を見るようになった。原因は考えるまでもない。なぜ女性的なものに犯される夢なのか――あの戦場の背徳と暴力が足枷になって、お前はこっち側だと引きずりこもうとしているのかも知れない。
汗を拭こうとイフルズはバスルームへ向かった。
室内の人感センサが反応して、歩くのに合わせてリビングのカーテンが開いていく。人工太陽の光で室内が照らしだされた。
部屋は奥行きがあり、ベッドルームとリビングが繋がったスイートになっている。大して使いもしない高級な調度品で整えられた部屋は、モデルルームのようだ。自室というよりも、長期滞在のホテルのような感覚でイフルズはこの部屋で生活している。
バスルームに近づくと、クローゼットの中からハム音が鳴りだす。クローゼット横にある小さなスライドドアが開き、中から畳まれた洋服がトレーに乗せられて出てきた。
いいご身分になったものだ、と自嘲する。
無造作に洋服を掴み、八つ当たり気味にバスルームへ投げこんだ。タオルで体を拭き、ついでに朝の身支度を済ませて着替える。代わり映えのしない、いつもの服。与えられた権利を行使して着飾りたくなかったので、服はワイシャツとスラックスしか持たないようにしていた。
着ていた寝間着をクローゼットと一体化している洗濯機に放りこむと、吸音素材の向こうで、静かに注水が始まる。それを見越したかのように、視界の端に通信端末の意匠を模したアイコンが表示された。個別通信の着信通知だ。
相手の名前を確認して、イフルズは応答した。
〝おはよう、イフルズ〟
低く、落ちついたトーンの女の声。
〝朝支度が済んだら私の書斎に来い〟
家主である、ベリカ・フィロからだった。
いつかイフルズが、彼女の偽物を撃ち殺した部屋で、ベリカは待っていた。
静かに唸るサーバーマシンと、無花果の木が透かし彫りされた一本脚のテーブルは、あのときと何一つ変わらない。あの時と異なるのは、イフルズが額を撃ち抜いた偽物の血痕が、きれいさっぱり消えていることだろう。
テーブルの上にはティーセットが揃えられていた。ベリカは背筋よく椅子に腰掛け、静かにティーカップを口元に運んでいる。こういうときだけ、見た目は上品な令嬢に見える鷹のような女に、イフルズは未だに慣れない。
ベリカの隣にはエプロンドレスを着た女中が控えていた。この屋敷の女中や執事は、奴隷ではなく〈奉仕〉の等級を持つ国民だというのだから驚きだ。
イフルズは相手に敬礼した。
「フィロ少将、イフルズ少尉、ただいま参上いたしました」
ベリカは紅茶を一口飲む。
「イフルズ」
彼女はこちらを向かないまま、音を立てずにカップをソーサーに戻した。
「ここは家だ」
イフルズは不愉快さを隠さず顔に出す。
「すみません。思春期なもので、母上」
皮肉を込めて親呼ばわりすると、ベリカは口元に笑みを浮かべた。鋭い目つきの碧眼をこちらに向け、女中に手振りで指示しながら言う。
「座れ。この茶葉は美味いぞ」
女中が紅茶の用意を始めるのと同時に、イフルズはどっかと椅子に腰を下ろす。そのまま頬杖をついた。態度の大きい奴隷に、公民の女中がむっとした表情を見せたが、気にしない。
「オレはコーヒー派だって、いい加減に覚えろよ」
「趣味を共有したい親心を汲んでほしいものだ、息子よ」
意趣返しの息子呼ばわりに、イフルズは背中に怖気が走り、顔をしかめた。
女中がイフルズのカップを用意し、紅茶が注がれる。湯気とともに香りが立つ。丸みを帯びた甘みの中に、わずかに香ばしさが混ざっている。素人でも鼻だけで高品質さが伝わるものだった。
紅茶を少しだけ啜る。甘い白湯のようでやはり嫌いだった。カップをソーサーに戻すと、陶器が不平を鳴らす。「一応、高級な食器だから割るなよ」と、ベリカに茶化された。
それで、とイフルズは話を切りだす。
「呼びだした理由は?」
まさか、帽子屋でもあるまいし、本当にお茶会をしたかっただけ、なんてことはないだろう。いや、狂った、という意味では、ベリカでも案外ありえるのだろうか。
そんな不躾な思索に耽っていると、ベリカが短く言う。
「お前の機体がロールアウトした」
ベリカは手元にARヴィジョンを表示すると、そのウインドウをイフルズのほうへ滑らせてきた。
「このあと格納庫で受領してこい」
ベリカから渡されたウインドウには、イフルズをギャロップの試作戦闘機のテストパイロットとする辞令が表示されている。長たらしい形式張った文章の終わりに、『軍備奴隷IFLS-ALT4S(通称イフルズ)少尉を、次世代兵装搭載戦闘機の試験操縦士に命ずる』という一文が、確かに載っていた。
「――は?」
一瞬、何を命じられたのかわからず、イフルズは呆けた。
「何を間抜けな顔をしている、貴様らしくもない。PSEUに配属された隊員にはギャロップを配備すると、事前に説明していたはずだが?」
「いや、待てよ。だって一年だぞ? 一年も何もなかったのに、いまさら……」
いまさら、自分がギャロップのパイロットになれるなど、イフルズは思っていなかったのだ。
まだ学生奴隷だったとき無邪気に、国のために、誰かのために、と持っていた志。そんなものは、とうの昔にあの戦場で薄汚れて、持つことに耐えられず捨ててきたのだ。自分はただの人を殺す道具で、眩いものに目を細める資格はない。
それなのに、いまさら。
突如転がりこんできた、かつての夢を叶えられる機会。
心臓の音が、急にやたらとはっきりと聞こえ始めていた。それが高鳴りなのか動悸なのかわからない。汗が一筋、頬を伝う。背後に何かの気配を感じた。
雌蟷螂が、こちらを嗤っている気がする。
ベリカは怪訝そうに眉をひそめた。
「何を言っている? 重篤なVRPDである貴様では、通常機を運用できるわけないだろう。よしんばそれが叶ったとしても――」
ベリカは話の途中で、いきなりソーサーをイフルズの顔面に向けて投げつけてきた。
イフルズはそれをほぼ反射的に指で挟んで受け止める。
対面で会話している至近距離で、突然の敵意をイフルズは難なく捌いていた。動転しているというのに、その心の焦りは彼の肉体の制御には影響していない。
「――この通り、VRPDの副作用で、異様に発達した貴様の反応速度に追いつける機体がないのが現状だ。専用の試作機の開発期間としては妥当だろう」
「専用の、機体……」
確かに、適性試験を経て悪化したVRPDは、イフルズから情報処理能力を奪い去った。VR意識が昏睡したように使い物にならなくなり、情報空間を歩くことすら覚束ない。その代わりと言わんばかりに、脳の余ったリソースがBRの肉体処理に割り振られたかのように、イフルズは学生時代よりも遥かに自らの体の動かし方を理解していた。
それこそ、反復訓練の必要もなく、イメージした通りに自分の体を動かせる。はたから見れば、全身義体で機械制御していると思われるほどだ。その気になれば、徒手でビルの壁を登ることもできるだろう。
ベリカは続ける。
「それに、その試作機には専用AIが必要となってな。そのAIの教育期間も含めている」
ベリカがこちらに手を伸ばしてきたので、イフルズはソーサーを返した。
「本来ならば、貴様の情報処理能力をサポートするためのAIアシスタントだったんだがな」
「……AIに小言を言われるのはごめんだぞ」
ベリカは小さく笑う。
「安心しろ。貴様向けに人格選定したAIだ、不快になるようなことはすまい」
イフルズは何かを言おうと口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。心が期待と困惑の間で揺れ動き、感情の方向性が定まらない。今の自分に夢を叶える資格など――だが殺戮装置として、要求されている凶器は扱えるようにならなければならない。
己を武器として規定していたのに、年相応の少年の顔が出てきてしまいそうになる。それを押し殺そうと、イフルズは感情が曖昧な顔をしかできなかった。
こちらの心情を読み取ったのか、ベリカは紅茶を飲みながら事務的に言葉を投げかける。
「《新人》は卒業だ。コードネームでも考えておけ」




