Ep.07 異国の街角
2012年1月11日、午後10時16分。
「……本当に貼ってあるんだな、これ」
僕はエヴァから送られてきた数枚の写真を拡大した。
写っていたのは、ワルシャワの街角だった。街灯の柱に白い紙が貼られていて、上部にはセミの図柄、その下にはQRコードが印刷されている。紙の端は透明なテープで留められ、少し浮き上がっていた。
ごく普通の街灯だ。少なくとも、世界規模の暗号に関係しているようには見えない。
EWA_N:A friend found it. I'm analyzing the images.
――見つけたのは友人よ。私は画像を解析しているところ。
チャットには、エヴァからの説明が届いていた。
エヴァ・ノヴァク。25歳のポーランド人で、情報セキュリティと資料調査を専門にしているらしい。アレックスの紹介で先ほど話し始めたばかりだが、送られてきた記録を見る限り、かなり几帳面な人のようだった。
写真には撮影日時と場所が添えられ、ポスターの拡大画像も別に用意されている。撮影した友人に頼んで、何度か撮り直してもらったのだという。
僕は最初に公開された座標と照合してみた。
位置は一致している。
「……すごいな」
最初は4chanに投稿された1枚の画像だった。それを解いていった先に、ポーランドの街灯がある。
誰が問題を作ったのかは分からない。けれど、少なくとも誰かが実際にそこへ行って、この紙を貼ったのだ。
エヴァから続けてメッセージが届いた。
EWA_N:The QR code leads to another image. There's an OutGuess payload.
――QRコードの先には別の画像があるわ。OutGuessで隠されたデータも見つかった。
NIL:Can you send me the original file?
――元のファイルを送ってもらえる?
EWA_N:Of course.
――もちろん。
送られてきたファイルを保存し、OutGuessで調べてみる。処理が終わると、新しい英文と電子署名、それから数字の並んだ書籍暗号が現れた。
「……また本か」
今度は最初から使用する本の名前を教えてくれないだろうか。
もっとも、それでは問題にならないのだろうけど。
僕は先に電子署名を確認した。以前取り込んだCicada 3301の公開鍵で検証すると、署名は正常だった。
少なくとも、これまでの出題と同じ秘密鍵で署名されたメッセージらしい。
続いて本文を読んだ。
In twenty-nine volumes, knowledge was once contained.
――かつて、知識は29巻の中に収められていた。
その後には古い物語への言及と、新しい書籍暗号が続いていた。
「29巻……」
知識を収めた本が29巻。
真っ先に思い浮かんだのは百科事典だった。
僕は検索欄へ《encyclopedia 29 volumes》と入力した。いくつかの候補を確認していると、見覚えのある名前が出てきた。
ブリタニカ百科事典。
その第11版は、1910年から1911年にかけて刊行された全29巻の版だった。
「……これかな」
かなり条件に合っている。ただ、29巻というだけで確定するわけにはいかない。暗号の数字が実際に本文と対応するか、確認が必要だろう。
僕はチャットに戻った。
NIL:I think the book might be Encyclopaedia Britannica, 11th edition.
――鍵になるのはブリタニカ百科事典の第11版かもしれない。
エヴァからすぐに返事が届いた。
EWA_N:Why that edition?
――どうしてその版なの?
NIL:It was published in 29 volumes. The clue seems to fit.
――全29巻で刊行されているんだ。手がかりと一致すると思う。
EWA_N:Good candidate. Let me check the catalog records.」
――有力な候補ね。目録を確認してみるわ。
そこへアレックスも加わった。
WALKER:I'll look for digitized text.
――僕は電子化された本文を探してみる。
NIL:Thanks. I'll work on the cipher structure.
――ありがとう。僕は暗号の構造を調べてみる。
返事を送ってから、僕はノートを開いた。
こうして役割を分けて調べるのは、なかなか効率がいい。さっきまで1人で考えていた問題を、3人で同時に調べられるのだから。
書籍暗号の数字を確認していると、少し妙な部分があった。
数字の指定に混じって、素数の計算を指示する文章が挟まれている。
最初の2つの素数の積。
つまり、2と3を掛け合わせた6だ。
「……なんで普通に6って書かないんだろ」
単なる引っかけだろうか。それとも、計算させること自体に意味があるのか。
僕はその部分に印をつけ、ほかの数字と並べてみた。
すぐに答えが出る気配はなかったが、少なくとも調べるべき本の候補は見つかった。
時計を見ると、午後11時を過ぎていた。
明日も学校があることを思い出し、僕はアレックスとエヴァに一言断ってからチャットを閉じた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
2012年1月12日、午前8時41分。
教室へ入ると、僕の席の近くで男子が3人、ゲームの話をしていた。
「第3エリアのボス、強すぎない?」
「昨日4回死んだわ」
「あれ避けられんの?」
僕は鞄を置きながら、思わず耳を傾けた。
知っているゲームだった。しかも、話題になっているボスについては、少し前に攻略方法を調べたことがある。
普段は自分から会話へ入ることが少ないけれど、これなら話せるかもしれない。
「……あのさ」
3人がこちらを見た。
「そのボスって、第2形態の突進が避けにくいやつ?」
「ああ、そうそう」
「それなら、右斜め前に回避した方がいいよ。見た目より当たり判定が狭いところがあって……」
そこまで話したところで、相手の反応を確認した。
「へえ、そうなんだ」
「相沢、詳しいな」
「ま、まあ。ちょっと調べたから」
僕が答えると、1人が友達に向かって「じゃあ今日それ試してみるわ」と言った。そこから話は別の装備のことへ移っていく。
僕はそれ以上割り込まず、席に座った。
以前なら、攻撃判定の仕組みや海外の掲示板で議論されている話まで続けていたかもしれない。でも、相手がそこまで聞きたがっているとは限らない。
少しは学習したつもりだった。
「相沢くん」
今度は横から声がした。
顔を上げると、瀬川さんが立っている。
「……は、はい」
「昨日の古文、先生に出した?」
「あ、出しました。昨日の放課後に」
「そっか。じゃあ大丈夫だね」
瀬川さんは一覧表に印をつけたあと、僕の机に置かれた文庫本を見た。
「もうすぐホームルームだから、それはしまってね」
「……はい」
彼女は軽く頷き、次の席へ向かった。
僕は文庫本を鞄に戻した。
ほかの生徒たちが楽しそうに話しているのを眺めながら、少しだけ考える。
さっきのゲームの話も、別に嫌なことがあったわけではない。けれど、会話が終わると、またいつもどおり自分の席に戻ってきてしまう。
早瀬とはまだ話せるが、ほかのクラスメイトとの距離はまだ遠かった。
教室の向こうでは、桐生さんと本田さんが何かの話で笑っている。誰かが話し始めると、別の誰かが自然に続きを話す。
ああいう会話の入り方は、僕にはよく分からない。
海外の技術者相手なら、難しい暗号の話でも平気なのに。
僕は鞄から次の授業の教科書を取り出した。
ホームルームが始まるまで、あと数分だった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
2012年1月12日、午後8時32分。
夕飯と風呂を済ませてからパソコンを開くと、昨夜のチャットには大量の新着メッセージが溜まっていた。
「……うわ、すごいことになってる」
ワルシャワだけではない。パリ、シアトル、ソウルなど、ほかの都市でもポスターが発見されていた。
僕は写真を順番に確認した。
貼られている場所は街灯だったり壁だったりとさまざまだが、どれにも同じセミのマークが印刷されている。中には雨で紙の端が濡れているものや、少し離れた場所から撮影されたものもあった。
ここまで準備した人間の正体は、いまだに分からない。
しかも、これほど大規模に行われているのに、僕たちはまだ問題の途中にいるらしい。
写真を見比べていると、チャットの書き込みが目に留まった。
Sputnik:Different QR code?
――QRコードが違う?
添付された比較画像を開く。
確かに、セミの図柄は同じなのに、QRコードの模様が一致していなかった。
僕は2つの画像をそれぞれ読み取ってみた。
片方は、昨日エヴァから受け取った書籍暗号へつながる。
しかし、もう片方は別の画像を指していた。
「……こっちは何だ?」
そのファイルも保存し、OutGuessで調べてみる。
出てきたのは、別の英文と数字の組だった。
どうやら、こちらも書籍暗号らしい。
「……2種類?」
チャットでは、すでに何人かが同じことに気づいていた。
片方が偽物なのではないかと言う人もいれば、Cicadaが2つの経路を用意しているのではないかという人もいる。
僕は抽出したメッセージをもう一度確認した。
末尾には電子署名が付いている。
念のため、公開鍵で検証してみた。
結果は正常。
最初のメッセージも、今回のメッセージも、同じCicadaの鍵で署名されていた。
「……じゃあ、両方本物か」
少なくとも、無関係な誰かが適当に作った偽物と決めつける理由はない。
僕はチャットへ戻った。
NIL:Both messages have valid signatures. I think we're supposed to solve both.
――どちらも署名が正しい。両方解くことを想定しているんだと思う。
アレックスから返事が来た。
WALKER:Agreed. Two different book ciphers, then.
――同感だ。つまり書籍暗号が2つあるわけだな。
エヴァも会話に加わった。
EWA_N:The references are completely different.
――参照している作品もまったく違うわ。
僕は2つのメッセージを並べた。
最初のものには、29巻に収められた知識という手がかりがあった。ブリタニカ百科事典の第11版が有力候補になっている。
もう片方には、死を題材にした詩についての記述があった。
その詩は、一度読むと消えてしまうように作られていたらしい。
「……一度読むと消える?」
どういう意味だろう。
昔の詩なら、紙に書かれているか、本として出版されているものだと思っていた。けれど、一度しか読めないという仕組みなら、何らかの電子的な作品なのかもしれない。
そんな作品について、以前どこかで読んだ気がした。
「……何だっけ」
僕は検索欄に英単語を入力した。
詩。
死。
一度読むと消える。
いくつか検索結果が表示されたが、今のところそれらしい作品は見つからない。
僕はその内容をチャットへ共有した。
NIL:The second clue might refer to an electronic poem that erases itself after being read.
――2つ目は、読むと自動的に消える電子的な詩を指しているのかもしれない。
EWA_N:Interesting. I'll look into that.
――面白いわね。調べてみる。
エヴァから返事が届いた。
その少しあと、アレックスから個別メッセージが来た。
WALKER:Ewa is organizing a smaller research group. Interested?
――エヴァが少人数の調査グループを作っている。参加するか?
僕は一度、チャットの参加者一覧を見た。
大きなチャンネルには大勢の解読者が集まっている。情報の量は多いが、同じ質問や推測が何度も流れてきて、必要なものを探すのにも時間がかかっていた。
少人数なら、もう少し落ち着いて議論できるかもしれない。
NIL:Sure. Count me in.
――もちろん。参加するよ。
WALKER:Good. We could use your brain.
――よかった。君の頭脳が必要だからな。
「……そんな大げさな」
そう言いながらも、ちょっと嬉しかった。
すぐに新しいチャットルームへの招待が届いた。
参加者はまだ数人。アレックスとエヴァのほかにも、知らないハンドルネームが並んでいる。
僕が入室すると、エヴァからメッセージが届いた。
EWA_N:Welcome NIL.He is a cryptography specialist invited by Alex
――ようこそ、NIL。アレックスからの紹介。暗号解読のスペシャリストだそうよ。
NIL:He says that about everyone, doesn't he?
――アレックスって、誰にでもそう言ってるんじゃない?
WALKER:Not everyone.
――誰にでもじゃないぞ。
すかさずアレックスから返事が来た。
僕は少し笑ってから、続きを打った。
NIL:I'll do my best.
――できる限り頑張るよ。
それだけでは少し堅苦しい気がして、もう1行付け加えた。
NIL:As long as there are no more ducks.
――もうアヒルが出てこなければね。
EWA_N:No promises.
――それは約束できないわ。
エヴァからの返事に、思わず吹き出した。
なるほど。こういう冗談にも付き合ってくれる人らしい。
チャットでは、さっそく2つの書籍暗号についての情報交換が始まっていた。アレックスはブリタニカ百科事典の本文を調べ、エヴァはポスターの記録と電子的な詩の候補を洗っている。
僕も、それぞれの暗号で使われている数字の形式を比較してみることにした。
画面の端には、ワルシャワの街灯に貼られたポスターの写真が開いたままになっている。
日本からはずいぶん遠い場所だ。そこに住んでいる人間と、昨日まで名前も知らなかった僕が、今は同じ暗号を調べている。
少し妙な気分だった。




