第8話 戻ってきてほしい
王都の裏通りは、侯爵家の庭とは何もかもが違っていた。
オスヴァルトは馬車を降りて、狭い通りを歩いた。石畳は古く、建物の壁には蔦が這い、向かいのパン屋から焼きたての匂いが漂っている。こんな場所に、侯爵家の元妻がいるのか。信じがたかった。
小さな看板が目に入った。「社交相談所」。質素な木の板に、丁寧な字で書かれている。フローラの字だった。三年間、書斎の引き出しで見続けた字だ。見続けていたのに、何が書かれていたかは知ろうとしなかった。
扉を開けた。
部屋は狭かった。机一つ、椅子が三つ、棚に名簿が並んでいる。窓辺に花瓶があり、野の花が一輪挿してあった。侯爵家の庭師が手入れする薔薇ではない。誰かが摘んできた、名前も知らない小さな花だった。
フローラは机の前に座っていた。
痩せた、とは思わなかった。顔色が悪い、とも思わなかった。むしろ、三年間で一番穏やかな顔をしていた。それがオスヴァルトには理解できなかった。侯爵家を出て、小さな部屋で一人で働いている女が、なぜ侯爵家にいた時よりも穏やかなのか。
「——旦那様」
フローラは立ち上がった。驚いた顔をしていたが、すぐにいつもの微笑みに戻った。いつもの微笑み。客を迎える微笑み。三年間、オスヴァルトはあの微笑みの裏側を見ようとしなかった。
「座ってくれ。話がしたい」
「どうぞ」
フローラは客用の椅子を示した。オスヴァルトは座った。侯爵が、元妻の小さな事務所の客用椅子に座っている。滑稽だと思った。だが笑えなかった。
「フローラ、帰ってきてくれ」
前置きはしなかった。前置きをする余裕がなかった。ゾフィーの縁談は破談になり、エミリアの披露宴は失敗し、社交界では噂が回り始めている。だがそれは理由ではない。理由にしてはいけないと思った。
「娘たちも反省している。エミリアも——エミリアも、君がどれだけのことをしていたか、ようやく分かった。マルタからも話を聞いた。朝食のこと。手紙のこと。全て、知った」
フローラは黙って聞いていた。
「私も反省している。君の仕事を見ようとしなかった。任せきりにして、礼も言わなかった。それは——私が間違っていた」
言えた。三年間言えなかったことを、今ようやく言えた。遅すぎることは分かっている。分かっていても、言わなければならなかった。
フローラは少しの間、何も言わなかった。窓の外を見ていた。それから、オスヴァルトに視線を戻した。
「旦那様。そのお言葉をいただけたことは、感謝しております」
丁寧だった。最後まで丁寧な人だった。
「けれど、戻りません」
静かだった。怒りもなく、恨みもなく、悲しみすら薄かった。ただ、決まっていた。フローラの中では、とうに決まっていたのだ。
「三年間、私は毎日、お義母様と呼ばれることを待っておりました」
フローラの声は揺れなかった。
「一度だけでいい。一度だけでも、そう呼んでいただければ、それだけでよかったのです。けれど——」
少しだけ、間が空いた。
「今の私は、誰の母でなくても幸せです」
オスヴァルトは何も言えなかった。反論の言葉はあった。「これから変わる」「娘たちも変わる」「時間をくれ」。だがそのどれもが、三年間繰り返してきた言葉と同じだった。同じ言葉を四年目に言ったところで、何が変わるのか。
「娘さんたちのことは、旦那様が守ってあげてください。今度こそ」
今度こそ、と言われた時、オスヴァルトは初めて目が熱くなった。今度こそ、という言葉が意味するのは、今までは守らなかった、ということだ。娘たちだけではない。フローラのことも。
「すまなかった」
「いいえ。もう、いいのです」
フローラは微笑んだ。あの微笑みだった。三年間見続けた、穏やかな微笑み。だがその奥にあるものが、今は違って見えた。疲労ではなかった。諦めでもなかった。静かな、解放だった。
オスヴァルトは立ち上がった。言うべきことは全て言った。言い足りないことがあるとすれば、それは三年間に言うべきだったことで、今さら言っても届かない。
扉を閉める前に、もう一度だけ部屋を見た。小さな机、三つの椅子、窓辺の花瓶。侯爵家の広い書斎よりも狭い。だがこの部屋には、フローラの名前で呼ばれる仕事がある。
扉が閉まった。
◇
オスヴァルトが去った後、フローラはしばらく動けなかった。
椅子に座ったまま、自分の手を見ていた。震えてはいなかった。泣いてもいなかった。ただ、胸の奥に重いものが沈んでいた。正しいことをした。正しいと分かっている。それでも、三年間過ごした家の匂いが、オスヴァルトの上着から微かに漂ってきた時、胸が軋んだ。
夕方、扉が開いた。コンラートだった。
手に小さな花束を持っていた。フローラが好きだと伝えた覚えのない花が、そこにあった。
「これは——」
「誕生日だろう。おめでとう」
フローラは目を見開いた。自分の誕生日を、ここ数年、誰にも祝われていなかった。侯爵家では、フローラの誕生日は行事の一覧に載っていなかった。
「どうして私の好きな花が分かったのですか」
コンラートは少し笑った。
「君は他人の好みを全部覚えるくせに、自分のことを話す時だけ目を逸らす。逸らした方向にいつも花がある。先日、窓辺のあの花を見ていた時の顔が、一番柔らかかった」
フローラは花束を受け取った。名前も知らない野の花だった。侯爵家の庭には咲かない、道端に咲く小さな花。それを、この人は覚えていた。
「今日、侯爵家の旦那様がいらしたのだろう」
フローラは驚いた。コンラートは穏やかに続けた。
「向かいのパン屋の前で、立派な馬車が停まっていた。この通りには似合わない馬車だ」
「……ええ。戻ってきてほしいと」
「そうか」
コンラートはそれだけ言って、黙った。聞かなかった。何と答えたのか。戻るのか。断ったのか。何も聞かなかった。
代わりに、こう言った。
「戻りたいなら、戻っていい。俺は待つ」
フローラはコンラートを見た。
「待つのは得意だ。ただし——」
コンラートは窓の外を見た。夕日が裏通りの屋根を染めていた。
「君がここにいたいなら、待たなくていい」
戻ってこい、ではなかった。ここにいろ、でもなかった。選ばせている。オスヴァルトが「帰ってきてくれ」と言ったのとは、言葉の形が違っていた。
「コンラート様は、怖くないのですか。私が戻ると言ったら」
「怖い。だが、君の選択を奪う方がもっと怖い」
フローラは花束を見た。小さな花。名前も知らない花。けれど、自分が一番柔らかい顔をしていた時の花。この人は、フローラの柔らかい顔を知っている。侯爵家では、誰も知らなかった。
「少し、聞いていただけますか」
フローラは頷いた。
「妻が病の時、俺は仕事を優先した。領地の水路工事が遅れていて、そちらに時間を取られた。妻はいつも笑って送り出してくれた。大丈夫よ、と。——大丈夫ではなかった。最期の一ヶ月、もっとそばにいればよかったと、今でも思う」
コンラートの声は静かだった。
「君と違って、俺は大切な人の裏方をできなかった男だ。だから君がどれだけのことをしてきたか、分かるつもりでいる。そして、それを当然だと思ったことは一度もない」
フローラの目に、涙が浮かんだ。侯爵家を出る時も、オスヴァルトに離縁を告げた時も、泣かなかった。マルタとの別れでも、泣かなかった。
この人の前では、泣けた。
「戻りません」
フローラは涙を拭いて、笑った。微笑みではなかった。三年間の微笑みとは違う、少しだけ不恰好な笑顔だった。
「ここにいます」
コンラートは何も言わず、小さく頷いた。
フローラは初めて、自分のために誰かの隣を選んだ。




