第7話 何も守らなかった男
ライナー伯爵家からの手紙は、短かった。
オスヴァルトは執務室の机の上で、それを三度読んだ。三度読んでも、書いてあることは変わらなかった。
『オスヴァルト侯爵閣下
ゾフィー様との縁談につきまして、誠に遺憾ではございますが、お断り申し上げます。フローラ様がいらっしゃらない家に、息子が縁付くことに、家内が安心できないと申しております。
フローラ様のお手紙により、ゾフィー様のお人柄については十分に存じておりました。しかし、そのお手紙を書いてくださった方がもうおられないのであれば、今後のお付き合いに不安を覚えます。
何卒ご理解賜りますよう、お願い申し上げます。
ライナー伯爵 フリードリヒ』
フローラ様がいらっしゃらない家。
その一文が、オスヴァルトの胸に刺さった。刺さったというより、ようやく届いた。フローラが出て行って三週間、オスヴァルトはずっと「すぐ戻るだろう」と思っていた。頭を冷やしたいのだろう。少し疲れたのだろう。落ち着けば帰ってくる。そう思うことで、自分の執務室から出なくて済んでいた。
破談だった。ゾフィーの縁談が、正式に破談になった。
オスヴァルトは椅子の背にもたれた。天井を見上げた。この執務室の天井を、フローラは何度見ただろうか。離縁を申し出た日も、この天井の下だった。あの時、フローラの手が震えていたことを、オスヴァルトは思い出した。今になって、思い出した。
あの時は気づかなかった。フローラの手元を見る習慣が、自分にはなかった。
午後、社交界の知人から不快な報せが届いた。
オスヴァルトが出席した領主会議の席で、隣に座った男爵が世間話のように言ったのだ。
「お宅の後妻殿、お辞めになったそうですな。聞くところによると、お嬢様方と折り合いがつかなかったとか」
折り合いがつかなかった。その言い方は正確ではない。だがオスヴァルトには訂正する言葉がなかった。追い出した、とは言えない。出て行った、では実態を伝えない。離縁した、と言えば「娘たちとの板挟みに耐えかねて妻を切った男」と見られる。
「後妻を追い出した家」——その噂がすでに回っていることを、オスヴァルトは男爵の目の光で知った。同情ではない。品定めだった。この侯爵家は、信用できるのか。娘を嫁として引き込んで大丈夫なのか。商取引の相手として問題ないか。そういう冷静な計算が、あの穏やかな目の奥で回っている。
フローラがいた頃、こうした視線を受けたことはなかった。フローラがいた頃は——フローラがいた頃のことを、オスヴァルトはほとんど覚えていなかった。宴は滞りなく進み、手紙は期日通りに届き、朝食は毎朝整い、季節の贈答は適切に届いた。問題がなかったから記憶に残らなかった。問題がないことを当然だと思っていた。
当然ではなかった。誰かがそうしていただけだった。
ゾフィーに破談を伝えたのは、その日の午後だった。
オスヴァルトはゾフィーの部屋を訪ねた。ゾフィーは窓辺の椅子に座り、お茶を淹れていた。一人で飲むお茶だった。カモミールの香りがした。
「ゾフィー、ライナー伯爵家から手紙が来た。縁談は——」
「破談、ですか」
ゾフィーの声は、驚くほど静かだった。
「ヘルミーネ様からのお手紙が途絶えた時から、こうなるだろうと思っていました」
ゾフィーは茶杯を持つ手を膝に下ろした。手は震えていなかった。だがその目は赤かった。何日も泣いた後の赤さだった。
「フローラ様の手紙がなければ、ヘルミーネ様は最初から私を受け入れてくださらなかったのですね。私の人柄ではなく、フローラ様の手紙が——」
「そんなことは——」
「分かっています、お父様。分かっていますから」
ゾフィーは笑おうとした。笑えなかった。唇が震えて、形にならなかった。
「私は、フローラ様が書いてくださった手紙の中のゾフィーに、なれなかったのです。穏やかで、お茶が上手で、花を摘む——あの手紙の中の私は、フローラ様が見てくださった私で。私が自分で見せられた私ではなかった」
ゾフィーは茶杯を置いた。カモミールが冷めていた。
オスヴァルトはゾフィーにかける言葉を持たなかった。「いずれいい縁談がある」とは言えなかった。そういう言葉を三年間、フローラに対して使い続けた結果が、今だ。
夕方、オスヴァルトはフローラの書斎に入った。
書斎は片付いていた。エミリアが披露宴の資料を持ち出した後も、引き出しの中には別の書類が残されていた。オスヴァルトがこの部屋に入ったのは、フローラが去ってから初めてだった。三年間、一度も入ったことがなかった。
妻の書斎に、一度も足を運ばなかった夫。
その事実を、今まで異常だとすら思わなかった。
引き出しを開けた。「エミリア様 披露宴関連」のラベルの下に、さらに書類があった。三年分の季節行事の記録。年始の挨拶先リスト。弔事の対応履歴。贈答品の送付記録。全てフローラの字で、日付順に整理されていた。
別の引き出しを開けた。縁談資料が入っていた。三人分。エミリア、ゾフィー、アンナ。それぞれの縁談相手の家の情報が、詳細に記録されている。家風、当主の性格、母親の好み、食事の禁忌、宗教的慣習、過去のスキャンダル。
付箋が貼られていた。何枚も、何枚も。
「お嬢様方には内緒で」
その言葉が、繰り返されていた。
「エミリア様には内緒で、ヴィクトル様の母君にご挨拶の手紙を出しました」
「ゾフィー様には内緒で、ライナー伯爵夫人にゾフィー様のお人柄をお伝えしました」
「アンナ様には内緒で、デビュー用の手袋を仕立てに出しました」
内緒で。内緒で。内緒で。
オスヴァルトは資料を一枚ずつ机に並べた。並べるほどに、机が埋まった。三年分の手紙の控え、行事の記録、縁談の調査書、花の注文書、料理の指示メモ。一人の女がこれだけの仕事をしていた。一人で。毎日。誰にも知られずに。
知られずに、ではない。知ろうとすれば知れたのだ。フローラは毎晩この書斎で働いていた。灯りは屋敷で最後に消えていた。それを見ていたはずだ。見ていて、問わなかった。何をしているのかと聞かなかった。聞く必要がないと思っていた。できた妻だから、任せておけばいい。大人だから、分かってくれる。
分かっていたのはフローラの方だった。この家では何をしても認められないと。それでもやり続けたのは、誰かに認められるためではなく、フローラ自身の誠実さがそうさせたのだ。
付箋の一枚に、小さな追記があった。
「今日、エミリア様に花の案を見ていただこうとしましたが、却下されました。次は別の形で提案します」
次は別の形で。
却下されてもやり直す。拒絶されても別の方法を探す。三年間、フローラはそれを繰り返していたのか。この書斎で、一人で。
オスヴァルトは自分の三年間を振り返った。娘たちとフローラの間で板挟みになっていると思っていた。思っていただけだった。板挟みというのは、両方に向き合っている人間が使う言葉だ。オスヴァルトはフローラに向き合っていなかった。「いずれ分かってくれる」と言い続けて、娘たちを諭すことも、フローラを守ることもしなかった。
不作為。何もしなかったこと。
娘たちはフローラを拒絶した。それは加害だ。だがオスヴァルトの罪は加害ではない。何もしなかったことだ。妻が毎晩一人で働いているのを見て見ぬふりをし、娘たちが妻を「偽物の母」と呼ぶのを止めず、「いずれ分かる」と先送りにし続けた。
三年間、一度も「ありがとう」と言わなかった。
その一言を口にする機会は、毎日あった。毎朝の朝食の席で。毎晩の書斎の灯りを見た時に。手紙が滞りなく届いた時に。宴が問題なく終わった時に。毎日あった機会を、毎日見送った。
言わなかったのではない。言う必要がないと思っていた。それが最も残酷な怠慢だった。
資料の束の中から、一枚のメモが落ちた。
「旦那様へ 三年間お世話になりました。引き出しに全てお残ししてあります。ご確認ください。——フローラ」
宛名が「旦那様」だった。最後まで、丁寧だった。最後まで、怒りの痕跡がなかった。それが一番痛かった。怒ってくれた方がまだ良かった。怒りがあれば、まだ期待があったということだ。怒りすらないということは——もう、何も期待されていないということだ。
オスヴァルトは三年分の資料を抱えて座り込んだ。
彼は何も知らなかった。知ろうとしなかった。それが一番の罪だった。




