第6話 手袋
アンナはあの日、カーテンを閉じた。
フローラの馬車が門を出ていく時、窓から見ていた。見ていたのに、手を振らなかった。声もかけなかった。カーテンを引いて、それきりにした。
十五歳の自分に、それ以外の選択肢があったのかは分からない。姉たちがフローラを嫌っている家で、一人だけ手を振ることはできなかった。できなかったのか、しなかったのか。その違いを考えるたびに、胸のどこかが痛んだ。
フローラがいなくなって一月近くが過ぎた。
姉エミリアの披露宴が失敗に終わったことは、屋敷中が知っていた。ゾフィーが自室で泣いていたことも。父が書斎に閉じこもっていることも。アンナはそのどれにも参加しなかった。参加しないことが、この家でのアンナの居場所だった。
その日、アンナはクローゼットを整理していた。社交界デビューが近い。ドレスはあるが、小物が足りない。扇子、靴、髪飾り——そして、手袋。
クローゼットの奥に、見覚えのない包みがあった。
白い紙に包まれ、細いリボンがかけられている。名前は書かれていない。手紙も添えられていない。ただ、包みの形が手袋だと分かった。開ける前から分かった。
リボンをほどいた。
白い手袋だった。柔らかい革に、繊細な刺繍が施されている。社交界デビューにふさわしい、上品で控えめな手袋。アンナの手に合わせた寸法だった。既製品ではない。仕立てたものだ。
アンナの手は小さい。既製品では指先が余る。それを知っている人は家族の中にもいなかった。
いや、一人だけいた。
いつ採寸したのだろう。アンナはフローラと二人きりになることを避けていた。話しかけられても短く答え、目を合わせないようにしていた。それでもフローラはアンナの手の大きさを知っていた。
包みには手紙がなかった。
何か書いてあれば、良かったと思った。「アンナ様のために」でも、「デビューが楽しみです」でも、何でもいい。一言でもあれば、それを読んで泣くことができた。
手紙がないのは、フローラがいつもそうだったからだ。何も言わずに何かを残す。朝食の指示も内緒で。縁談の手紙も内緒で。この手袋も、内緒で。感謝を求めない人だった。感謝を求めないのではなく、求めても届かないことを知っていた人だった。
アンナは手袋を両手で持ったまま、ベッドに座った。目の奥が熱くなった。
十歳で母を亡くした。姉たちよりも長く母を求めた。誰かに「大丈夫よ」と言ってほしかった。頭を撫でてほしかった。フローラが来た時、本当は嬉しかった。嬉しかったのに、姉たちの手前、喜ぶことができなかった。喜べば裏切りだと思った。死んだ母を忘れた子だと思われると怖かった。
だからアンナはフローラに近づかなかった。近づかないことで、母への忠誠を守った。
守ったのは忠誠だったのか。それとも、自分の臆病さだったのか。
手袋は温かくなかった。革は冷たいままだった。けれどその冷たさの中に、採寸のためにアンナの手袋をこっそり借りた夜の、フローラの指先の温度がある気がした。
夕食の席で、料理長マルタが三姉妹の前に立った。
マルタが食堂に来ること自体が異例だった。普段は厨房から出ない人だ。エミリアが怪訝な顔をし、ゾフィーが目を伏せた。アンナは手袋をスカートのポケットに入れたまま座っていた。
「お嬢様方にお伝えしたいことがございます」
マルタの声は落ち着いていたが、固かった。使用人が主人一家に意見することへの躊躇と、それでも言わねばならないという覚悟が、その声の固さに表れていた。
「フローラ様は、毎朝五時に厨房にいらしていました」
エミリアの眉が動いた。ゾフィーが顔を上げた。
「お嬢様方の体調を見て、その日の朝食を私と一緒に考えてくださいました。エミリア様が夜更かしをされた朝は消化の良いものを。ゾフィー様のお腹の調子が悪い日はスープを。アンナ様には——」
マルタの声が、少しだけ震えた。
「アンナ様には、甘いものがあると笑顔になりますからと。毎朝そうおっしゃって」
食堂が静かになった。
エミリアは何も言わなかった。ゾフィーの目にまた涙が浮かんでいた。アンナはポケットの中の手袋を握りしめた。
「三年間、毎朝です。一日も欠かさず。お嬢様方には内緒で、と——いつも、そうおっしゃっていました」
内緒で。
その一語が、アンナの胸を貫いた。
内緒にしていたのは、知られれば拒絶されるからだ。朝食を設計していたことが三姉妹に知られれば、「あの人が決めたものなんて食べない」と言われる。フローラはそれを分かっていた。分かっていて、毎朝五時に起きていた。拒絶されると分かっている相手のために。
マルタは一度だけ深く頭を下げ、厨房に戻った。
食堂に残された三人は、しばらく何も言わなかった。アンナはポケットの中で手袋を握ったまま、冷めていく夕食を見つめていた。
甘いものがあると笑顔になる。
その通りだった。アンナは甘いものが好きだ。毎朝の食卓に、小さなジャムの小皿や蜂蜜入りのパンが添えられていたことを、今まで当然のことだと思っていた。誰かが選んでくれていたとは思わなかった。
当然のことなど、この世にはない。
誰かが黙って差し出していたものを、当然だと思って受け取っていただけだ。
◇
コンラートが二度目に社交相談所を訪れたのは、最初の訪問から五日後だった。
「今度は領地の収穫祭で近隣の領主を招く段取りを相談したい」
フローラは名簿を開き、近隣領主の家族構成と交際歴を確認しながら、席順と贈答品の助言をした。コンラートは前回と同じように、一つ一つ書き留めた。メモを取る手つきは丁寧で、字はやや大きかった。実務家の字だった。
助言が終わった後、コンラートはペンを置いて言った。
「不思議だな。こういった段取りを、これほど正確にこなせる人が、なぜ侯爵家にいなかったんだ」
フローラは少し黙った。
「いなかったのではありません。持っていたことに、気づいていなかっただけです」
自分で言って、少し苦い味がした。苦いけれど、もう痛くはなかった。痛くないことに驚いた。
コンラートは腕を組んだ。
「それは持ち主の責任ではない。気づかなかった側の損失だ」
短い言葉だった。慰めでも同情でもなかった。ただ事実を事実として言っただけだった。フローラの過去を否定せず、しかし「君のせいではない」と一行で伝える言葉だった。
フローラは「ありがとうございます」と言おうとして、やめた。代わりに「そうかもしれません」と答えた。
コンラートが帰った後、フローラは自分の手を見た。爪の短い、実務の手。この手の仕事を、最初から「仕事」として見てくれる人がいる。侯爵家では三年間、誰もそうしなかった。
損失だ、とあの人は言った。
損失という言葉を、フローラは自分に使ったことがなかった。自分がいなくなることは、迷惑か、不便か、あるいは何の影響もないか。そのどれかだと思っていた。損失だと言われたのは、初めてだった。
窓の外では、王都の夕暮れが建物の屋根を橙色に染めていた。侯爵家の書斎から見る夕暮れとは違う。こちらのほうが、少しだけ温かかった。
その夜、アンナは自室の机に便箋を広げた。
フローラに手紙を書きたかった。ありがとうと言いたかった。手袋のこと。朝食のこと。三年間のこと。書きたいことはたくさんあった。
ペンを取って、宛名を書こうとした。
書けなかった。
フローラがどこにいるのか、知らなかった。王都に行ったらしいとは聞いたが、住所は誰も知らない。使用人に聞いても首を振られた。
アンナは手袋を胸に抱いた。フローラに手紙を書きたかった。だが、宛先を知らなかった。三年間、同じ屋敷にいたのに。




