第5話 届かなくなった手紙
ゾフィーは手紙を読むのが苦手だった。
正確に言えば、手紙を書くのが苦手だった。何を書いていいのか分からない。相手が何を求めているのか分からない。言葉を選ぶたびに、これで合っているのかと不安になる。だから、手紙はいつも姉のエミリアに相談してから書いた。姉が「こう書きなさい」と言えば、そう書いた。
自分で決めることが、ゾフィーにはできなかった。できないのではなく、しなかった。決めなければ間違えない。間違えなければ誰にも責められない。十七年間、そうやって生きてきた。
その日、一通の手紙が届いた。
差出人はライナー伯爵夫人。ゾフィーの縁談相手の母親だった。ゾフィーは封を開けた。丁寧な字で、短い文面が書かれていた。
『ゾフィー様
先月よりフローラ様からのお便りが途絶えておりますが、お変わりありませんでしょうか。フローラ様のお手紙をいつも楽しみにしておりましたので、少々心配しております。ゾフィー様のお加減も気がかりです。お返事をいただければ幸いです。
ライナー伯爵夫人 ヘルミーネ』
ゾフィーは手紙を二度読んだ。
フローラ様からのお便り。
フローラが、ライナー伯爵夫人に手紙を書いていた。ゾフィーは知らなかった。縁談相手の母親と、あの人が文通していたことを。いつから。何を。どうして。
ゾフィーはフローラの書斎に行った。姉が披露宴の資料を引き出しから出した後、書斎はほとんど手つかずのまま残されていた。「ゾフィー様 縁談関連」と書かれた引き出しを開けた。
手紙の束が入っていた。
薄い桃色のリボンで綴じられた、十数通の手紙。全てフローラの字だった。控えを取っていたのだ。相手に送った手紙の写しを、一通ずつ。
一番古い手紙の日付は、二年前だった。ゾフィーの縁談が持ち上がった直後からだ。
『ヘルミーネ様
初めてお便り差し上げます。グリューネヴァルト家のフローラと申します。このたびゾフィーの縁談のお話をいただき、心より嬉しく思っております。ゾフィーは少し内向的なところがございますが、穏やかで思いやりのある娘です。お茶を淹れるのがとても上手で、特にカモミールの入れ方は、私が教わりたいほどでございます』
ゾフィーの目が、「お茶を淹れるのがとても上手で」という一行に止まった。
知っていたのか。
ゾフィーが紅茶を淹れるのが好きなことを、あの人は知っていた。ゾフィーはフローラにお茶を淹れたことがない。姉がフローラを嫌っていたから、ゾフィーもフローラと一緒にお茶を飲んだことがなかった。一度もない。
なのに、あの人はゾフィーのお茶の淹れ方を知っていた。どこかで見ていたのだ。ゾフィーが一人で、庭の東屋でお茶を淹れている姿を。見ていて、覚えていて、手紙に書いた。ゾフィーの長所として。
次の手紙を読んだ。
『ゾフィーは繊細な子ですので、大きな宴よりも少人数のお茶会のほうが力を発揮できるかと思います。もしお許しいただけるなら、最初のご挨拶はお茶会の形にしていただけますと幸いです』
次の手紙。
『先日、ゾフィーが庭の花を摘んで小さな花束を作っておりました。こうした細やかなところが、きっとヘルミーネ様のお目にも留まるかと思います』
次の手紙。
『ゾフィーは自分の良いところを自分で見つけるのが苦手な子です。けれど、それは良いところがないのではなく、自分を信じることが怖いだけなのだと思います。どうか、長い目で見てやってくださいませ』
ゾフィーは手紙の束を膝に置いた。
文字が滲んだ。涙だと気づくのに、少し時間がかかった。
あの人はゾフィーのことを、ゾフィー自身よりも丁寧に見ていた。ゾフィーが自分の長所だと思ったことのないものを、長所として相手に伝えていた。お茶が好きなこと。花を摘むこと。繊細なこと。自分を信じるのが怖いこと。全部、ゾフィーがフローラに一度も話したことのないことだった。
姉が「フローラは敵よ」と言った。ゾフィーはそれに従った。自分で考えなかった。姉が嫌いなら嫌いな人。姉が正しいなら正しいこと。それがゾフィーの十七年間だった。
けれど、姉が嫌っていたあの人は、ゾフィーの縁談を二年間、手紙一枚ずつで守っていた。
ゾフィーはヘルミーネ夫人への返事を書こうとした。便箋を出し、ペンを取った。
何も書けなかった。
フローラが二年間かけて築いた信頼を、ゾフィーの一通で繋ぎ止められるはずがなかった。あの人の手紙は丁寧で、穏やかで、怒りの跡がどこにもなかった。「母と呼ばれなかった女」が、呼ばれなかったまま、これだけのことをしていた。
ゾフィーは手紙の束を胸に抱いた。フローラの字は、いつも丁寧で穏やかだった。怒りの跡は、どこにもなかった。
◇
王都の裏通りに面した小さな部屋は、社交相談所と呼ぶには質素だった。
机が一つ、椅子が三つ、棚に並べた社交界の名簿と贈答品の目録。フローラが侯爵家から持ち出したものは旅行鞄一つだけだったが、頭の中にある知識は持ち出す必要がなかった。百二十三家の名前、食事の禁忌、家同士の関係、贈り物の適切な時期。三年間で蓄えたものが、全てここにある。
看板を出して三日目。客は来なかった。四日目も来なかった。
五日目の午後、扉が開いた。
男だった。落ち着いた茶髪に穏やかな目。質素だが仕立ての良い上着。手は日に焼けていて、書類を扱う手というより、畑や馬に触れる手だった。
「社交相談所、というのはここかな」
「はい。いらっしゃいませ」
フローラは立ち上がった。三年間の癖で、完璧な微笑みが顔に出た。客を迎える微笑み。相手を安心させる微笑み。自分の感情を隠す微笑み。
男は名乗った。コンラート・ヴァインガルテン子爵。隣領の領主で、三年前に妻を亡くしたという。
「亡き妻の実家と関係を保ちたいのだが、贈答の作法に自信がない。妻が生きていた頃は全て妻がやっていたから」
フローラは頷いた。妻がやっていた。その言葉に、かすかな痛みが走った。妻がやっていたことを、妻がいなくなって初めて困る男。どこかで聞いた話だった。
けれど、この人は違った。
「妻に任せきりだったことを、今さら恥じている。だから、自分でできるようになりたい」
恥じている、と言った。任せきりだったことを。その一言が、フローラの知る誰とも違っていた。
相談は一時間で終わった。コンラートはフローラの助言を一つ一つ書き留め、質問し、確認した。帰り際に、料金を払いながら言った。
「こういうことが分かる人は珍しい。またお願いしてもいいか」
「もちろんです」
コンラートが去った後、フローラは椅子に座ったまま少しの間動けなかった。
お金を払ってでも、自分の助言を欲しいという人がいる。
三年間、無償で、感謝もなく、名前も呼ばれずに続けてきた仕事を、正当な対価で求める人がいる。
それが嬉しいと感じる自分に驚いた。驚いて、少しだけ泣きそうになった。泣かなかった。代わりにお茶を淹れた。
棚にしまっていた茶葉を出し、湯を沸かし、丁寧に蒸らした。カモミールの柔らかい香りが、小さな部屋に広がった。
フローラは王都の小さな部屋で、初めて自分のためにお茶を淹れた。
三年間、誰かのためにしか淹れたことがなかった。




