第4話 壊れた宴
披露宴の朝、エミリアが最初に気づいたのは花の色だった。
広間に運び込まれた花は赤い薔薇だった。亡き母が好きだった花。エミリアが自分で花屋に注文した花。この宴は自分の婚約を祝う場であり、母の記憶を継ぐ場でもある。赤い薔薇がふさわしい。そう思って選んだ。
——あの人が用意していた白百合は、使わなかった。
広間は華やかだった。少なくともエミリアの目にはそう映った。テーブルクロスは白、燭台は銀、花は赤。席順はあの人の案を参考にしつつ、エミリア自身が一部を変えた。窓際の良い席にはヴィクトルの家族を。隣にはミュラー家を。ミュラー家は古い名家だから、ヴィクトルの家との会話も弾むだろう。
そう思った。
客が入り始めたのは正午だった。
最初の異変は、ミュラー家の当主が席を確認した瞬間だった。隣席の名札を見て、顔が強張った。エミリアのところへ足早に歩いてくる。
「エミリア嬢、少々よろしいか。我が家の隣はシュトラウス家になっているが——」
「はい。お二家とも格の高いお家ですし、ヴィクトルの家族のお近くが良いかと」
「……三年前の狩猟祭の件は、ご存じないのかな」
知らなかった。
あの人の席順表には書いてあった。『ヴァイスベルク家とホルツマン家は隣にしないこと』——いや、違う。ミュラー家とシュトラウス家のことは書いてあっただろうか。エミリアは資料を全て読んだつもりだった。つもりだった、というのは、百二十三家分の注記の全てを頭に入れることが、実際にはできなかったということだ。
ミュラー家の当主は席を替えてほしいと言った。エミリアは頷き、使用人に指示を出した。席を一つ動かすと、隣の席も動かさなければならない。隣の隣も。あの人の席順表が、なぜあれほど複雑に線で結ばれていたのか、今なら少しだけ分かる。一つの席は、一つの関係ではない。全体の網目の中の一点だ。
一点を動かせば、網目が歪む。
席の調整に追われている間に、料理が運ばれ始めた。
二つ目の異変は、前菜だった。
エミリアは献立をあの人の案からほぼ変えなかった。ただ、前菜にだけ手を加えた。母が好きだった牡蠣のグラタンを一品加えたのだ。母の味を披露宴に入れたかった。それは娘として当然の気持ちだと思った。
ヴィクトリア夫人の前に、牡蠣のグラタンが置かれた。
夫人の手が、一瞬だけフォークから離れた。
それだけだった。それだけの動作を、エミリアは見逃さなかった。見逃さなかったのは、あの手帳の記述が頭に残っていたからだ。『ヴィクトル様の苦手な食べ物:牡蠣』——ヴィクトルの苦手な食べ物として書かれていた。母親については、書いてあっただろうか。
あの人の手帳には、『献立から完全に除外すること。ソースにも使用しないこと』と書かれていた。ヴィクトルだけでなく、ヴィクトリア夫人も牡蠣を召し上がれないのだ。幼少期にヴィクトルが当たったのは、おそらく体質の遺伝だ。あの人はそこまで調べていた。
エミリアは立ち上がりかけた。だが遅かった。ヴィクトリア夫人はすでに皿を端に寄せ、何事もなかったように隣の客と会話を続けていた。几帳面で品のある人だった。不快を表に出さない人だった。
だからこそ、あの人は夫人と気が合ったのだろう。
エミリアは料理長マルタを呼んだ。
「ヴィクトリア夫人の前の皿を下げて。すぐに」
マルタは頷いたが、その目がエミリアを見ていた。責めるような目ではなかった。ただ、「フローラ様ならこうはならなかった」と言いたげな目だった。マルタは何も言わなかった。使用人は主に意見しない。意見しないことが忠誠だと教えられている。
あの人も、そうだった。
三つ目の異変は、花だった。
赤い薔薇は華やかだったが、ヴィクトリア夫人がそっと視線を逸らしたことにエミリアは気づいた。宴の半ばで、夫人の侍女がエミリアの侍女リーゼに小声で尋ねていた。
「以前フローラ様がお手配くださった時は、白百合でしたわね。夫人はとても喜んでおいででしたのに」
リーゼがエミリアにそれを伝えた時、エミリアは何も言えなかった。
白百合。あの人が用意していた花。ヴィクトルの母が庭に植えている品種と同じ花。あの人はヴィクトリア夫人の庭の花まで知っていた。知っていて、それに合わせた花を用意していた。エミリアが見もせずに退けた、あの花の案の中に。
席順の失敗は恥だった。料理の失敗は危険だった。花の失敗は——花の失敗は、一番静かで、一番深かった。花は間違えても誰も死なない。けれど、花を間違えたということは、相手を見ていなかったということだ。
エミリアは、ヴィクトルの家族を見ていなかった。あの人が見ていたものを。
宴の後半、エミリアは広間の隅に立っていた。
客たちの会話が聞こえる。聞こえないふりをしても、耳に入ってくる。
「以前のグリューネヴァルト家の宴は、もっと行き届いていたけれど」
「後妻殿がお辞めになったそうよ。お嬢様方と折り合いがつかなかったとか」
「まあ。それでこの有様?」
扇の陰で交わされる声は小さかったが、エミリアの耳には十分な大きさだった。客たちはエミリアではなく、エミリアの後ろにいたはずの人の不在を見ていた。
ヴィクトルが近づいてきた。婚約者の顔は穏やかだったが、目の奥に困惑があった。
「エミリア、母が少し気分を悪くしている。牡蠣は——母も苦手なんだ。伝えていなかったかな」
伝えていた。あの人の手帳に書いてあった。エミリアが読まなかっただけだ。
「ごめんなさい、ヴィクトル。私の確認不足で」
「いや——以前はこういうことはなかったから、少し驚いただけだ」
以前は。その言葉の主語が誰なのか、ヴィクトルは言わなかった。言わなくても分かった。
エミリアの手が震えた。握りしめたグラスの中で、白ワインではなく赤ワインが揺れていた。乾杯に赤ワインを出したことすら、間違いだったのだ。ヴィクトル家では赤は不吉とされる。それも手帳に書いてあった。
一つの失敗ならまだ取り繕える。二つでも言い訳ができる。だが席順も、料理も、花も、酒も、全てが間違っていた。全てを正しくしていた人がいて、その人をエミリアが追い出した。この宴にいる全員が、それを知り始めている。
エミリアは広間の壁にもたれた。足が震えていた。笑顔を保つ顔の筋肉が痛かった。十九年間、泣かずに済ませてきた場面はいくつもあった。だが今日ほど、泣いてはいけない場所で泣きそうになったことはなかった。
宴が終わりに近づいた頃、ヴィクトリア夫人がエミリアのそばに来た。
夫人は穏やかな顔をしていた。怒っている様子はなかった。怒っていないことが、かえってエミリアの胸を締めつけた。怒ってくれた方がまだ楽だった。怒りには謝罪で返せる。穏やかな失望には、返す言葉がない。
「エミリア様、本日はおめでとうございます」
「ありがとうございます、ヴィクトリア様」
「お忙しい中、お一人でご準備なさったのですね。大変でしたでしょう」
その言葉が、労いなのか皮肉なのか、エミリアには分からなかった。おそらく、どちらでもあった。
「以前の宴では、フローラ様が全てお手配くださいましたの。お花も、お席も、お料理も。一度お目にかかった時に、こちらの事情を驚くほど丁寧に聞いてくださって」
エミリアは頷くしかなかった。
「それで——フローラ様は、いかがなさったの? 最近お手紙も途絶えてしまって」
「フローラは——」
言葉が詰まった。追い出した、とは言えない。出ていった、と言えば嘘になる。離縁した、と言えば婚約相手の家に不安を与える。どう言えば正解なのか分からなかった。あの人がいれば、こういう時にどう言えば角が立たないか、知っていたのだろう。
「少し、家を離れております」
ヴィクトリア夫人は微笑んだ。微笑みの奥に、何かを見定めるような光があった。
宴の後、客が引き上げていく中で、ヴィクトリア夫人がもう一度エミリアのそばに来た。エミリアの手を取り、優しく握った。その手は温かかった。温かさが、痛かった。
「エミリア様。一つだけ、お願いしてもよろしいかしら」
夫人の声は穏やかだった。穏やかで、丁寧で、そして取り返しのつかない響きがあった。
「フローラ様に、お戻りいただけませんこと?」
エミリアは、何も答えられなかった。
答えられなかったのは、その言葉が残酷だったからではない。
その言葉が、正しかったからだ。
広間には赤い薔薇が残っていた。母が好きだった花。エミリアが選んだ花。誰のためでもない花が、誰にも喜ばれないまま、宴の終わった広間で静かに萎れ始めていた。




