第3話 あの花はどこに
あの人がいなくなって三日目の朝、エミリアは初めて書斎の扉を開けた。
開けたのは、必要に迫られたからだ。婚約披露宴まであと二週間と四日。招待状の宛名リストを確認しなければならない。それだけのことだった。あの人がいなくても、披露宴は開ける。エミリアはそう思っていた。
書斎は片付いていた。
片付きすぎていた。机の上には何もない。ペン立ても、インク壺も、書きかけの手紙も。三年間誰かが毎晩ここで働いていた痕跡が、きれいに消されている。まるで、最初から誰もいなかったかのように。
引き出しを開けた。
三つのラベルが、丁寧な字で貼られていた。「エミリア様 披露宴関連」「ゾフィー様 縁談関連」「アンナ様 デビュー関連」。
エミリアは「エミリア様」と書かれた引き出しに手をかけた。自分の名前が、あの人の字で書かれていることに、小さな違和感があった。あの人がエミリアの名前を書いたものを、エミリアは見たことがなかった。見ようとしなかった。
引き出しの中には、書類が順番に並んでいた。招待状の宛名リスト。花の手配書。席順表。料理の献立案。楽団との契約書。当日の進行表。付箋が貼られ、注意書きが添えられている。
『ヴァイスベルク家とホルツマン家は隣にしないこと。三年前の狩猟祭以来、関係が悪化しています』
『楽団はベルクハイム室内楽団と契約済み。代金は前払い。当日の配置は進行表の四頁目をご参照ください』
『ヴィクトル様のお母様は牡蠣が召し上がれません。献立から外しています』
一枚一枚、めくった。付箋の数を数えるのは途中でやめた。多すぎた。
エミリアは使用人のリーゼを呼んだ。
「この招待状の宛名リスト、確認したいのだけれど。何家に送るのかしら」
リーゼは困った顔をした。
「あの——リストはフローラ様がお作りになったもので、私どもは宛名を書き写しただけですので……」
「花の注文は?」
「フローラ様が花屋と直接お話しされていました」
「料理の献立は?」
「フローラ様が料理長と毎朝——」
「分かったわ」
エミリアはリーゼの言葉を遮った。遮らなければ、同じ名前をあと何度聞くことになるか分からなかったからだ。
フローラ様が。フローラ様が。フローラ様が。
この屋敷の使用人たちは、いつからあの人の名前をそんなふうに口にするようになったのだろう。まるで、この家の全てがあの人の手で回っていたかのように。
——違う。そんなはずはない。
エミリアは引き出しの書類を机に広げた。自分でやればいい。宛名リストがあるのだから、確認すればいい。花屋に連絡すればいい。献立を決めればいい。それだけのことだ。
宛名リストを開いた。
百二十三家。
名前の横に、一家ずつ注記がある。家長の名前、夫人の名前、同伴者の有無、食事の禁忌、過去の交際歴、贈答の履歴。百二十三家分の情報が、全てあの人の字で書かれていた。
エミリアはそのうちの半分も知らなかった。
席順表を広げた。六十脚の椅子が図面上に並んでいる。どの席にどの家を配置するか、線で結ばれ、理由が書かれている。『ミュラー家とシュトラウス家は旧知。隣席で話が弾みます』『ヘルツォーク家のご夫人は足がお悪い。出入口に近い席を』。
エミリアは一度も、客の足の具合を気にしたことがなかった。
知っていた。あの人がそういう仕事をしていることは、知っていた。知っていて、見ないふりをしていた。見てしまえば、認めなければならないから。あの人がこの家に必要だということを。お母様の代わりではなく、お母様とは別の形で。
それを認めたくなかった。認めれば、お母様が少しだけ遠くなる気がした。
引き出しの奥に、小さな手帳が入っていた。
革の表紙に、あの人の字で書かれている。
「エミリア様のために」
エミリアの指が止まった。
開くべきではないと思った。開けば、何かが変わる。今の自分が立っている場所が揺らぐ。そう分かっていて、開いた。
一頁目。
『ヴィクトル様の好きな花:白百合。母君のヴィクトリア夫人が庭に植えている品種と同じものを披露宴に使用すること』
二頁目。
『ヴィクトル様の好きな音楽:室内楽。特にヴィオラの入った四重奏を好まれる。ベルクハイム室内楽団にはヴィオラ奏者が二名在籍』
三頁目。
『ヴィクトル様の苦手な食べ物:牡蠣。幼少期に当たった経験あり。献立から完全に除外すること。ソースにも使用しないこと』
四頁目。
『ヴィクトリア夫人の性格:几帳面。手紙の返信が遅れることを嫌われる。月に一度はご挨拶のお手紙を。文面は丁寧に、長すぎないこと』
五頁目。
『ヴィクトル家の慣習:年始の乾杯は必ず白ワイン。赤は不吉とされる。披露宴の乾杯も白ワインにすること』
ページをめくるたびに、エミリアが知らなかった情報が出てくる。婚約相手の家のことを、エミリアよりも詳しく調べ、記録し、対策を立てていた人がいる。その人を、エミリアは「母の代わりにはなれない」と言って追い出した。
手帳の最後のページを開いた時、エミリアの手が震えた。
そこには、ヴィクトルの情報ではなく、エミリア自身のことが書かれていた。
『エミリア様の好きな花:スズラン。六歳の頃、前庭のスズランを摘んで亡きお母様に贈ったと、マルタより聞く。披露宴のブーケにスズランを一輪添えることを提案したが、却下された』
スズラン。
覚えていなかった。六歳の自分が、庭のスズランを摘んでお母様に走っていったこと。お母様が笑って受け取ってくれたこと。あの小さな白い花の、甘い匂い。
忘れていた。
忘れていたことを、あの人が覚えていた。
エミリアは手帳を閉じた。閉じて、机の上に置いた。それから、また開いた。最後のページの「却下された」という一語を、もう一度読んだ。
却下したのは自分だ。あの日、応接間であの人が花の案を持ってきた時、見もしなかった。「あなたが選ぶ必要はありません」と言った。
あの案の中に、スズランがあったのだろうか。
聞くことは、もうできない。
エミリアは手帳を引き出しに戻した。目の奥が熱くなったが、泣かなかった。泣く理由がないと思ったからだ。あの人は母の代わりにはなれない。そう言ったことは間違っていない。間違っていないはずだ。
——ただ、母の代わりではないものを、あの人がしていたことに、気づかなかっただけで。
「リーゼ」
「はい、お嬢様」
「披露宴の準備、私がやるわ。この資料があれば——これくらい、自分でもできるもの」
リーゼは何も言わなかった。ただ小さく頭を下げた。その目が少しだけ赤いことに、エミリアは気づかなかった。
気づかないことが、この家の病だった。
手帳の最後のページには、エミリアの好きな花が書かれていた。エミリア自身が忘れていた、幼い頃の好きな花が。




