第2話 引き出しに残したもの
朝の五時に目を覚ますことを、フローラは習慣とすら思わなくなっていた。
廊下はまだ暗い。使用人たちが起き出すのは五時半。義娘たちが朝食の席につくのは八時。その間の三時間が、フローラの仕事の時間だった。
厨房の扉を開けると、料理長のマルタがすでに火を入れていた。三年間、毎朝この時間に顔を合わせてきた。マルタはフローラを見て、いつものように軽く頭を下げた。
「おはようございます、奥様」
「おはようございます、マルタ」
フローラは厨房の隅の椅子に腰を下ろし、昨夜のうちに書いておいたメモを広げた。
「エミリア様は昨夜遅くまで起きていらしたようです。今朝は消化の良いものをお願いします。ゾフィー様は一昨日からお腹の調子が悪そうでした。温かいスープを。アンナ様は——」
少しだけ、言葉が止まった。
「アンナ様は、甘いものがあると笑顔になりますから」
マルタは頷いた。何も聞き返さない。三年間、毎朝この打ち合わせを繰り返してきた。義娘たちの体調を観察し、好みに合わせた朝食を設計する。義娘たちには内緒で。
内緒にしていたのは、知られれば拒絶されるからだ。「あの人が決めた朝食なんて食べたくない」と言われれば、マルタが困る。だからフローラは影に徹した。義娘たちは三年間、毎朝の食事が自分たちのために整えられていることを知らない。知る必要もないと、フローラは思っていた。
思っていた。
今朝まで。
「マルタ」
「はい、奥様」
「明日から、お嬢様方の朝食はマルタの判断でお願いします」
マルタの手が止まった。鍋の縁に置かれた木杓子が、かすかに揺れた。
「——奥様?」
「お世話になりました」
それ以上は言わなかった。マルタも聞かなかった。ただ、木杓子を握るマルタの指の関節が白くなっていた。
午前十時。フローラはオスヴァルトの執務室を訪ねた。
夫は書類に目を落としていた。フローラが入っても、すぐには顔を上げなかった。三年間、ずっとそうだった。フローラの訪問はいつも家政の報告で、緊急性がないと知っているからだ。
「旦那様、お時間をいただけますか」
オスヴァルトが顔を上げた。四十五歳の、疲れた目をした男だった。前妻を亡くしてからの十年で白髪が増え、再婚してからの三年でさらに増えた。板挟みという言葉が、この人の白髪の数だけ積み重なっている。
「ああ、何だ」
「離縁を、お願いしたく存じます」
オスヴァルトのペンが止まった。インク壺の縁にペン先がぶつかり、小さな音がした。
「——何だって?」
「離縁です」
静かに、もう一度言った。同じ言葉を、同じ声で。繰り返す必要があったということが、すでに答えだった。この人は、一度では聞き取れない。フローラの言葉を、いつも一度では聞き取らない。
「フローラ、それは——」
オスヴァルトは椅子から立ち上がりかけて、また座った。
「娘たちのことなら、いずれ分かってくれる。もう少し待ってくれないか」
三年間、同じ言葉だった。
いずれ。もう少し。待ってくれ。
最初の一年は信じた。二年目は願った。三年目は、その言葉が出るたびに、胸の奥で何かが少しずつ冷えていくのを感じた。紅茶のように。淹れた時は温かかったはずなのに、気づけば冷め切っている。
「旦那様。三年間、待ちました」
声は穏やかだった。穏やかにしか出せなかった。怒鳴ることができたなら、もっと早くに楽になれたのかもしれない。
「あと三年お待ちすれば、お嬢様方は私を母と呼んでくださるでしょうか」
オスヴァルトは答えなかった。答えられなかった。その沈黙が、フローラにはもう十分だった。
「——私は、もう待てないのです」
手が震えていた。膝の上で組んだ指が、微かに。オスヴァルトはそれに気づかなかった。フローラの手元を見る習慣が、この人にはなかった。
午後、フローラは書斎で最後の仕事をした。
エミリアの婚約披露宴の資料を全て引き出しに入れた。招待状の宛名リスト、花の手配書、席順表、料理の献立案、楽団との契約書、進行表。付箋を貼り、順番に並べた。誰が見ても分かるように。フローラがいなくても回るように。
ゾフィーの縁談相手の母親に宛てた最後の手紙を封筒に入れた。「今後はゾフィー様ご本人から、お便りが届くかと存じます」——この一文を書く時だけ、ペンが震えた。届くだろうか。ゾフィーは手紙を書くことを知らない。フローラが代わりに書いていたことすら知らない。
引き出しにラベルを貼った。「エミリア様 披露宴関連」「ゾフィー様 縁談関連」「アンナ様 デビュー関連」。三つのラベルを、三年分の仕事の上に。
最後に、小さな包みを手に取った。
アンナの社交界デビュー用の白い手袋。アンナの手に合わせて仕立てさせたもの。採寸のために、アンナが脱いだ手袋をこっそり借りた夜のことを思い出す。あの夜も、屋敷は静かだった。
手紙は添えなかった。何を書いても言い訳になる。何を書いても、三年間黙っていたことの理由にはならない。だから、何も書かない。フローラはいつもそうだった。言葉の代わりに、何かを残す。
アンナの部屋の前まで歩いた。扉をそっと開け、暗い部屋に入った。アンナの寝息が聞こえた。クローゼットを静かに開き、奥に包みを置いた。目立つ場所ではなく、整理をした時に自然と見つかる場所に。アンナが気づくのは明日か、一週間後か、あるいはもっと先か。それでいい。届く時が、届く時だ。
夕方、フローラは玄関に立った。
荷物は小さな旅行鞄一つだった。三年間この家で暮らして、持ち出すものがこれだけしかないことに、自分でも少し驚いた。ドレスも宝飾も、全てオスヴァルトが用意したものだ。持っていく理由がない。
マルタが厨房から出てきた。エプロンで手を拭きながら、フローラの前に立った。
「奥様——」
「マルタ。もう奥様ではありません」
マルタの目が赤くなった。唇を噛んで、それでも涙をこらえようとしていた。フローラはマルタの手を取った。料理で荒れた、温かい手だった。
「三年間、毎朝付き合ってくださってありがとうございました」
「——奥様が来なくなったら、私は誰に聞けばいいのですか。お嬢様方の朝食を」
「マルタなら分かります。三年間、一緒に作ってきたのですから」
マルタは首を横に振った。振りながら泣いた。
庭師が門を開けた時、目を赤くしていた。廊下の角で侍女のハンナがエプロンで顔を押さえているのが見えた。馬車の御者は何も言わなかったが、フローラが乗り込む時、いつもより丁寧に手を差し出した。
使用人たちは泣いた。
主人一家は、誰も泣かなかった。
エミリアは自室にいた。ゾフィーは庭で本を読んでいた。アンナは部屋の窓から外を見ていたが、フローラの馬車が門を出る瞬間、カーテンを閉じた。
オスヴァルトは執務室の椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。「すぐ戻るだろう」と、自分に言い聞かせるように呟いた。三年間、そう言い続けてきた男の、最後の楽観だった。
馬車が動き出した。フローラは振り返らなかった。振り返れば、あの屋敷の窓の灯りが見える。三年間、最後に消していた書斎の灯りが。今夜、あの灯りは誰がつけるのだろう。
誰もつけない。
フローラはそれを知っていた。
使用人たちの涙を、義娘たちは見ていなかった。見ていたのは、料理長マルタだけだった。




