第1話 呼ばれなかった名前
フローラがこの家で最初に覚えた言葉は、「お義母様」ではなかった。
「フローラ様は結構です」——それが、三年前にこの屋敷の敷居をまたいだ日、長女エミリアから受け取った最初の言葉だった。
以来、この家でフローラを「お義母様」と呼ぶ者はいない。使用人たちは「奥様」と呼ぶ。夫オスヴァルトは「フローラ」と呼ぶ。そして三人の義娘たちは、呼びかけそのものを避けた。名前を呼ばないことで、存在しないことにできるとでもいうように。
フローラはそれに慣れた。慣れたというより、数えるのをやめた。
五月の朝、書斎の窓から差し込む光は明るすぎて、帳簿の文字がちらついた。エミリアの婚約披露宴まであと三週間。招待状の宛名リストを確認し、花の手配書に目を通す。白百合を六十本、スズランを二十本。スズランはエミリアが幼い頃に好きだった花だ。本人はもう覚えていないだろう。覚えているのはフローラだけで、それを知っているのもフローラだけだった。
席順表を広げる。ヴァイスベルク家とホルツマン家は隣にしてはいけない。三年前の狩猟祭で揉めている。ライナー伯爵家の夫人は牡蠣が食べられない。ヴィクトルの母ヴィクトリア夫人は几帳面で、返事の遅れを嫌う——昨日の手紙にはもう返信を書いた。文面は「エミリア様がとても楽しみにしております」。エミリアがそう言った事実はない。けれど、嘘ではないだろうと思う。たぶん。
手帳を開く。表紙には「エミリア様のために」と書いてある。中には婚約相手ヴィクトルの好きな花、好きな音楽、苦手な食べ物。母親の性格、家の慣習。年始には必ず白ワインで乾杯すること。それらを一つずつ調べ、確認し、書き留めた。
同じ手帳が、あと二冊ある。ゾフィー様のために。アンナ様のために。
紅茶が冷めていた。淹れたのがいつだったか思い出せない。
午後、小さな応接間で婚約披露宴の打ち合わせが行われた。
エミリアが椅子に座り、侍女のリーゼが控えている。フローラは花の手配案と席順表を持って入った。
「失礼いたします。披露宴の花と席順の案をお持ちしました」
エミリアはフローラを見なかった。視線は窓の外に向けたまま、リーゼに話しかけるように言った。
「お母様だったら、どんな花を選んだかしら」
フローラの手が、一瞬だけ止まった。
「亡きお母様は薔薇がお好きでしたので、薔薇を基調にする案もございます。ただ、ヴィクトル様のお母様は白百合を——」
「あなたが選ぶ必要はありません」
エミリアの声は冷たくはなかった。冷たくすらなかった。ただ、そこにフローラがいることに興味がないだけだった。花の案は広げられることなく、テーブルの端に置かれた。
フローラは頷いた。
「かしこまりました」
リーゼが気まずそうに目を伏せた。フローラはそれに気づいていたが、気づかないふりをした。使用人に同情されるほど惨めなことはない。いや、惨めだと感じる余裕すら、もうなかった。
応接間を出ようとした時、背後でエミリアの声が聞こえた。リーゼに向けた声だった。フローラに聞かせるつもりはなかったのだろう。あるいは、聞こえても構わないと思っていたのかもしれない。
「あの人は母の代わりにはなれないのだから、披露宴には出席しないでほしいの。私の晴れの日に、偽物の母がいるなんて耐えられないわ」
廊下に出たフローラの足は、止まらなかった。
止まれなかった、というほうが正しい。止まってしまえば、何かが溢れる。三年分の何かが。だから歩いた。いつもと同じ速さで、いつもと同じ姿勢で、いつもと同じ顔で。
エミリアが母を亡くしたのは十三歳の時だ。多感な年頃に母を失い、十六歳で父が再婚した。新しい女が母の椅子に座り、母の食器を使い、母の庭を歩く。それがどれほど辛いことか、フローラには分かっていた。分かっていたから、三年間黙っていた。
言い返したところで何になるだろう。「後妻が義娘と喧嘩した」——そう噂されるのはフローラの方だ。侯爵家の品位を損なった女。立場をわきまえない後妻。社交界はいつだって、先に声を荒らげた方を罰する。
だからフローラは、最後の礼儀として黙った。三年間、ずっとそうしてきた。
夜。
屋敷が寝静まった後、フローラは書斎に戻った。
机の上に三冊の手帳を並べる。エミリア様のために。ゾフィー様のために。アンナ様のために。
ゾフィーの縁談相手であるライナー伯爵家の嫡男の母親に宛てた手紙の下書きを確認する。「ゾフィー様はお茶を淹れるのがとてもお上手で、穏やかな方です」——この一文を書くために、フローラはゾフィーが紅茶を淹れる所作を半年間、遠くからそっと見ていた。ゾフィーは知らない。
アンナの社交界デビュー用の手袋を注文した伝票を確認する。アンナの手は小さい。既製品では合わない。仕立て屋に採寸を頼むには本人の協力がいるが、アンナはフローラと二人きりになることを避ける。だから、アンナが脱いだ手袋をこっそり借りて寸法を測り、翌朝には元の場所に戻した。アンナは気づいていない。
エミリアの披露宴の進行表を仕上げる。楽団の曲目リスト、給仕の動線、スピーチの順番。フローラが出席しない宴の段取りを、フローラが一人で組んでいる。
その矛盾を、おかしいと思う余裕はもうなかった。
窓の外では月が出ていた。書斎の灯りは、おそらくこの屋敷で最後に消える灯りだろう。毎晩そうだ。義娘たちが眠った後に働き、義娘たちが起きる前に厨房に降りる。見えない時間に、見えない仕事をする。
それを誰かに認めてほしいとは、もう思わない。
ただ——一度でいい。一度でいいから、「お義母様」と呼ばれたかった。
手帳を閉じる。インクの染みが指先についていた。爪は短い。飾る暇がないのではなく、実務をする手には長い爪が邪魔だからだ。この手を、エミリアもゾフィーもアンナも、見たことがない。見る必要がなかった。フローラの手が何をしているかなど、誰も気にしない。
冷めた紅茶を一口だけ飲んだ。苦かった。砂糖を入れ忘れたのではない。入れる気力がなかっただけだ。
書斎の灯りを落とす前に、フローラはいつものように微笑んだ。誰も見ていない部屋で、誰に向けるでもなく。
三年間、その微笑みを続けてきた。朝も、昼も、夜も。拒絶された時も、無視された時も、「偽物の母」と呼ばれた時も。
フローラは微笑んだ。
三年間、その微笑みの意味を読み取った人は、一人もいなかった。




