第9話 もう関係ありません
社交相談所を開いて、二ヶ月が経った。
朝は七時に起きる。五時ではない。誰かの体調を確認する必要がないから、七時でいい。窓を開けると、パン屋の焼きたての匂いが入ってくる。向かいの花屋が水を撒く音がする。侯爵家の朝とは何もかもが違う。静かだが、寂しくはない。
客は少しずつ増えていた。コンラートの紹介で隣領の男爵夫人が来た。その夫人の紹介で、王都の商家の奥方が来た。縁談の段取り、贈答品の相談、宴の席順、弔事の作法。フローラが三年間、誰にも認められずに磨いてきた技術を、ここでは対価を払って求める人がいる。
机の上に、今朝届いた手紙がある。コンラートからだった。来週、領地の収穫祭に招待したいと書いてある。招待状ではない。個人的な手紙だった。「君の助言のおかげで席順が決まった。礼を兼ねて招きたい。断ってもいい。断っても、次の相談には来る」。最後の一文で少し笑った。
この人の手紙には、いつも逃げ道がある。断ってもいい、という一言が必ず添えてある。侯爵家では、断る選択肢を渡された記憶がない。
午後の予約はない。帳簿を整理し、名簿の更新をして、お茶を淹れた。自分のために。カモミールの香りが部屋に広がる。
◇
アンナは一人で馬車に乗った。
姉たちには言わなかった。父にも言わなかった。侍女のハンナにだけ「王都に出かけます」と伝えた。ハンナは何も聞かずに外出用の上着を用意してくれた。ハンナもフローラのことを覚えている側の人間だった。
馬車の中で、アンナは自分の手を見た。白い手袋をしている。フローラが残していった手袋。社交界デビュー用の、アンナの手にぴったり合う手袋。これを着けて家を出ることに意味があると思った。言葉にはできないけれど、これがアンナにできる精一杯だった。
王都の裏通りで馬車を降りた。通りは狭くて、建物は古くて、侯爵家の令嬢が来るような場所ではなかった。小さな看板が見えた。「社交相談所」。丁寧な字。
扉の前で、足が止まった。
何と呼べばいいのか、分からなかった。「お義母様」——三年間、一度も使わなかった言葉を今さら使う資格があるとは思えなかった。かといって、「グリューネヴァルト夫人」はもう正しくない。離縁したのだから。
深く息を吸った。
扉を開けた。
◇
扉が開いた時、フローラはお茶を飲んでいた。
立っていたのは少女だった。十五歳。栗色の髪。少し怯えた目。華奢な体に、外出用の上着を着ている。侯爵家の令嬢が一人で王都の裏通りに来ることの不自然さが、そのまま彼女の覚悟を示していた。
アンナだった。
フローラは立ち上がった。驚いた。驚いたが、それ以上に、アンナの手に目が行った。
白い手袋を着けていた。
フローラが仕立てに出した手袋だった。アンナの手に合わせて採寸した、あの手袋。見つけてくれたのだと思った。包みを開けてくれたのだと。それだけで、胸の奥が温かくなった。
アンナは扉の前に立ったまま、フローラを見ていた。何か言おうとして、言葉を探しているようだった。唇が小さく動いて、止まって、また動いた。
「——フローラ様」
フローラの手が、かすかに震えた。
お義母様、ではなかった。
三年間待ち続けた「お義母様」ではなく、「フローラ様」と呼んだ。それは家族への回帰ではなかった。義娘から義母への呼びかけではなかった。一人の人間から、もう一人の人間への、敬意だった。
フローラは「お義母様」と呼ばれたかった。三年間、ずっとそう思っていた。けれど今、「フローラ様」と呼ばれた瞬間、分かった。本当に欲しかったのは、役割の名前ではなかった。自分の名前だった。自分という人間を見て、呼んでくれる誰かだった。
「ありがとうございました」
アンナの声は震えていた。目が赤くなっていた。
「手袋と——朝ごはんと——全部——」
言葉が途切れた。十五歳の少女にとって、三年分の感謝を一度に言葉にすることは難しかった。途切れたまま、アンナは手袋をした手を胸の前で握った。
フローラは微笑んだ。
三年間の微笑みとは違う。コンラートの前で見せた不恰好な笑顔とも違う。穏やかで、静かで、少しだけ寂しくて、でも温かい微笑みだった。
「いらっしゃいませ」
その一言だけを返した。
お礼への返答でも、赦しの言葉でもない。社交相談所の店主が、訪れた人に向ける言葉。フローラはアンナを「侯爵家の義娘」としてではなく、「この場所を訪ねてきた一人の人」として迎えた。
アンナは少しだけ笑った。ぎこちなくて、泣きそうで、でも確かに笑った。
二人はお茶を飲んだ。カモミールだった。アンナは「おいしい」と言った。フローラは「ありがとう」と言った。それだけだった。家族の和解も、侯爵家への帰還の話も、しなかった。する必要がなかった。
アンナが帰る時、フローラは一つだけ聞いた。
「お姉様方には?」
「内緒です」
アンナは少し恥ずかしそうに言った。フローラは笑った。内緒で。その言葉が、今度はフローラを泣かせる側に回っていた。
扉が閉まった。小さな部屋に、カモミールの香りが残っていた。
夕方、コンラートが来た。
花は持っていなかった。代わりに、少し緊張した顔をしていた。この人が緊張するところを見るのは初めてだった。
「今日は相談ではないんだ」
「ええ、分かっています」
コンラートは少し驚いた顔をした。フローラは首を傾げた。
「相談の時と、顔が違います」
「……敵わないな」
コンラートは椅子に座り、一度立ち上がり、また座った。それから、真っ直ぐにフローラを見た。
「俺の隣に来てくれないか」
短い言葉だった。飾りがなかった。
「妻としてではなく——いや、妻として、と言わせてほしい」
フローラは自分の手を見た。爪の短い手。実務の手。この手で三年間、誰かの幸せを設計してきた。この手を、今度は自分のために使いたい。でも——。
「また誰かの妻になるのは、少し怖いのです」
正直に言った。正直に言える人の前にいることが、嬉しかった。
コンラートは頷いた。
「なら、まず友人から始めよう。ただし、友人としても花は贈り続ける」
フローラは笑った。声を出して笑った。侯爵家では一度もしなかった笑い方だった。
「それは、友人の範疇を超えていませんか」
「花好きの友人だと思ってくれ」
コンラートも笑った。二人で笑った。小さな部屋に、笑い声が満ちた。
フローラはコンラートの手を見た。日に焼けた、実務家の手。この手は、フローラの仕事を奪わない。フローラの選択を奪わない。ただ、隣にある。
「友人から——始めましょう。ただし、友人にしては少し近い距離で」
コンラートの目が柔らかくなった。何も言わなかった。言わなくても伝わる人だった。
夜、フローラは一人で帳簿を閉じた。
窓の外は暗い。けれど、この灯りを消すのは自分の意思だ。誰かの世話が終わるのを待って消すのではない。自分の仕事が終わったから消す。それだけのことが、三年前にはできなかった。
机の上に、アンナが座っていた椅子がある。その椅子の背に、午後の日差しの温もりがまだ残っている気がした。
「母」と呼ばれなかった三年間、フローラは三人の縁談を守っていた。招待状を書き、手紙を送り、花を選び、席順を組み、朝食を設計し、手袋を仕立てた。母と呼ばれないまま、母以上のことをした。
もう関係ない。
彼女はようやく、自分の名前で生きている。




