第七話 婚約の返事は、家ではなく本人がします
面談室の扉を開ける前に、私は資料をもう一度だけ確認した。
花嫁候補は、エミリア・クライン男爵令嬢。
花婿候補は、ローレン・フェルド子爵令息。
両家の婚約内約は成立済み。
明後日、聖アリア神殿の小礼拝堂で正式婚約式を行う予定。
問題は、花嫁側の叔父であるガレス・クラインが、本人意思確認の省略を求めていることだった。
理由は、エミリア令嬢が病弱で、人前で話すと緊張するから。
家が代わりに返答するから、本人の返事は不要にしてほしい。
そう書かれている。
私は紙の端を、指先で軽く押さえた。
病弱。
緊張。
人前で話せない。
昨日までなら、それだけで私は少し身構えたかもしれない。
セシリア様の顔を思い出すからだ。
白いショール。
涙。
苦しそうな呼吸。
けれど、目の前の資料にいるエミリア令嬢は、セシリア様ではない。
別の人だ。
同じ言葉でまとめてはいけない。
「アリシア嬢」
隣でミレーヌ女官長が静かに言った。
「緊張していますか」
「はい」
「よいことです」
「よいこと、でしょうか」
「ええ」
彼女は、面談室の扉を見た。
「本人意思確認に慣れすぎる方が危ういです」
その言葉で、少しだけ肩の力が抜けた。
ここには、私より長くこの仕事をしている人がいる。
登録院の女性書記官も、神殿の女性神官も、すでに面談室の中で待機している。
私はひとりではない。
昨日も、ヴィクトル様はそう説明した。
それを忘れてはいけない。
「あなたは今日、判断を下すのではありません」
ミレーヌ女官長は続けた。
「まず聞くのです」
「はい」
「本人が、自分の声で返事をしたいのか。書面なら返事ができるのか。誰かに遮られていないか。そこを見ます」
「分かりました」
「そして、判断に迷えば上申する」
「はい」
「では、入りましょう」
私は頷いた。
面談室の扉が開く。
中は、王宮の部屋としては小さかった。
大きな机はない。
壁際の椅子も少ない。
中央には丸い卓が一つ。
威圧感を避けるための部屋なのだろう。
窓際に座っていた少女が、私たちを見るなり立ち上がった。
細い身体。
淡い栗色の髪。
青白い顔。
白い指先は、膝の前でぎゅっと握られている。
彼女がエミリア・クライン男爵令嬢だろう。
「エミリア様」
ミレーヌ女官長が柔らかく声をかけた。
「座ったままで結構です」
「い、いえ。失礼を」
「失礼ではありません」
エミリア様は、少し戸惑ったあと、また椅子に座った。
その隣には、年配の女性神官。
反対側には、登録院の女性書記官。
どちらも穏やかな顔をしている。
部屋の中に、男性はいなかった。
ヴィクトル様も、ここには入っていない。
本人意思確認の初回面談では、必要以上に圧をかけないためだと聞いている。
その判断は正しいと思った。
ミレーヌ女官長が、最初に説明する。
「エミリア・クライン令嬢。本日の面談は、あなたを責めるためのものではありません」
「はい」
「明後日の正式婚約式にあたり、あなたご本人の意思を確認するためのものです」
「はい」
「この場で話した内容は、必要な範囲で王家婚姻登録院に記録されます。ただし、あなたを不当に傷つける形では扱いません」
「……はい」
「本日同席する者を紹介します。王家婚姻登録院の書記官ユリア。聖アリア神殿のマルタ神官。そして、昨日より臨時補佐として任用されたアリシア・エルヴェイン公爵令嬢です」
私は一礼した。
「アリシア・エルヴェインです」
「エミリア・クラインです」
エミリア様の声は小さい。
けれど、聞こえた。
話せないわけではない。
少なくとも、この部屋なら声は出せる。
ミレーヌ女官長が、静かに問いかけた。
「エミリア様。明後日、ローレン・フェルド子爵令息との正式婚約式が予定されていますね」
「はい」
「そのことをご存じですか」
「はい」
「あなたは、その婚約式に出席する意思がありますか」
エミリア様は、すぐには答えなかった。
指先が、膝の上で震えている。
私は黙って待った。
ここで先に言葉を足してはいけない。
はいと言わせるためでも、いいえと言わせるためでもない。
彼女自身の言葉が出るまで、待つ。
それは、待たされることとは違う。
相手の時間を奪うのではなく、相手の言葉が生まれる時間を守ることだ。
「……出席、したいです」
エミリア様は、やっとそう言った。
書記官ユリアが、静かに記録する。
「ローレン様との婚約を望んでいますか」
「はい」
「家のためではなく?」
「はい」
「ローレン様ご本人との婚約を?」
エミリア様は、今度は少しだけ早く頷いた。
「はい。望んでいます」
そこまでは、問題ないように見えた。
けれど、彼女の手はまだ震えている。
ミレーヌ女官長が、私へ視線を向けた。
必要なら、ここで補佐として質問してよい。
そういう合図だった。
「エミリア様」
私は慎重に口を開いた。
「ひとつ確認してもよろしいでしょうか」
「はい」
「あなたの叔父上であるガレス様は、婚約式での本人返答を省略したいと申し出ています」
エミリア様の肩が、目に見えてこわばった。
やはり、そこだ。
「理由は、あなたが人前で話すと緊張するから、とのことでした」
「……はい」
「それは事実ですか」
「はい。大勢の前では、声が出にくくなります」
「では、婚約そのものが嫌なのではなく、人前で返事をすることが不安なのですね」
エミリア様は顔を上げた。
少し驚いたような顔だった。
「はい」
「小礼拝堂でも難しいですか」
「人が多いと、たぶん」
「両家の親族が全員いる形では」
「少し、怖いです」
「では、本人返答を完全に省略したいですか」
エミリア様は、首を横に振った。
その動きは小さかったが、はっきりしていた。
「いいえ」
部屋が静かになる。
私は続けた。
「ご自分で返事をしたい?」
「……はい」
「声で?」
彼女は少し迷った。
そして、小さく言う。
「できれば、声で言いたいです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に少しだけ熱が灯った。
そう。
そこが大事なのだ。
家が返事をしたいのではない。
彼女が返事をしたい。
ただ、怖い。
なら、必要なのは省略ではなく、怖くない形を作ることだ。
「では、方法を考えましょう」
私が言うと、エミリア様は目を瞬いた。
「方法、ですか」
「はい」
「省略ではなく?」
「省略ではなく」
私は頷いた。
「あなたが返事をできる形を考えます」
エミリア様の目に、少しだけ光が戻った。
ミレーヌ女官長が満足げに頷く。
神官マルタが、静かに補足した。
「神殿規定では、本人返答は声で行うのが原則です。ただし、体調や事情がある場合、小礼拝堂での少人数確認、または神官が近くで聞き取って復唱する形も認められています」
「復唱?」
エミリア様が聞き返す。
「あなたが小さな声で答える。神官が、その答えを式の記録に届く声で復唱する形です」
「それでも、私が答えたことになりますか」
「なります」
マルタ神官は、はっきり答えた。
「神官は、あなたの代わりに答えるのではありません。あなたの声を聞き取り、式に届く形にするだけです」
エミリア様は、両手を胸元で握った。
「それなら、できるかもしれません」
書記官ユリアが、すぐに記録する。
私は少しだけ息を吐いた。
本人意思確認。
それは、はいかいいえを聞くだけではないのだと分かった。
本人が意思を示せる形を整えるところまでが、仕事なのだ。
「では、式の出席者を調整しましょう」
ミレーヌ女官長が言った。
「両家の親族を全員小礼拝堂に入れる必要はありません。婚約式の正式立会いに必要なのは、本人二名、両家代表、立会神官、公証人、婚姻登録院職員です」
「叔父は」
エミリア様が小さく言った。
「叔父は、出るのでしょうか」
「ガレス様は、クライン男爵家の当主ではありませんね」
「はい。父の弟です」
「お父上はご健在ですね」
「はい。ただ、病後であまり強く言えなくて」
「家の代表はお父上でよいはずです」
ミレーヌ女官長は、書記官へ確認する。
ユリアが資料を見て頷いた。
「クライン男爵が当主。署名権も当主本人にあります。叔父ガレス様は、婚約交渉の代理補佐として名前が出ていますが、式の必須立会人ではありません」
エミリア様の肩が、少しだけ下がった。
緊張がほどけたのだろう。
つまり、彼女は婚約が嫌なのではない。
叔父が式の場にいることが、かなり負担だったのだ。
「エミリア様」
私は訊いた。
「叔父上がいると、返事をしづらいですか」
彼女は、すぐには答えなかった。
でも、その沈黙だけで十分伝わった。
ミレーヌ女官長が穏やかに言う。
「この質問への返答は、無理に口にしなくても構いません」
エミリア様は、小さく頷いた。
「……はい」
「では、式当日の立会人からガレス様を外せるか、登録院で確認します」
「そんなことが、できるのですか」
「必要であれば」
ミレーヌ女官長が答える。
「婚約の意思を持つのは、あなたとローレン様です。叔父上ではありません」
その言葉に、エミリア様は今度こそ少し泣いた。
けれど、その涙は先ほどまでの怯えとは違った。
安堵に近いものだったと思う。
面談は、その後さらに続いた。
ローレン様との関係。
婚約を望む理由。
式当日の不安。
声が出ない場合の合図。
神官の復唱を望むか。
父親の立会いを望むか。
叔父の同席を望むか。
ひとつずつ確認する。
急かさず。
けれど曖昧にせず。
最後に、エミリア様は自分の手で短い確認文を書いた。
私は、ローレン・フェルド様との婚約を望みます。
婚約式では、自分の声で返事をしたいです。
ただし、大勢の前では声が出にくいため、小礼拝堂で、神官様に聞き取っていただく形を望みます。
ガレス叔父様の同席は望みません。
文字は少し震えていた。
でも、彼女自身の字だった。
「これでよろしいですか」
ユリアが確認する。
エミリア様は、はっきり頷いた。
「はい」
「では、王家婚姻登録院で正式に受領します」
その瞬間、私は胸の奥で小さく息を吐いた。
昨日の私の不成立確認書とは違う。
これは、成立へ向かうための確認書だ。
けれど、同じくらい大切だった。
面談室を出ると、廊下の少し先でヴィクトル様が待っていた。
彼は中には入らなかった。
けれど、上申を受ける立場として、すぐ近くで控えていたらしい。
「結果は」
ミレーヌ女官長が手短に報告する。
「本人は婚約を望んでいます。ただし、大勢の前での返答に強い不安があります。神官復唱方式を希望。叔父ガレス・クラインの同席は望んでいません」
「ガレス氏の権限は」
ヴィクトル様がユリアへ問う。
「当主ではありません。代理補佐にすぎません」
「では、式の必須立会人から外します」
「はい」
「花嫁本人の希望書面は」
「こちらです」
ユリアが渡す。
ヴィクトル様は一読し、すぐに頷いた。
「よい確認です」
その言葉は、誰に向けたものか分からなかった。
エミリア様へか。
ミレーヌ女官長へか。
面談に関わった全員へか。
けれど、私も少しだけ背筋が伸びた。
「ガレス・クラインには、登録院より正式通知を出します」
ヴィクトル様が言った。
「本人意思確認を省略する申し出は却下。婚約式は小礼拝堂形式へ変更。本人返答は神官復唱方式。ガレス氏は式場外待機」
「反発するかもしれません」
ミレーヌ女官長が言う。
ヴィクトル様は淡々と答えた。
「反発は自由です。式場には入れません」
その明確さに、私は少しだけ驚いた。
同時に、安心もした。
ここでは、線を引くだけでなく、線の外に出た者を止める人がいる。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が私を見る。
「はい」
「初仕事の所感は」
「難しいです」
「どこが」
「本人の意思と、本人が怖がっている形を分けるところです」
ヴィクトル様の目が、少しだけ細くなる。
「続けてください」
「エミリア様は、婚約が嫌なのではありませんでした。返事もしたかった。でも、叔父上の前で、大勢に見られて答える形が怖かった」
「はい」
「もし表だけ見れば、病弱で話せない令嬢だから家が代わりに返事をする、となっていたかもしれません」
「そうですね」
「でも、それでは本人の意思が消えます」
「その通りです」
ヴィクトル様は、静かに頷いた。
「本人意思確認は、嫌かどうかを聞くだけではありません。本人の意思が出てこられる形を探すことです」
その言葉は、今日の面談のすべてを整理していた。
私は頷く。
「覚えておきます」
「あなたは、すでに少し分かっていたように見えました」
「昨日のことがあったからかもしれません」
「それも経験です」
「傷も、経験になるのでしょうか」
「なります」
即答だった。
少し驚いて、私はヴィクトル様を見た。
「ただし」
彼は続けた。
「傷を理由に、同じ痛みを他人に押しつけなければ」
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
セシリア様のことを思い出す。
彼女は苦しかった。
その苦しさは、本物だった。
けれど、その苦しさを理由に、私に待つ時間を押しつけた。
同じことを、私はしてはいけない。
昨日の痛みを理由に、エミリア様をセシリア様と同じように見てはいけない。
そこに気づけたことは、今日の一番大きな学びかもしれなかった。
「ヴィクトル様」
「はい」
「私は、少し怖かったです」
「何が」
「エミリア様の資料に、病弱と書かれていたことが」
私は正直に言った。
「昨日のことを思い出して、また誰かの不安に巻き込まれるのではないかと」
「そうでしょうね」
「ですが、エミリア様は違いました」
「はい」
「それを、最初から決めつけずに聞けてよかったと思います」
ヴィクトル様は、ほんの少しだけ口元を動かした。
「よい補佐でした」
「褒められたのでしょうか」
「もちろん」
「分かりにくいです」
「改善します」
そのやりとりに、ミレーヌ女官長が小さく咳払いをした。
笑いを隠したのかもしれない。
私は少しだけ頬が熱くなった。
午後、ガレス・クラインから強い抗議が届いた。
予想どおりだった。
「姪は緊張しやすく、家の面子もある。叔父である自分が返答を補助するのが当然だ」
そう書かれていた。
ヴィクトル様は、それを一読して言った。
「却下」
短かった。
ユリアが確認する。
「理由は」
「本人が同席を望んでいないため」
「それだけで」
「十分です」
私は、そのやりとりを聞きながら、昨日の自分を思い出した。
私も、延期ではなく不成立を選んだ。
理由は、誓約者本人が不在だったから。
そこに、誰かの感情を足す必要はなかった。
今日も同じだ。
エミリア様は叔父の同席を望まない。
それだけで、式場に入れない理由になる。
「アリシア嬢」
ヴィクトル様が、抗議書を置いた。
「返信案を作れますか」
「私が、ですか」
「臨時補佐として」
「はい」
私は少し考えた。
ガレス氏を怒らせるための文ではない。
でも、譲らない文でなければならない。
「書いてみます」
ペンを取る。
文面は短くした。
王家婚姻登録院は、エミリア・クライン令嬢本人の意思確認に基づき、明後日の婚約式を小礼拝堂形式へ変更します。
本人返答は神官復唱方式とし、両家代表、立会神官、公証人、登録院職員のみが同席します。
ガレス・クライン殿は、式場外にて待機してください。
本人意思確認を省略する申し出は、認められません。
書き終えて、ヴィクトル様へ渡す。
彼は目を通した。
「問題ありません」
「短すぎますか」
「十分です」
「家格への配慮は」
「男爵家の叔父です。本人意思を省こうとした者に、余計な飾りは不要です」
「かなりはっきりなさいますね」
「曖昧にすれば、式場へ入ろうとします」
「それは困ります」
「だから、はっきり書く」
確かに、その通りだった。
線を引く時は、線が見える言葉にしなければならない。
優しすぎる言い回しは、時に相手へ余地を与えてしまう。
夕方、エミリア様の父であるクライン男爵から、短い礼状が届いた。
病後で弱っていると聞いていたが、文字は丁寧だった。
娘の声を聞いてくださり、感謝いたします。
私は娘が婚約を嫌がっているのではないかと恐れておりました。
ですが、怖かったのは婚約ではなく、返事を奪われることだったのですね。
当日は、父として娘の声を聞きます。
私はその文を読み、しばらく動けなかった。
返事を奪われること。
その言葉が、胸に残る。
私は昨日、待たされることをやめた。
エミリア様は今日、返事を奪われることを避けた。
形は違う。
でも、根は同じかもしれない。
自分の時間。
自分の声。
自分の意思。
それを、他人の都合で簡単に扱わせないこと。
勤務が終わる頃、ヴィクトル様が声をかけてきた。
「アリシア嬢」
「はい」
「今日はここまでです」
「まだ、明後日の式次第の確認が」
「ユリアが見ています」
「小礼拝堂の配置は」
「ミレーヌ女官長が確認済みです」
「ガレス氏への返信は」
「発送済みです」
「では」
「帰って休んでください」
私は少しだけ口を閉じた。
全部自分で見ようとしていたことに、今さら気づいた。
「私は、また背負いそうになっていましたか」
「少し」
「少しで済みましたか」
「今日は」
「明日は?」
「分かりません」
あまりにも正直な返事に、私は笑ってしまった。
「ヴィクトル様は、やはり慰めがお上手ではありません」
「今日は褒めたつもりでした」
「そうでしたか」
「少しずつ覚えればよい、という意味です」
私は顔を上げる。
ヴィクトル様は、静かな目で私を見ていた。
「あなたは昨日、大きなものを終わらせたばかりです。今日から急に全部できる必要はありません」
「……はい」
「それでも、今日はよい補佐でした」
その言葉は、今度は少し分かりやすかった。
胸の奥が、静かに温かくなる。
「ありがとうございます」
「では、帰りましょう」
「送ってくださるのですか」
「王宮の馬車寄せまで」
「お仕事は」
「終わらせました」
「早いですね」
「あなたを待たせないために」
言われた瞬間、言葉が止まった。
ヴィクトル様は、特に甘い顔をしていない。
本当にただ、事実として言ったのだろう。
けれど、私にはそれが甘い言葉よりずっと強く響いた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
廊下を歩く。
彼は私の半歩前にも、後ろにも立たなかった。
隣を歩く。
歩幅は、私より少しだけ遅いくらいだった。
合わせてくれているのだと分かった。
馬車寄せへ向かう途中、窓の外に夕方の庭が見えた。
淡い黄色の花が、風に揺れている。
昨日は、婚約式が終わった。
今日は、誰かの返事を守った。
私はまだ、完全に平気ではない。
きっと明日も、青い封蝋を思い出す。
遅すぎた足音も。
ディオン様の「君なら待っていてくれると思った」という声も。
でも、それだけではない一日が、もう始まっている。
待つかどうかは、私が決める。
返事をするかどうかも、本人が決める。
それを守るための仕事が、ここにはある。
馬車に乗る前、ヴィクトル様が言った。
「明後日の式で、エミリア嬢の声が届くといいですね」
「はい」
「あなたの仕事の結果です」
「私ひとりの仕事ではありません」
「それも、よい答えです」
私は少しだけ笑った。
「また褒めましたか」
「はい」
「少し分かるようになってきました」
「それはよかった」
馬車の扉が閉まる。
ヴィクトル様は一礼して、少し離れた場所で見送った。
急かさない。
呼び止めない。
ただ、私が出発する時刻までそこにいる。
それだけのことが、今の私にはとても大切に思えた。
馬車が動き出す。
王家婚姻登録院の建物が、少しずつ遠ざかる。
私の一日は、昨日とは違う形で終わろうとしていた。
白いドレスも、青い封蝋もない。
代わりに、エミリア様の震える文字と、本人の声を守るための小礼拝堂の式次第がある。
私は窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。
まだ痛い。
でも、進める。
そのことが、今日いちばんの答えだった。
読んでいただきありがとうございます。
第八話は明日18:10に投稿予定です。
第一章完結回です。
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