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婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました【連載版】  作者: 本城オブリゲータ


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第六話 今度は、私が待つかどうかを決めます

 その夜、私は自室で眠れなかった。



 眠れなかったと言っても、泣き続けていたわけではない。

 むしろ涙は出なかった。

 ただ、目を閉じるたびに、白い神殿の廊下と、青い封蝋と、遅すぎた足音が順に浮かんだ。


 婚約式の鐘は鳴らなかった。

 ディオン様は来なかった。

 私は不成立確認書に署名した。


 その一つ一つは、すでに記録になっている。

 けれど、記録になったからといって、私の中から消えるわけではなかった。



 机の上には、王妃宮から持ち帰った書類が置かれている。


 王家婚姻登録院、臨時補佐任用案。

 任期。

 職務範囲。

 報酬。

 守秘義務。

 家門からの干渉を受けない旨。


 私が昨日求めた条件は、すべて余白に書き込まれる予定だった。


 まだ正式書面ではない。

 でも、王妃殿下とヴィクトル様は、当然のように認めた。



 当然。

 その言葉が、昨日から胸の中に残っている。


 私にとっては、当然ではなかった。

 誰かの婚約者としてではなく、誰かの娘としてでもなく、私自身の役目に対して任期と報酬が明記されること。


 私の時間が、私のものとして扱われること。

 それは、想像していたよりずっと大きなことだった。



 扉が軽く叩かれた。

 入ってきたのは母だった。

 夜着の上に薄い肩掛けを羽織っている。



「眠れないのね」


「少し」


「私もよ」



 母は小さく笑い、私の向かいに座った。

 侍女が温め直してくれた薬草茶を、母が二つの杯へ注ぐ。


 昔、私が熱を出した夜も、母はこうして茶を淹れてくれた。

 その記憶が少しだけ懐かしくて、胸が痛んだ。



「お母様」


「何?」


「私は、薄情でしょうか」



 母の手が止まった。

 けれど、すぐに杯を私の前へ置く。



「ディオン様がセシリア様を心配したこと自体は、間違いではなかったと思うのです」


「ええ」


「セシリア様が苦しかったことも、嘘ではなかったのでしょう」


「ええ」


「それでも私は、終わらせました」


「そうね」


「薄情でしょうか」



 母は、すぐには答えなかった。

 静かに茶を一口飲み、それから言った。



「アリシア。薄情な人は、そんなことを考えないわ」


「……」


「あなたは、相手の苦しさを分かった上で、自分の尊厳も守ったの」



 私は杯の中を見つめた。

 薬草茶の薄い緑色が、灯りを受けて揺れている。



「それは、悪いことではありませんか」


「悪いことではないわ」



 母の声は、いつもより少しだけ強かった。



「私たちは、あなたにもっと早く言うべきだったのかもしれない。優しくあることと、都合よく待つことは違うのだと」


「お父様も、お母様も、気づいていらしたのですか」


「全部ではないわ」



 母は目を伏せた。



「でも、何度かは気づいていた。あなたが控え室で一人で帰ってきた日も、晩餐で笑いながら疲れた顔をしていた日も」


「では、なぜ」


「婚約者同士のことだし、と思ってしまったの」



 母の声には後悔があった。



「あなたならうまくやるだろうと。公爵家の娘だから、きちんと収めるだろうと。私たちも、あなたに甘えていたのね」



 胸の奥が、静かに揺れた。

 母を責めたいわけではない。

 でも、その言葉を聞けてよかったと思った。



「お母様」


「何?」


「私、臨時補佐の話を受けようと思います」



 母は驚かなかった。

 ただ、少しだけ微笑んだ。



「そう言うと思っていたわ」


「反対なさらないのですか」


「する理由がないわ」


「王家婚姻登録院です。婚姻不成立の直後に、婚姻登録の仕事をするなんて、噂になるかもしれません」


「噂は立つでしょうね」


「では」


「でも、噂があなたの人生に責任を持ってくれることはないでしょう?」



 私は顔を上げた。

 母は、少しだけいたずらっぽく笑っていた。



「昨日から、あなたのその顔を見られてうれしいの」


「どんな顔ですか」


「もう、誰かに待たされるために座っている顔ではないわ」



 私は少しだけ笑った。

 涙より先に笑えたことが、自分でも少し不思議だった。



「お父様は」


「あなたから聞きたいと思うわ」


「怒るでしょうか」


「いいえ」



 母は即答した。



「きっと、書類の条項を全部確認すると思う」


「お父様らしいですね」


「ええ。父親らしいというより、公爵らしいのだけれど」



 今度は、二人で小さく笑った。



 翌朝、父は本当に書類を最初から最後まで読んだ。

 食堂の窓から朝の光が入り、銀の食器が静かに光っている。

 父は朝食のパンにはほとんど手をつけず、王妃宮から預かった任用案を読み込んでいた。



「任期が曖昧だ」


「臨時補佐なので、最初は三月と書かれています」


「延長条件が必要だ」


「はい」


「報酬は悪くないが、王妃宮預かりなのか、婚姻登録院預かりなのかを明記させなさい」


「分かりました」


「家門干渉禁止条項はあるが、ハーグレイヴ侯爵家とロイス男爵家の名を個別に入れた方がよい」


「それもお願いするつもりです」


「職務範囲に『本人意思確認』とあるが、貴族家の当主が立ち会う場合の権限が弱い。上申先を明記させなさい」


「はい」



 私は頷きながら、少しだけ胸が軽くなるのを感じていた。

 父は止めない。


 心配はしている。

 でも、私を机から遠ざけるのではなく、私が座る机を強くしようとしてくれている。

 それが、嬉しかった。



「アリシア、基本的に心配はしていないのだが……」


「はい」


「本当に受けたいのだな」


「はい」


「昨日のことから逃げるためではなく」


「はい」


「ディオン殿への当てつけでもなく」


「はい」


「自分の役目として」


「はい」



 父は書類を閉じた。

 しばらく私を見て、それから深く頷く。



「なら、行きなさい」


「ありがとうございます」


「ただし、書類は一字一句確認してから署名しなさい」


「もちろんです」


「それから」


「はい」


「無理をするな」



 短い言葉だった。

 けれど、その中に父の心配が全部入っていた。



「はい」



 私は答えた。

 今度は、きちんと。



 王家婚姻登録院は、王宮南棟と大神殿の間にある石造りの建物だった。


 派手な場所ではない。

 だが、人の出入りは多い。


 貴族家の代理人。

 神殿職員。

 婚姻登録に関わる書記官。

 手にはそれぞれ書類を持ち、廊下の掲示板には今日の登録予定が並んでいる。


 私はミレーヌ女官長に案内され、二階の確認室へ向かった。

 そこには、すでにヴィクトル様がいた。


 深い紺の上着に、銀の徽章。

 昨日の神殿礼装よりも実務向きの装いだった。



「アリシア・エルヴェイン公爵令嬢」


「はい」


「昨日の任用案について、返答を伺います」


「お受けいたします」



 私は持参した書類を机の上へ置いた。



「ただし、いくつか追記をお願いいたします」


「言ってください」



 即答だった。

 あまりにも当然のように言うので、私は少しだけ瞬きをした。



「まだ内容を聞いていらっしゃいません」


「昨日、条件が必要だと言っていました」


「はい」


「必要な条件を出すために、一晩置いたのでしょう」


「そうです」


「では、聞きます」



 その返事が、とてもヴィクトル様らしくて、私は少しだけ笑った。

 ミレーヌ女官長が、横で口元をほんの少し緩める。

 登録院の上級書記官も、すでにペンを構えていた。


 誰も、私が条件を出すことに驚かない。

 それだけで、ここが昨日までの私の場所とは違うのだと分かった。



「第一に、任期は三月。ただし延長する場合は、私本人の同意と王妃宮の再承認を必要としてください」


「認めます」


「第二に、報酬の支払元は王家婚姻登録院と明記してください。私の家、またはどこかの貴族家からの謝礼では困ります」


「当然です」


「第三に、職務範囲は、婚約式および婚姻式における本人意思確認、出席確認、延期または不成立確認に関する手続き補助、記録照合。式全体の演出や、家同士の交渉には関与しないと明記してください」


「よい線引きです」



 ヴィクトル様が、上級書記官へ視線を向ける。

 書記官はすぐに書き込んだ。



「第四に、エルヴェイン公爵家、ハーグレイヴ侯爵家、ロイス男爵家から、私の職務への私的干渉を禁じる条項を入れてください」


「三家の名を個別に」


「はい」


「認めます」


「第五に、私が判断に迷う事案は、王家婚姻登録院監督官または王妃宮女官長へ上申すること。私個人が独断で不成立を決める権限は持たないこと」



 ヴィクトル様の目が、少しだけ動いた。



「重要な条件です」


「はい」


「あなたがすべてを背負わないためですね」


「それもあります」


「ほかには」



 私は一度だけ息を吸った。



「最後に、私を、昨日婚約を失った令嬢としてではなく、臨時補佐として扱うこと」



 部屋が静かになった。

 でも、嫌な沈黙ではなかった。

 ヴィクトル様は、すぐに答えた。



「認めます」


「ありがとうございます」


「いえ」



 彼は静かに言った。



「こちらが必要とする人材として、あなたを任用します」



 必要。

 その言葉を聞くたびに、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 昨日まで、私は待たされる側だった。

 今日、私は必要とされる側に立とうとしている。

 それは、思っていたよりずっと怖くて、ずっと嬉しい。


 上級書記官が、追記された任用書を清書した。


 紙の上に、私の名が記される。

 アリシア・エルヴェイン。

 王家婚姻登録院、臨時補佐。


 その下に、任期と職務範囲と報酬。

 そして、家門干渉禁止条項。


 私は一行ずつ確認した。

 父の言葉どおり、一字一句。

 それから、ペンを取った。



 昨日、私は不成立確認書に署名した。

 今日、私は任用書へ署名する。


 同じ名前。

 でも、意味は違う。


 昨日の署名は、終わらせるため。

 今日の署名は、始めるため。



 アリシア・エルヴェイン。



 書き終えると、ヴィクトル様が監督官印を押した。

 ミレーヌ女官長が王妃宮確認印を添える。


 上級書記官が控えを作る。

 手続きは、静かに、正確に進んだ。



「ようこそ、王家婚姻登録院へ」



 ヴィクトル様が言った。



「ありがとうございます」


「最初の仕事を説明します」


「もうですか」


「臨時補佐として署名しました」


「はい」


「勤務開始日も本日です」


「たしかに」



 私は思わず笑ってしまった。

 ヴィクトル様は真面目な顔のままだった。



「疲れているようなら、半日休務にします」


「いいえ」



 私は首を振った。



「始めます」


「分かりました」



 ヴィクトル様は一枚の薄い資料を出した。



「明後日、下級貴族の婚約式があります。大きな家同士ではありませんが、少し問題が出ています」


「どのような」


「花嫁側の叔父が、本人の意思確認を省きたいと申し出ています」


「省く?」


「体が弱く、人前で話すと緊張するから、家が代わりに返答すると」



 私は資料へ視線を落とした。

 花嫁名。

 花婿名。

 家格。

 式場。

 出席予定者。


 そして、本人意思確認省略希望。



「本人は、署名できますか」


「できます」


「声は出せますか」


「出せます」


「では、省く理由はありません」


「私もそう思います」



 ヴィクトル様は頷いた。



「ただし、家側はかなり強く求めています。花嫁本人が何を望んでいるのかを、式前に確認する必要があります」


「それを、私が?」


「あなた一人で行うのではありません」



 その言葉に、私は顔を上げた。

 ヴィクトル様は続ける。



「ミレーヌ女官長、登録院の女性書記官、神殿の女性神官が同席します。あなたは、昨日の経験を踏まえ、本人が待たされる側になっていないかを見る補佐です」


 ひとりではない。

 その言葉は、はっきり言われたわけではない。


 けれど、説明全体から伝わってきた。

 ここでは、私がすべてを背負うわけではない。

 組織があり、役目があり、上申先がある。



「承知しました」


「今日の午後、その花嫁本人と面談します」


「はい」


「無理なら」


「やります」


「では、十分後に始めます」


「十分後ですか」


「急がない方がいいですか」


「いいえ」



 私は資料を手に取った。



「十分いただければ、読みます」



 ヴィクトル様の口元が、ほんのわずかに動いた。



「あなたらしい」


「まだ、私らしさをご存じないでしょう」


「昨日から、少しは見ています」


「それは困ります」


「困る程度に覚えておくと言いました」


「そうでしたね」



 私は資料へ目を落としながら、少しだけ笑った。


 ここで笑えることが、不思議だった。

 婚約式が不成立になって、まだ二日目。


 痛みは消えていない。

 それでも、私は新しい机の前に立っている。


 自分で選んだ時間の中で。



 十分後、面談室へ入る前に、私は廊下の窓から外を見た。

 王宮の庭には、淡い黄色の花が咲いている。

 昨日も見た花だった。


 あの時より、少しだけ色が濃く見える。



 私はもう、誰かに待たされるために座っている令嬢ではない。


 待つかどうかを、私が決める。

 そして今は。

 誰かが、本人の意思を奪われたまま式へ立たされないように、確認する側へ回る。


 それが、今日の私の役目だった。



「アリシア嬢」



 ヴィクトル様が呼ぶ。



「はい」


「準備は」


「できています」


「では、始めましょう」



 私は頷き、面談室の扉へ向かった。

 昨日閉じた扉とは違う。



 今日開けるのは、私自身の仕事の扉だった。

読んでいただきありがとうございます。


第七話は明日18:10に投稿予定です。

アリシアの王家婚姻登録院での初仕事に入ります。


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