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婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました【連載版】  作者: 本城オブリゲータ


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第五話 王妃宮は、待たされる令嬢を放置しません

 翌朝、私は王妃宮へ向かった。



 婚約式用の白いドレスではない。

 淡い灰紫の訪問着だった。


 母が何も言わずに選んでくれたものだ。

 白ではない。

 けれど、喪服でもない。


 終わったものを悼みながら、それだけで一日を終わらせないための色だった。



 馬車の向かいには、父が座っている。

 母は私の隣で、手袋をはめた私の手をそっと握っていた。



「無理をしなくていいのよ」



 母が言った。

 昨日、神殿ではほとんど泣かなかった母の声が、今朝は少しだけ揺れている。



「分かっています」


「本当に?」


「はい」



 私は少しだけ笑った。



「今日は、婚約式ではありませんから」



 母は一瞬だけ顔を歪め、それから私の手を強く握った。

 父は窓の外を見たまま、低く言う。



「今日は、確認のための呼び出しだ」


「はい」


「お前を責める場ではない」


「はい」


「それでも、何かあれば私が止める」



 その言葉に、胸の奥が温かくなる。

 昨日、父は私を止めなかった。

 今日は、必要なら止めると言ってくれる。


 その違いが、今の私にはありがたかった。



 王宮の南棟にある王妃宮は、朝の光を受けて静かだった。

 舞踏会の時のような華やかさはない。


 白い回廊。

 低い声で動く女官たち。

 余計な足音のない、整った場所。

 私はそこで、王妃宮女官長ミレーヌに迎えられた。



「エルヴェイン公爵、エルヴェイン公爵夫人、アリシア様。お待ちしておりました」


「王妃殿下は」


「すでに確認室にてお待ちです」



 確認室。

 茶会の間ではない。

 慰めのための小部屋でもない。


 その名前だけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。

 今日は私を哀れむために呼ばれたのではない。

 昨日の婚約不成立を、正式に整理するために呼ばれたのだ。



 部屋へ入ると、王妃セレーネ殿下が座っていた。

 淡い金の髪を高く結い、深い青のドレスをまとっている。


 やわらかな美しさのある方だが、その目はただ優しいだけではない。

 家同士の婚約、神殿での誓約、貴族社会で起きる揉め事。

 そういうものを長年見てきた目だった。


 王妃殿下の右には、ヴィクトル・レオニス大公子。

 王家婚姻登録院の監督官として、昨日も神殿にいた方だ。


 左には、婚姻登録院の上級書記官。

 机の上には、昨日の不成立確認書、神殿医師の診断書、ロイス男爵家への注意書草案、ハーグレイヴ侯爵家への請求予定書が並んでいた。



 王妃殿下が、私を見る。



「アリシア・エルヴェイン」


「はい、王妃殿下」


「昨日は、よく立っていましたね」



 慰められたのではない。

 ただ、そう見ていたと言われた。

 それだけで、胸の奥が少し痛む。



「ありがとうございます」


「まず、あなたに確認します」



 王妃殿下の声が、少しだけ公的なものへ変わる。



「昨日の婚約不成立確認は、あなたの意思によるものですね」


「はい」


「延期ではなく、不成立を選んだ」


「はい」


「ディオン・ハーグレイヴが定刻に不在であり、規定の半刻を過ぎても戻らなかったため」


「はい」


「その判断に、父君または母君からの強制はありませんでしたか」


「ありません」


「ハーグレイヴ侯爵家への報復としてではなく、正式婚約式に誓約者が出席しなかった事実に基づく判断ですね」


「はい」


「分かりました」



 王妃殿下が、上級書記官へ視線を向ける。



「記録を」


「はい」



 書記官のペンが、紙の上を走る。

 その音を聞いて、昨日と同じように少しだけ胸が軽くなった。


 記録される。

 誰かの噂や同情ではなく、事実として残る。

 それは、私が思っていた以上に心強いことだった。



 王妃殿下は、次に父へ向き直った。



「エルヴェイン公爵」


「はい」


「公爵家として、昨日の婚約不成立確認を受け入れますか」


「受け入れます」


「娘に瑕疵なし、という記録について」


「王妃宮および王家婚姻登録院の正式記録として残すことを求めます」


「認めます」



 王妃殿下は即答した。



「アリシア・エルヴェインに瑕疵なし。婚約不成立の理由は、ディオン・ハーグレイヴの式不在によるもの。王妃宮としても、その記録を支持します」



 母の指が、膝の上でぎゅっと握られるのが見えた。

 私は目を伏せる。

 泣かない。

 でも、泣きそうにはなった。


 昨日からずっと、私は強かったわけではない。

 ただ、泣くより先にすることがあっただけだ。



「次に、ハーグレイヴ侯爵家への対応です」



 ヴィクトル様が書類を一枚取った。



「神殿費用、参列者への詫び状、王妃宮進行費、婚約不成立に伴う違約金は、ハーグレイヴ侯爵家負担とします」



 父は頷いた。



「当然でしょう」


「また、ディオン・ハーグレイヴ本人については、当面、家の婚姻協議代理権を停止。王家婚姻登録院による再教育を受けるまで、正式婚約式の誓約者としての新規申請は保留扱いとします」


「妥当です」



 私はそこで少しだけ顔を上げた。

 新規申請は保留。

 つまり、彼がすぐ別の婚約式を行うことはできない。


 昨日のことが、ただの失恋や遅刻で済まされないのだと、改めて分かった。



「ロイス男爵家については」



 ミレーヌ女官長が、別の書面を置いた。



「正式儀式当日の私的呼び出しに関する注意書を送付します。セシリア・ロイス令嬢の病弱さを責めるものではありません。ただし、以後、体調不良や不安がある場合は、主治医、神殿医師、または王妃宮指定の連絡役を通すこと。誓約者本人への直接の呼び出しは控えること」


「男爵家は受け入れを?」



 父が問う。

 ヴィクトル様が答えた。



「昨夜、受諾の返答が届いています」


「早いですね」


「早くなければ困ります」



 その返事があまりにも当然のようだったので、私は少しだけ笑いそうになった。

 ヴィクトル様は、こちらを見ないまま続ける。



「なお、セシリア令嬢には、王妃宮指定の相談役をつけます。病弱な令嬢への配慮を怠るつもりはありません」



 王妃殿下が静かに頷いた。



「病弱な者を見捨てることと、病弱さを理由に他人の人生を動かすことは違います」



 その言葉は、昨日私が言った言葉と同じ場所に届いた。

 王妃殿下は、私を見た。



「あなたが昨日言ったことは正しい」


「……ありがとうございます」


「病弱であることは、誰かの時間を奪う許可ではありません」



 その一文が、王妃殿下の口から出た瞬間、部屋の中の空気が少しだけ締まった。

 私個人の痛みだったものが、公的な言葉になった。

 そう感じた。



「王妃宮は、待たされる令嬢を放置しません」



 王妃殿下は言った。



「待つことが美徳である場もあります。けれど、本人の意思なく待たされることを、美徳として扱うつもりはありません」



 母が小さく息を吸った。

 父も、深く頷く。



「アリシア」



 王妃殿下が、改めて私を呼んだ。



「はい」


「あなたは昨日、婚約式を壊したのではありません」



 私は何も言えなかった。



「来なかった者がいた。そして、あなたは延期ではなく不成立を選んだ。それだけです」


「はい」


「ただし、その選択は軽くありません」


「分かっています」


「軽くない選択を、あなたは正しい手続きで行いました」



 王妃殿下の目が、ほんの少しだけやわらぐ。



「それを、私は評価します」



 評価。

 慰めではなく。

 同情でもなく。


 評価。

 その言葉で、胸の奥にあった痛みが、少しだけ別の形になった気がした。



「ありがとうございます」


「そこで、相談があります」



 王妃殿下がヴィクトル様へ視線を向ける。

 ヴィクトル様が、一枚の書類を私の前へ置いた。


 まだ署名はされていない。

 題名だけが見える。


 王家婚姻登録院 臨時補佐任用案。



「……臨時補佐、ですか」


「はい」



 ヴィクトル様が答える。



「王家婚姻登録院では、近年、両家の内約と正式婚約の区別が曖昧に扱われる事例が増えています」


「曖昧に」


「社交上は婚約者として扱われているが、正式登録はまだ。その状態で片方の家が強引に話を進める。あるいは、本人の出席や意思確認が軽んじられる。昨日の件も、その一つです」



 私は書類を見つめた。

 昨日のことは、私個人の不運だけではなかった。

 制度の隙間に、私の我慢が乗せられていたのだ。



「登録院には職員がいます」



 ヴィクトル様は続ける。



「神殿にも、王妃宮にも、それぞれ担当者がいます。ですが、貴族家の私情が絡むと、正式手続きの前に“まあ今回だけは”という圧力がかかることがあります」


「今回だけは」


「それが積み重なると、規定は意味を失います」


「はい」


「あなたは昨日、その“今回だけ”を止めた」



 ヴィクトル様の声は、いつも通り淡々としている。

 けれど、言葉の一つ一つは重かった。



「王妃殿下と登録院は、あなたに臨時補佐として関わっていただきたいと考えています」


「私が、ですか」


「はい」


「なぜでしょう」


「あなたが婚約不成立を経験したから、ではありません」



 私は顔を上げた。

 ヴィクトル様は、まっすぐ私を見ていた。



「あなたが、規定を読んでいたからです」


「……」


「半刻待機、延期、不成立確認、公証人の記録、瑕疵なしの確認。昨日あなたは、感情だけで動かなかった」


「それは、自分を守るためでした」


「自分を守るために規定を使える人は、他人の式も守れます」



 その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。

 他人の式を守る。

 今朝まで、そんなことを考えたことはなかった。


 私はただ、自分の婚約式を終わらせただけだと思っていた。



「アリシア」



 王妃殿下が言った。



「あなたに気の毒な令嬢として席を用意するつもりはありません」


「はい」


「王妃宮の飾りにも、登録院の宣伝にもするつもりはありません」


「はい」


「必要だから、声をかけています」



 必要。

 その言葉は、私の胸へ静かに落ちた。


 誰かの婚約者としてではなく。

 誰かに捨てられた令嬢としてでもなく。

 必要な人間として。



「お受けする前に、確認してもよろしいでしょうか」


「もちろん」



 王妃殿下が微笑む。

 ヴィクトル様も、わずかに頷いた。



「まず、臨時補佐の職務範囲を文書で明確にしてください」


「当然です」



 ヴィクトル様が即答する。



「婚約式の進行そのものを仕切るのか、本人意思の確認に関わるのか、記録の照合を担当するのか。どこまでが私の役目なのかが曖昧では困ります」


「明記します」


「次に、任期と報酬を明記してください」


「当然です」


「公爵家の娘だから無償で手伝う、という形にはしないでください」


「そのような扱いはしません」


「三つ目に、私の家、ハーグレイヴ侯爵家、ロイス男爵家から、私の職務に口を出せないようにしてください」


「それも明記します」


「四つ目に」



 私は少しだけ言葉を止めた。


 王妃殿下も、ヴィクトル様も、待っている。

 急かさない。

 私の言葉が形になるのを待ってくれている。



「私を、婚約を失った保護対象の令嬢として扱わないでください」



 部屋が静かになった。

 父が私を見る。

 母も。

 私は、最後まで言った。



「昨日の私は傷つきました。けれど、それは職務の理由にはしないでください」



 ヴィクトル様は、すぐに答えた。



「あなたは保護対象ではありません」


「はい」


「王家婚姻登録院の臨時補佐として、必要な人材です」



 その言葉は、短かった。

 けれど十分だった。



「返事は、今日でなくても構いません」



 王妃殿下が言った。



「あなたは昨日、大きなものを終わらせたばかりです。返事は一晩置きなさい」


「お心遣い、ありがとうございます」


「心遣いでもありますが、手続き上もその方がよいでしょう」



 その言い方が、どこかヴィクトル様に似ていて。

 私は少しだけ笑ってしまった。

 王妃殿下が目を細める。



「笑えるなら、少し安心しました」


「失礼いたしました」


「いいえ。笑いなさい。泣くか笑うかを、あなた自身で決められるうちは大丈夫です」



 その言葉に、今度こそ目の奥が熱くなった。

 母がそっと私の背に手を添える。


 父は何も言わない。

 けれど、隣にいてくれる。



 確認が終わると、父と母は王妃殿下へ深く礼をした。

 私も一礼する。

 退出しようとしたところで、ヴィクトル様が控え室の外まで案内してくれた。


 王妃宮の廊下は、朝より少し明るく見えた。



「アリシア嬢」


「はい」


「昨日の記録は、本日中に登録院の正式記録へ移します」


「ありがとうございます」


「あなたの瑕疵なしの文言も、必ず残します」


「はい」


「それから」



 ヴィクトル様は、少しだけ間を置いた。



「昨日、あなたは捨てられたわけではありません」



 私は足を止めた。

 彼は、いつもの静かな目で続ける。



「終わらせるべき時刻を、自分で選んだのです」



 その言葉は、昨日も似た形で聞いた。

 けれど、今は昨日より深く届いた。


 捨てられた。

 置いていかれた。

 待たされた。


 たしかに、それは事実の一部だ。


 でも、それだけではなかった。

 最後に終わらせたのは、私自身だった。



「その言葉も、記録に残りますか」


「残しません」


「よかったです」


「私の記憶には残ります」


「それは少し困ります」


「では、困る程度に覚えておきます」



 私は、今度ははっきり笑った。

 廊下で笑う声としては小さかったけれど、自分でも分かるくらい自然だった。



「ヴィクトル様」


「はい」


「あなたは、本当に慰めがお上手ではありませんね」


「改善します」


「いえ」



 私は首を振った。



「そのままで、少し助かっています」



 ヴィクトル様は、ほんのわずかに目を細めた。

 それだけだった。

 けれど、その表情を見て、胸の奥に小さな温かさが残った。


 馬車へ戻る前に、私は王宮の庭を少しだけ見た。

 春の花が咲いている。

 昨日の神殿の白い花とは違う、淡い黄色の花だった。


 婚約式は終わった。

 成立しないまま。

 私の白いドレスも、青い封蝋も、しばらく忘れられないだろう。


 けれど、今日、別の書類が差し出された。

 臨時補佐任用案。

 誰かを待つためではなく、誰かが正しく誓える場を守るための役目。



 返事は、まだしない。

 待つのではない。

 考えるのだ。



 私が、私の時間で。

読んでいただきありがとうございます。


第六話は明日18:10に投稿予定です。

アリシアが自分の返事を決め、王家婚姻登録院での新しい役目に進みます。


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