第三十一話 あなたの隣ではなく、あなたと同じ時刻に立ちます
セレスティア王女殿下の婚姻式から三日後。
私は、王家婚姻登録院の確認室で、式後記録の最後の控えに署名していた。
王女殿下とアルフォンス様の婚姻式は、正式に成立。
本人意思確認、誓約、神殿祝福、王家婚姻登録院の記録、外交祝辞、双花冠の披露。
すべて、予定どおり終わった。
政務局からも、東方連盟使節団が王国の儀礼手順を高く評価したという報告が届いている。
外交上も成功。
神殿上も問題なし。
登録院の記録上も、欠けなし。
これ以上ない結果だった。
けれど、私の中には、まだあの鐘の音が残っていた。
二人が神殿前室でそろった時に鳴った鐘。
婚姻式の始まりを告げる、澄んだ音。
あの音を聞いた時、私は初めて、自分の中に残っていた別の鐘と向き合えた気がした。
鳴らなかった婚約式の鐘。
あの日、私はひとりで神殿に立った。
そして今度は、二人そろって鳴る鐘を見届けた。
その違いが、痛みではなく、希望として胸に残っている。
「アリシア補佐」
ユリア書記官が、私の前に薄い封書を置いた。
「こちら、王妃宮からです」
「王妃殿下から?」
「はい」
封を開けると、中には王妃殿下の短い招き状が入っていた。
明日午後二刻、王妃宮小庭へ。
仕事ではありません。
ただし、少し大切な確認があります。
私は、その最後の一文を見て、しばらく止まった。
仕事ではない。
少し大切な確認。
この二つが並ぶと、どうにも胸が落ち着かない。
「ユリアさん」
「はい」
「これは、仕事ではないと書いてあります」
「そのようですね」
「でも、確認があるとも書いてあります」
「王妃宮らしいです」
「登録院にも似ていませんか」
「否定はしません」
私は招き状を畳んだ。
胸の奥が、少しだけ騒いでいる。
嫌な感じではない。
むしろ、どこか予感のようなものだった。
「ヴィクトル様は、ご存じでしょうか」
「おそらく」
「おそらく?」
「本日、朝から少し落ち着きがありません」
私は思わず顔を上げた。
「ヴィクトル様が?」
「はい」
「分かるのですか」
「資料の角を三度揃え直していました」
「それは、落ち着きがないのですか」
「監督官としては、かなり」
ユリアは真顔で言った。
その判断基準があまりにも登録院らしくて、私は少し笑ってしまった。
その時、確認室の扉が開いた。
ヴィクトル様が入ってくる。
いつも通りの深い紺の上着。
いつも通りの静かな顔。
けれど、手に持っている資料の角は、確かにいつもよりきれいすぎるくらい揃っていた。
「アリシア嬢」
「はい」
「王妃宮からの招き状は」
「いただきました」
「そうですか」
「明日、仕事ではない確認があると」
「はい」
ヴィクトル様はそこで一度黙った。
いつもなら、すぐに説明が続く。
けれど今日は、言葉を選んでいるようだった。
「ヴィクトル様」
「はい」
「あなたも関わっていらっしゃいますか」
「はい」
「それは、私が今聞いてもよいことですか」
「明日、王妃殿下の前で確認した方がよいことです」
「そうですか」
「ただし」
彼は少しだけ目を伏せた。
「あなたに不意打ちをするつもりはありません」
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
不意打ちではない。
この人は、いつもそうしてくれる。
何かが大きく動く前に、私に心の準備をさせてくれる。
「では、明日は私の意思で伺います」
「はい」
「怖い話ではありませんか」
「怖いかどうかは、あなたが決めることですが」
ヴィクトル様は、真面目に答えた。
「私は、あなたにとって悪い話にはしたくありません」
頬が熱くなった。
そういう言い方を、最近この方は少しずつするようになった。
不意に。
淡々と。
けれど、まっすぐに。
「分かりました」
「はい」
「では、明日」
「明日」
短いやりとりだった。
でもその日、私はいつもより少しだけ仕事の文字を読むのに時間がかかった。
翌日、王妃宮の小庭には、いつもの茶卓が用意されていた。
けれど、いつもの仕事外の茶とは少し違う。
卓の上には、茶器のほかに、薄い書面が三通置かれている。
一つは、王妃宮の封蝋。
一つは、レオニス大公家の封蝋。
もう一つは、エルヴェイン公爵家の封蝋だった。
王妃殿下は、すでに席についていらした。
隣にはミレーヌ女官長。
少し離れた場所に、父と母。
さらにその向かいに、ヴィクトル様とレオニス大公家の家令。
私は足を止めた。
思っていたより、正式な場だった。
けれど、王妃殿下は穏やかに微笑む。
「アリシア、こちらへ」
「はい」
私は一礼し、席へ進んだ。
父と母がいることに驚きはした。
けれど、心配はなかった。
父はいつものように厳しい顔をしているが、怒っているわけではない。
母は、少しだけ目元を潤ませている。
その表情で、何となく今日の確認の方向は分かった。
「今日は、仕事ではないとお知らせしました」
王妃殿下が言った。
「はい」
「ですが、あなたの人生に関わることなので、形は整えます」
「承知しております」
「まず、確認します」
王妃殿下の声が、少しだけ公的なものになる。
けれど、婚姻登録院の面談のような硬さではない。
大切なものを丁寧に置くための声だった。
「アリシア・エルヴェイン。あなたは現在、王家婚姻登録院特別補佐官として正式に任用されています」
「はい」
「その職務は、本人の意思に反して奪われるものではありません」
「はい」
「エルヴェイン公爵家も、それを認めていますね」
父が頷いた。
「認めております」
「レオニス大公家も」
大公家の家令が一礼する。
「認めております」
「では、次です」
王妃殿下は、ヴィクトル様へ視線を向けた。
「ヴィクトル・レオニス」
「はい」
「あなたの意思を」
ヴィクトル様が立ち上がった。
その動きは、いつも通り静かだった。
けれど、ほんの少し緊張しているのが分かった。
資料の角を揃え直す時のように。
普段の彼なら見せないほど、小さな硬さがある。
「アリシア・エルヴェイン嬢」
「はい」
「私は、あなたとの婚約を望んでいます」
胸が、強く鳴った。
分かっていた。
今日の場を見れば、きっとそうなのだろうと思っていた。
それでも、本人の口から聞くと、まったく違う。
婚約。
その言葉に、かつての痛みが全くよみがえらないわけではない。
白い神殿。
鳴らなかった鐘。
遅すぎた足音。
それでも今、目の前にいる人は違う。
私に向かって、私の時間を奪わない形で、その意思を置いている。
「ただし」
ヴィクトル様は続けた。
「あなたが職務を辞めることを望みません」
父がわずかに頷いた。
母が静かに息を吸う。
「あなたが王家婚姻登録院特別補佐官であることを、私は尊重します」
「はい」
「もし将来、婚約後または婚姻後に調整が必要になる場合は、あなた本人、エルヴェイン公爵家、レオニス大公家、登録院、王妃宮で協議します」
「はい」
「あなたの時刻を、私や大公家の都合で勝手に動かしません」
「はい」
「あなたの返事を、今日この場で急がせるつもりはありません」
「……はい」
「けれど、私の意思を曖昧にしたまま、これ以上あなたの時間をいただくことも不誠実だと考えました」
ヴィクトル様は、まっすぐ私を見る。
「私は、あなたと同じ時刻に立つ未来を望んでいます」
その言葉で、目の奥が熱くなった。
同じ時刻に立つ。
それは、私が一番欲しかったものだ。
誰かの隣に置かれることではない。
誰かを待ち続けることでもない。
同じ時刻に立つこと。
「ですから」
彼は、静かに言った。
「あなたがいつか婚約式の鐘を望むなら、その時、私を隣に立つ相手として選んでいただけないでしょうか」
小庭に、風が通った。
白い花が、少し揺れる。
誰も急かさない。
父も、母も、王妃殿下も、ミレーヌ女官長も、レオニス大公家の家令も。
全員が、私の返事を待っている。
けれど、それは私を追い詰める待ち方ではなかった。
私の言葉が出る場所を守るための沈黙だった。
私は、自分の胸に手を当てた。
怖さはある。
ないとは言えない。
婚約という言葉には、まだ過去の影が少し残っている。
けれど、それ以上に、今ここで感じているものがあった。
安心。
信頼。
そして、嬉しさ。
「ヴィクトル様」
「はい」
「私は、かつて婚約式の鐘が鳴らなかった人間です」
「はい」
「そのことは、消えません」
「はい」
「今でも、少し怖いです」
「はい」
「ですが」
私は、ゆっくり息を吸った。
「あなたとなら、もう一度その鐘の下へ立ってみたいと思っています」
ヴィクトル様の目が、ほんのわずかに揺れた。
私は続けた。
「ただし、私はあなたの隣に置かれるだけの人間にはなりません」
「もちろんです」
「あなたの家の飾りにもなりません」
「はい」
「仕事を辞めません」
「はい」
「私の時間を、私のものとして扱ってください」
「必ず」
「そして」
私は、少しだけ笑った。
「候補日は、一回分ずつにしてください」
王妃殿下が、声を立てずに笑った。
母も扇で口元を押さえ、父は咳払いをした。
ヴィクトル様は、きわめて真面目な顔で頷いた。
「厳守します」
その返事で、私も笑ってしまった。
涙が少し滲んだ。
けれど、それは悲しい涙ではなかった。
「それなら」
私は言った。
「私は、あなたとの婚約へ進むことを望みます」
言い切った瞬間、小庭の空気がふっとやわらかくなった。
母が目元を拭う。
父が深く息を吐く。
王妃殿下が、満足げに頷く。
ヴィクトル様は、しばらく私を見ていた。
そして、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「私の意思で答えました」
「はい」
「返答は、記録されますか」
思わずそう聞くと、ヴィクトル様は少しだけ口元を動かした。
「希望されるなら」
「登録院ではなく」
「はい」
「今日は、私たちの記憶で十分です」
「承知しました」
そこで王妃殿下が、楽しそうに言った。
「ですが、家同士の記録は残します」
「王妃殿下」
「当然でしょう。婚約へ進む意思確認ですもの」
ミレーヌ女官長が、すでに書面を用意していた。
やはり、こういう場なのだ。
私は少し笑いながら、用意された確認書に目を通した。
アリシア・エルヴェインは、ヴィクトル・レオニスとの婚約協議へ進む意思を示す。
ヴィクトル・レオニスは、アリシア・エルヴェインの職務、時間、本人意思を尊重することを確認する。
両家は、今後の婚約協議において、本人意思確認を最優先する。
婚約式日程は、本人双方の同意により改めて定める。
私は一行ずつ読んだ。
問題はない。
父も確認し、母も頷く。
大公家の家令も署名欄を確認する。
「では、署名を」
ミレーヌ女官長がペンを差し出した。
まず、ヴィクトル様。
次に、私。
アリシア・エルヴェイン。
不成立確認書に書いた名。
任用書に書いた名。
要綱に残った名。
そして今、婚約協議へ進む意思確認書に書く名。
同じ名前なのに、今日の線は少しだけ柔らかかった。
最後に、父とレオニス大公家の家令が家として確認印を押す。
王妃殿下は立会人として署名された。
「これで、婚約協議へ進む意思確認は成立です」
王妃殿下が言った。
「おめでとう、アリシア」
「ありがとうございます」
「ヴィクトルも」
「ありがとうございます」
「あなたたちの婚約式は、きっと時刻表が完璧でしょうね」
「王妃殿下」
ヴィクトル様が少し困った声を出す。
私は思わず笑った。
「いえ、そこは少し心配です」
「なぜですか」
ヴィクトル様がこちらを見る。
私は笑いをこらえながら言った。
「完璧すぎる時刻表を作りそうです」
「……改善します」
「全部改善事項になるのですね」
「はい」
小庭に、穏やかな笑いが広がった。
婚約協議の場で、こんなふうに笑えることが不思議だった。
けれど、とても嬉しかった。
茶が注がれた。
今日は、甘すぎない焼き菓子ではなく、少しだけ甘い祝い菓子だった。
母が選んだらしい。
ヴィクトル様は、それを慎重に一つ取る。
「甘いですか」
私が尋ねると、彼は少しだけ考えた。
「今日は、ちょうどよいと思います」
「本当ですか」
「はい」
「お祝いだから?」
「はい」
その返事が、少しだけ可愛らしく聞こえてしまって、私はまた笑った。
ヴィクトル様も、ほんの少しだけ笑う。
父はそれを見て、何とも言えない顔をしていた。
母はとても満足そうだった。
茶の後、父と母は王妃殿下へ礼を述べ、大公家の家令と今後の連絡手順を確認した。
私は少し離れた小道へ出た。
ヴィクトル様も、許可を得て隣に来る。
「アリシア嬢」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「私の意思で答えました」
「はい」
「でも、少し緊張しました」
「私もです」
「資料の角は」
「今朝、五回揃え直しました」
「それは、かなりですね」
「はい」
私は笑った。
ヴィクトル様は真面目に頷く。
「婚約式の日程は、急がなくてよいです」
「はい」
「あなたの仕事も、王女殿下の婚姻式後の処理も、要綱の運用もあります」
「はい」
「それから、王宮北庭の散歩も」
「忘れていません」
「仕事に関係のない本も」
「用意しています」
「今度は何の本ですか」
「鳥ではありません」
「少し残念です」
「花の本です」
「神殿装飾用では?」
ヴィクトル様が黙った。
私は目を細める。
「ヴィクトル様」
「一部、神殿装飾に使われる花が載っています」
「仕事では?」
「ミレーヌ女官長の判定は、七割仕事ではない、です」
「微妙です」
「改善します」
「でも、見たいです」
そう言うと、ヴィクトル様の表情が少しだけやわらいだ。
「では、持っていきます」
「はい」
私たちは、小庭の端で立ち止まった。
白い花と、淡い黄色の花。
風に揺れる葉。
遠くで、王宮の鐘が小さく鳴った。
婚約式の鐘ではない。
ただの時刻を告げる鐘。
けれど、私はもうその音を怖いとは思わなかった。
「アリシア嬢」
「はい」
「いつか、私たちの婚約式の日」
「はい」
「私は、時刻より少し早く行きます」
「早すぎない程度に?」
「はい」
「そして、私が来るまで待ってくださいますか」
「待ちます」
「よい待ち方で?」
「もちろん」
彼は静かに言った。
「あなたが自分の意思で来る時間を、待ちます」
胸の奥が、あたたかく満ちる。
それは、あの日とは違う待つだった。
私を当然のように置き去りにする待つではない。
私の意思が届く時刻を守るための待つ。
「では」
私は言った。
「私も、同じ時刻に立てるように行きます」
「はい」
「あなたの隣に置かれるためではなく」
ヴィクトル様が、静かに私を見る。
私は、はっきり言った。
「あなたと同じ時刻に立つために」
彼は、ゆっくり頷いた。
「はい」
その返事だけで、十分だった。
私は、もう待たされる令嬢ではない。
誰かの隣へ置かれるためだけの女でもない。
仕事を持ち、席を持ち、自分の時間を持ったまま。
同じ時刻に立ちたい人を、自分で選んだ。
婚約式の鐘は、まだ先だ。
けれど、もう怖くない。
その鐘が鳴る時、私はきっと、ひとりではない。
読んでいただきありがとうございます。
第三十一話では、アリシアとヴィクトルが婚約協議へ進む意思を確認しました。
次回、最終話です。
かつて鳴らなかった婚約式の鐘と、アリシアが選び直した未来を回収して完結となります。
最後までお付き合いいただけましたら嬉しいです。




