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婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました【連載版】  作者: 本城オブリゲータ


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第三十話 今度の鐘は、二人そろって聞きます

 セレスティア王女殿下とアルフォンス・アストリア様の婚姻式当日。


 聖アリア神殿の朝は、驚くほど静かだった。


 白い石の回廊には、花も、布も、銀の燭台も、すでに整えられている。


 けれど、誰も浮かれていない。


 神殿職員も、王妃宮の女官も、近衛も、登録院の書記官も、それぞれの位置で静かに動いていた。


 王女殿下の婚姻式。


 国王陛下と王妃殿下、諸侯、神殿代表、外国使節、アストリア公爵家。


 これほど多くの人が関わる儀式であるにもかかわらず、空気は乱れていない。


 むしろ、緊張がきちんと形になっている。


 それが分かるだけで、私は少しだけ息がしやすくなった。



 私の手元には、特別配慮表の最終版がある。


 待機負担者。


 意思負担者。


 待機上限。


 代替手段。


 休止時の再開条件。


 記録担当。


 以前なら、婚姻式の裏にそんな欄があるとは誰も思わなかっただろう。


 今は違う。


 誰かの時刻が動く時。


 誰かの意思が政治や家の都合に隠れそうな時。


 その負担を見える形にするため、表が置かれている。



「アリシア補佐」



 ユリア書記官が、回廊の向こうから歩いてきた。


 彼女の手には、確認済みの札束がある。



「王女殿下側の控え室、準備完了です」


「アルフォンス様側は」


「ヴィクトル監督官が確認中です」


「東方連盟使節団は」


「予定どおり入場済みです。双花冠は、王妃宮保管箱から神殿祝福台へ移しました」


「式前に王女殿下へ渡されることはありませんね」


「ありません」


 ユリアは即答した。



「王妃宮保管、神殿祝福、婚姻成立後に披露。その順で確定しています」


「ありがとうございます」


「念のため、政務局補佐官にも三回説明しました」


「三回」


「三回です」


 表情は変わらない。


 けれど、声にはわずかに疲れがある。


 私は小さく笑った。



「お疲れさまです」


「仕事ですので」


「でも、お疲れさまです」


 ユリアは少しだけ目元を緩めた。



「ありがとうございます」



 その時、王宮政務局の補佐官が早足で近づいてきた。


 先日の会議で、双花冠と誓約文を華やかに見せたいと言っていた人だ。


 今日も、どこか落ち着かない顔をしている。



「アリシア特別補佐官」


「はい」


「東方連盟代表から、式中の祝辞について確認が」


「祝辞は、婚姻成立後、王妃殿下の合図の後です」


「ええ、ただ、代表の出立準備の都合で、可能であれば誓約前に」


「できません」


 私は即答した。


 補佐官が言葉を止める。



「まだ最後まで申し上げておりませんが」


「誓約前に祝辞は入れません」


「しかし、外交上」


「婚姻式の中心は、外交上の祝辞ではありません」


 私は特別配慮表を開いた。


 今回、新しく追加された欄を指す。



「意思負担者は、セレスティア王女殿下とアルフォンス様です」


「はい」


「誓約前に外交祝辞を入れれば、二人の意思確認と誓約の前に、使節団の都合が置かれます」


「それは」


「婚姻式の順序として不適切です」


 補佐官は口を閉じた。


 完全に納得した顔ではない。


 けれど、先日よりは早く引いた。



「では、祝辞は予定どおり婚姻成立後に」


「はい」


「代表には、王家は誓約の順序を非常に重んじると説明してください」


「承知しました」


 補佐官が去っていく。


 私は小さく息を吐いた。


 大きな混乱ではない。


 けれど、こういう小さな変更願いが式の中心へ入り込む。


 だから、最後まで気を抜けない。



「よい対応でした」


 背後から声がして、振り向く。


 ヴィクトル様が立っていた。


 今日の彼は、王家婚姻登録院監督官としての礼装をまとっている。


 深い紺の上着。


 銀の徽章。


 普段より少しだけ儀礼の色が強い。


 それでも、表情はいつも通り静かだった。



「アルフォンス様側は」


「準備完了です」


「ご本人の意思確認は」


「これから最終確認に入ります」


「王女殿下側は、私が」


「お願いします」


 ヴィクトル様は頷いた。



「確認項目は、予定どおりで」


「はい」


「今日は、婚約式ではありません」


「婚姻式です」


「はい」


「だからこそ、当日の意思確認が必要」


「その通りです」


 彼は、ほんの少しだけ目をやわらげた。



「落ち着いていますね」


「緊張しています」


「そうですか」


「でも、怖くはありません」


 そう答えると、ヴィクトル様は静かに頷いた。



「よい状態です」


「評価ですか」


「確認です」


「そうでしたか」


 少しだけ笑ってから、私は王女殿下の控え室へ向かった。




 セレスティア王女殿下は、白銀の婚姻衣装をまとっていた。


 派手すぎない。


 けれど、王女としての品格と、花嫁としての柔らかさがある。


 髪には小さな真珠。


 胸元には、王妃殿下から贈られた青い石の飾り。


 窓から入る光を受けて、静かに輝いている。



 控え室には、王妃殿下とミレーヌ女官長もいた。


 王妃殿下は母として、そして王妃として、王女殿下のそばに立っている。


 その姿を見て、胸の奥が少し温かくなった。


 今日の王女殿下は、政治の駒ではない。


 王家の娘であり、婚姻式に立つ本人だ。



「アリシア特別補佐官」


 王女殿下が、私を見て微笑んだ。



「はい、王女殿下」


「最終確認ですね」


「はい」


「お願いします」


 私は一礼し、確認書を開いた。


 声は、自然と静かになる。



「セレスティア王女殿下。本日、聖アリア神殿において、アルフォンス・アストリア様との婚姻式に出席されます」


「はい」


「この婚姻式へ、あなたご自身の意思で出席されますか」


「はい」


「婚姻の誓約を、ご自身の声で述べる意思がありますか」


「はい」


「本日の式次第、時刻、立会人、神殿誓約、王家婚姻登録院の記録について、ご確認済みですか」


「はい」


「政務上、外交上、家門上の都合ではなく、あなたご本人の意思として、アルフォンス様との婚姻を望みますか」


 王女殿下は、ほんの少しだけ目を伏せた。


 その沈黙に、王妃殿下も何も言わない。


 急かさない。


 答えが分かっている問いでも、本人の言葉として出るまで待つ。


 それが、今の要綱の基本だった。



「望みます」


 王女殿下は、顔を上げて言った。



「私は、王女としてだけではなく、セレスティアとして、アルフォンス様と婚姻します」


 私は、その言葉を記録した。


 王女としてだけではなく。


 セレスティアとして。


 それは、今日の式に必要な言葉だった。



「記録します」


「お願いします」


「最後に、入場時刻について確認します。王女殿下は、入場四半刻前までこちらの控え室でお待ちいただきます。その後、神殿前室へ移動し、アルフォンス様と合流します」


「はい」


「鐘は、お二人が神殿前室にそろわれてから鳴ります」


 王女殿下の目が、少しだけやわらいだ。



「二人そろってから」


「はい」


「よいですね」


 王妃殿下が、静かに言った。



「鐘は、急かすためではなく、そろったことを告げるために鳴るのですから」


 その言葉で、胸の奥が静かに震えた。


 私の婚約式では、鐘は鳴らなかった。


 あの時、彼は来なかった。


 だから、鳴らなかった。


 でも今日の鐘は違う。


 誰かを待ち続けた末に鳴るのではない。


 二人がそろった時刻に鳴る。



「アリシア」


 王妃殿下が私を呼んだ。



「はい」


「あなたがこの手順を整えたこと、感謝します」


「私だけではありません」


「ええ」


 王妃殿下は微笑む。



「でも、あなたがいなければ、ここまで明確にはならなかったでしょう」


 私は一礼した。


 少しだけ目の奥が熱くなったが、今日は泣かなかった。


 泣く場ではない。


 今日は、王女殿下が同じ時刻へ向かう日だ。



 控え室を出ると、ちょうどヴィクトル様が回廊の向こうから戻ってきた。


 彼の手元にも、確認書がある。



「アルフォンス様は」


「確認済みです」


「ご本人の意思は」


「明確でした」


「何と」


 ヴィクトル様は、少しだけ目を伏せた。



「政治にも家門にも意味があることは理解している。ですが、自分はセレスティア様と同じ日に、同じ式へ立つために来た、と」


 胸の奥が、また温かくなる。



「よい言葉ですね」


「はい」


「記録しましたか」


「もちろん」


 その返答に、少しだけ笑ってしまった。


 この人らしい。


 大切な言葉は、きちんと記録する。



 神殿前室への移動時刻が近づく。


 近衛が静かに配置を変える。


 神殿職員が扉を確認する。


 マルタ神官が、誓約書の位置を最終確認する。


 政務局の補佐官は、今度こそ祝辞の順番を動かそうとはしなかった。


 ユリア書記官は、記録台の前でペンを整えている。


 私は、特別配慮表のすべての欄へ最後の印を入れた。



 待機負担者、なし。


 意思負担者、本人二名。


 本人意思確認、完了。


 時刻変更、なし。


 代替手段、不要。


 休止時再開条件、設定済み。


 記録担当、配置済み。



 すべて、整った。


 そしてそれは、誰か一人の我慢で整ったものではない。


 王妃宮、神殿、登録院、近衛、儀礼課、そして本人たち。


 それぞれが、それぞれの役目を持っていた。



 神殿前室に、まずアルフォンス様が入った。


 少し緊張した顔をしている。


 けれど、視線は扉の方へまっすぐ向いていた。


 その少し後、セレスティア王女殿下が王妃殿下に付き添われて入室する。


 王女殿下とアルフォンス様の目が合った。


 アルフォンス様が、静かに一礼する。


 王女殿下も、それに応える。


 言葉はなかった。


 けれど、その一礼だけで十分だった。



 神殿職員が、鐘係へ合図する。


 けれど、まだ鳴らない。


 マルタ神官が二人の立ち位置を確認する。


 ユリアが時刻を記録する。


 ヴィクトル様が、監督官として最終印を入れる。


 私は、少し離れた位置でそれを見ていた。



 二人が、同じ線の上に立つ。


 どちらかが先でも、後でもない。


 同じ時刻に。



 その瞬間、鐘が鳴った。


 一度目。


 神殿全体へ、澄んだ音が広がる。


 二度目。


 白い石壁が、静かに震える。


 三度目。


 婚姻式の始まりを告げる鐘。



 私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 怖くはなかった。


 あの日鳴らなかった鐘を思い出した。


 でも、痛みだけではなかった。


 あの日鳴らなかったから、今この鐘が何を意味するのか、私はよく分かる。


 鐘は、誰かを待たせて鳴るものではない。


 そろった時刻に、鳴るものなのだ。



「鳴りましたね」


 ヴィクトル様が、隣で静かに言った。


 いつの間にか、私の少し横に立っていた。



「はい」


 私は答えた。



「二人そろって」


「はい」


「よい鐘です」


「ええ」


 短い会話。


 けれど、私には十分だった。



 扉が開く。


 セレスティア王女殿下とアルフォンス様が、神殿の中へ進む。


 国王陛下と王妃殿下。


 アストリア公爵家。


 諸侯。


 神殿代表。


 東方連盟使節団。


 全員が見守る中、二人は祭壇の前に立った。



 式は、予定どおりに進んだ。


 神殿長が婚姻の確認を行う。


 まず、アルフォンス様。


 次に、セレスティア王女殿下。


 それぞれが、自分の声で誓約する。


 政務局の祝辞は、まだ入らない。


 花も、冠も、音楽も、誓約の前には出てこない。


 中心にあるのは、本人の声だった。



「セレスティア。あなたは、アルフォンス・アストリアとの婚姻を望みますか」


「はい。望みます」


「アルフォンス・アストリア。あなたは、セレスティア王女との婚姻を望みますか」


「はい。望みます」


 二人の声は、神殿に届いた。


 それから、誓約書への署名。


 神殿長の確認。


 王家婚姻登録院の記録印。


 ヴィクトル様が監督官印を入れる。


 ユリアが時刻を記録する。


 私も、特別補佐官として、本人意思確認済みの欄へ署名した。



 その後、ようやく東方連盟代表から双花冠が披露された。


 婚姻成立後の祝福として。


 王妃宮が保管していた花冠を、神殿長の祝福のもと、二人の前へ運ぶ。


 王女殿下とアルフォンス様は、それを受け取る。


 もう婚姻は成立している。


 だから、それは誓約の代わりではなく、祝福の品だった。



 東方連盟代表は、予定どおり婚姻成立後に祝辞を述べた。


 通訳を通じて、その言葉が広がる。



「王国は、誓いの順序を守る国であると理解しました」


 その言葉に、王妃殿下が静かに微笑む。


 政務局長も、今度は少し誇らしげに頷いていた。


 華やかさだけではない。


 順序を守ることも、外交上の信頼になる。


 それを今日、政務局も理解したのだと思う。



 婚姻式は、最後まで乱れなかった。


 退場の鐘が鳴る。


 今度も、二人がそろって歩き出した時に。


 セレスティア王女殿下、今は王女でありアストリア家へ嫁ぐ女性。


 アルフォンス様、その隣に立つ夫。


 二人は、同じ歩幅で神殿を出ていった。



 式後、王妃宮の確認室で最終記録が行われた。


 私は特別配慮表の完了欄へ印を入れる。


 待機負担なし。


 本人意思確認完了。


 誓約時刻、予定どおり。


 婚姻成立。



 その四行を見て、胸の奥に深い安堵が広がった。


 大きな式だった。


 政治も、外交も、家門も絡んでいた。


 それでも、中心は崩れなかった。


 本人の声が、最後まで中心にあった。



「アリシア特別補佐官」


 セレスティア王女殿下が、確認室へ入ってこられた。


 式後の衣装に少しだけ疲れは見える。


 けれど、表情は晴れていた。



「本日は、おめでとうございます」


 私は一礼した。


 王女殿下は微笑む。



「ありがとう」


「とてもよい式でした」


「ええ」


 王女殿下は、少しだけ目を細めた。



「鐘が鳴った時、私は少し泣きそうになりました」


「王女殿下も、ですか」


「ええ」


 彼女は小さく笑った。



「二人がそろってから鳴る鐘は、よいものですね」


 その言葉に、胸が熱くなる。



「はい」


「あなたにも、いつかそういう鐘が鳴るとよいですね」


 私は一瞬、返事に迷った。


 少し前なら、きっと困っていた。


 でも今は、素直に受け止められる。



「はい」


 私は静かに答えた。



「いつか、自分の意思で選べるなら」


「選びなさい」


 王女殿下は言った。



「王女であっても、選ぶ言葉は必要でした。あなたなら、なおさらです」


「はい」


「それから」


 彼女は少しだけ楽しそうに目を細める。



「ヴィクトル様は、候補日を出しすぎないようになさいましたか」


 私は思わず固まった。


 なぜ王女殿下まで知っているのだろう。


 横でヴィクトル様が、わずかに視線を逸らした。



「……最近は、一回分だけになりました」


「それはよかった」


 王女殿下は満足げに頷いた。



「大切な進歩です」


「王女殿下」


 ヴィクトル様が珍しく少し困った声を出す。


 私はとうとう笑ってしまった。


 王女殿下も、王妃殿下も、ミレーヌ女官長も、どこか楽しそうだった。


 大きな婚姻式の後に、こんな小さなことで笑える。


 それが、ひどく幸せなことのように思えた。



 勤務後、ヴィクトル様は神殿の外回廊まで私を送ってくれた。


 夕方の神殿は、白い石が淡い金色に染まっている。


 今日鳴った鐘の余韻が、まだどこかに残っている気がした。



「アリシア嬢」


「はい」


「今日の所感は」


「鐘が怖くありませんでした」


 私は、すぐにそう答えた。


 ヴィクトル様は静かに聞いている。



「私の婚約式では、鐘は鳴りませんでした」


「はい」


「でも今日、二人がそろって鐘が鳴るのを見て、少し救われた気がします」


「はい」


「あの日鳴らなかったことも、間違いではなかったのだと思えました」


 ヴィクトル様は、少しだけ目を伏せた。



「それは、よかった」


「はい」


「では、今日の鐘は、あなたにも届いたのですね」


「届きました」


 私は神殿の鐘楼を見上げた。


 白い塔。


 その上に、今日の鐘がある。



「ヴィクトル様」


「はい」


「いつか、私も同じ時刻に立つ相手を選びたいです」


 言ってから、胸が熱くなった。


 でも、言えた。


 ヴィクトル様は、私を急かさなかった。


 ただ、静かに立っている。



「その時」


 彼は言った。



「私が候補に入ることを、望んでもよろしいでしょうか」


 まっすぐな言葉だった。


 求婚ではない。


 けれど、確かな意思表示だった。


 私は少しだけ笑った。



「候補日ではなく、候補者ですね」


「はい」


「一人分だけ?」


「はい」


「三人は出さないのですね」


「出しません」


 その真面目な返事が、可笑しくて、嬉しかった。



「では」


 私は、ゆっくり答えた。



「ヴィクトル様には、すでにかなり有力な候補として入っていただいています」


 ヴィクトル様の目が、ほんの少しだけ揺れた。


 それから、彼は静かに息を吐いた。



「光栄です」


「ただし、答えはまだ急ぎません」


「もちろん」


「私の時間で」


「はい」


「一回ずつ」


「はい」


 私たちは、神殿の外回廊で向かい合った。


 夕方の光が、二人の間に落ちている。


 鐘はもう鳴っていない。


 けれど、私はその音をまだ覚えていた。



 今度の鐘は、二人そろって聞く。


 それがどんなに大切なことか、今日の私はよく知っている。



 そして、いつか。


 もし私がもう一度その鐘の下へ立つなら。


 隣にいてほしい人の顔は、もうほとんど決まっている気がした。

読んでいただきありがとうございます。


第三十話では、セレスティア王女殿下とアルフォンス様の婚姻式が、本人の意思を中心にして無事に成立しました。


アリシア自身も、かつて鳴らなかった鐘と向き合い、いつか「同じ時刻に立つ相手」を選びたいと思えるところまで進みました。


第三十一話は明日18:10に投稿予定です。

次回は、ヴィクトルとの関係がさらに明確に進む回になります。


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