第二十九話 大公家の挨拶は、私の意思確認から始まります
レオニス大公家からの正式な挨拶日は、三日後に決まった。
候補日は、きちんと三つあった。
第一候補、三日後の午後二刻。
第二候補、五日後の午前十刻。
第三候補、七日後の午後三刻。
場所は、エルヴェイン公爵家本邸の応接室。
同席予定者は、父、母、私。
レオニス大公家側からは、ヴィクトル様と大公家の家令。
目的は、正式な婚約申し込みではなく、仕事外の交際を前提とした家同士の挨拶。
所要時間は、一刻以内。
帰宅時刻への影響なし。
私はその招待確認書を読んで、少しだけ笑ってしまった。
「本当に、全部書いてありますね」
向かいの席で父が眉を上げる。
「悪いことではない」
「はい」
「むしろ、ここまで書く男なら、少なくとも勝手に押しかけてくることはない」
「お父様」
「前例があるからな」
父の言葉には、はっきりとハーグレイヴ侯爵家への皮肉が混じっていた。
先日、あちらは謝罪訪問の時刻を一方的に置いてきた。
私はそれを断った。
父も、私の時間を再び謝罪のために差し出さないと書いてくれた。
そのあとで届いたレオニス大公家からの候補日三つは、まるで対照的だった。
「第一候補でよいのだな」
「はい」
「登録院の仕事は」
「午前で終えられるよう調整しました」
「調整されたのか」
「私の意思で」
そう答えると、父は少しだけ満足そうに頷いた。
母は隣で、ずっと楽しそうに微笑んでいる。
「お母様」
「何?」
「何かおかしいですか」
「いいえ。嬉しいだけよ」
「嬉しい?」
「あなたが、誰かと会う時刻を自分で選んでいることが」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。
以前の私は、誰かに予定を合わせることを当然だと思っていた。
家の都合。
婚約者の都合。
病弱な誰かの不安。
王都の社交。
それらへ自分の時間を差し出すことに、疑問を持たないようにしていた。
今は違う。
私は候補日を見て、自分で選んだ。
ただそれだけのことが、母には嬉しいのだろう。
「アリシア」
父が低く言った。
「はい」
「当日は、私からいくつか確認する」
「分かっています」
「お前の仕事を尊重するか」
「はい」
「お前の意思を飛ばして家同士で進めないか」
「はい」
「大公家の都合で、お前の勤務や居場所を動かそうとしないか」
「はい」
「それから」
父は一度だけ咳払いをした。
「候補日を三月分まとめて出さないか」
「お父様」
「冗談だ」
「少し本気でしょう」
「少しな」
母がとうとう声を立てずに笑った。
私も笑ってしまった。
こうして家で笑いながら、誰かとの交際の話をできる日が来るとは思っていなかった。
少し前まで、婚約や縁談の話は、もっと苦しいものだったから。
三日後。
エルヴェイン公爵家の応接室は、いつもより少しだけ明るく整えられていた。
母が花を選んだ。
白い薔薇ではない。
淡い黄色の小さな花。
私の正式任用の日に、父と母が贈ってくれた花と同じ色だった。
「白は避けたのですね」
私が言うと、母は何でもないことのように頷いた。
「今日は、婚約式ではないもの」
「はい」
「でも、あなたの時間に関わる大切な日でしょう」
私は花を見た。
白ではない。
けれど、晴れやかだ。
母は、そういうところをよく見てくれている。
午後二刻の少し前、レオニス大公家の馬車が到着した。
早すぎない。
遅れない。
門番から到着報告が入り、父が時計を見て小さく頷いた。
「正確だな」
「そうですね」
「よい」
「お父様、審査が始まっています」
「当然だ」
父は真面目に答えた。
私は少しだけ頬が熱くなりながら、応接室の入口へ向かった。
ヴィクトル様は、濃い紺の訪問礼装をまとっていた。
王家婚姻登録院の銀徽章はつけていない。
今日は仕事ではないからだろう。
けれど、大公家の家紋をあしらった小さな飾りだけが襟元にある。
その隣には、大公家の家令らしき年配の男性が控えていた。
落ち着いた物腰で、深く礼をする。
「エルヴェイン公爵閣下、公爵夫人、アリシア嬢。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
ヴィクトル様が言った。
「候補日を示したのはそちらだ」
父が返す。
声は重いが、失礼ではない。
ただし、少し圧はある。
「その中から、こちらの都合で選ばせていただいた」
「はい」
「なら、時間を取ったのは双方だ」
「その通りです」
ヴィクトル様は、まじめに頷いた。
父は一瞬だけ目を細める。
たぶん、悪くないと思っている顔だった。
応接室へ入ると、まず大公家の家令から正式な挨拶状が差し出された。
レオニス大公家当主の署名入り。
内容は、ヴィクトル・レオニスがアリシア・エルヴェインとの仕事外の交際を望んでいること。
それにあたり、エルヴェイン公爵家へ礼を尽くし、本人の意思確認を最優先とすること。
これは婚約申し込みではなく、正式な交際のための挨拶であること。
今後、婚約その他の話へ進む場合は、必ずアリシア本人の意思確認を経ること。
父は一行ずつ読んだ。
長い。
かなり長い。
ヴィクトル様は黙って待っている。
私は、膝の上で指を重ねながら、その待ち方を見ていた。
急かさない。
不安そうにしない。
ただ、父が読み終えるまで待つ。
そういう待ち方ができる人なのだと、改めて思った。
「文面に問題はない」
父がようやく言った。
「ありがとうございます」
「だが、文面だけならいくらでも整えられる」
「はい」
「ここからは、私が父として確認する」
「承知しております」
父は書状を机へ置いた。
「第一に。あなたは、娘を気の毒な婚約不成立令嬢として見ているのか」
「いいえ」
ヴィクトル様は即答した。
「私は、アリシア嬢を王家婚姻登録院特別補佐官として、また、一人の女性として尊敬しています」
胸の奥が、少しだけ鳴った。
その言葉は、きちんと二つを分けていた。
仕事の評価。
そして、私個人への感情。
「気の毒だから近づいたのではありません」
彼は続けた。
「彼女と過ごす時間を、私が望んでいます」
父は少しだけ目を細めた。
「第二に。娘の仕事をどう考える」
「続けるべきものです」
「仮に、今後あなた方の関係が進んでも?」
「はい」
「大公家へ嫁ぐ可能性が出ても?」
その問いに、私は思わず父を見た。
父は私を見ない。
あくまでヴィクトル様を見ている。
ヴィクトル様も、逃げなかった。
「仮に将来、そのような話へ進むとしても、アリシア嬢の職務を辞することを前提にはしません」
彼は言った。
「王家婚姻登録院特別補佐官としての職務と、大公家の立場に調整が必要な場合は、登録院、王妃宮、エルヴェイン公爵家、レオニス大公家、そしてアリシア嬢本人で協議します」
「娘本人を最後に付けたのはなぜだ」
父の声が少し低くなる。
ヴィクトル様は、表情を変えずに答えた。
「最後に置いたのではありません。すべての協議の中心です」
父の眉が、ほんの少し上がった。
母が静かに茶器を持ち直す。
私は息を止めていたことに気づいた。
「言葉としてはよい」
父が言う。
「では第三に。娘の時間をどう扱う」
「本人の意思確認を経ず、予定を入れません」
「本当に?」
「はい」
そこで私は、少しだけ目を伏せた。
父がその気配を見逃すはずもなかった。
「アリシア」
「はい」
「何かあったな」
「……三月分の茶会候補日をいただいたことがあります」
父の視線が、静かにヴィクトル様へ向く。
応接室の温度が、一度下がった気がした。
ヴィクトル様は、深く頭を下げた。
「その件は、私の過ちです」
「ほう」
「アリシア嬢と過ごす時間を確かな形にしたいと思うあまり、候補日を出しすぎました」
「出しすぎた、で済ませるのか」
「済ませません」
ヴィクトル様は、きっぱり答えた。
「アリシア嬢から、私の時間を勝手に予約しないでください、と叱られました」
母が、茶器を持つ手を止めた。
父も一瞬だけ黙る。
私は頬が熱くなりすぎて、どうしたらいいか分からなかった。
「その後は、一回ごとに候補日を三つまで。前回の約束が終わってから、次を確認する形に改めています」
「再発防止済み、というわけか」
「はい」
「……登録院の人間らしいな」
父の口元が、かすかに動いた。
怒ってはいない。
むしろ少し面白がっている。
助かったのか、恥ずかしいのか、私には分からなかった。
「第四に」
父はさらに続けた。
「娘が嫌だと言った時、あなたはどうする」
「止まります」
「理由を聞かずに?」
「理由を言いたくない場合は、聞きません」
「理由が分からなければ困ることもあるだろう」
「その場合は、理由を聞く許可を求めます」
「それでも嫌だと言われたら?」
「止まります」
父は、しばらくヴィクトル様を見ていた。
そして、低く言った。
「分かった」
その一言で、応接室の空気が少しだけ緩んだ。
母がそこで、ようやく穏やかに口を開いた。
「ヴィクトル様」
「はい、公爵夫人」
「私からも、一つだけ」
「はい」
「アリシアといる時間は、あなたにとって楽しいですか」
父の質問とは少し違う。
とても母らしい問いだった。
ヴィクトル様は、すぐには答えなかった。
少しだけ考えた。
それから、静かに言った。
「楽しい、という言葉に慣れていません」
「はい」
「ですが、アリシア嬢といると、私は仕事以外の時間を持ちたいと思います」
母の目が、少しやわらぐ。
「それは、あなたにとって珍しいことですか」
「かなり」
「そうですか」
母は微笑んだ。
「なら、よいと思います」
「お母様」
「大事なことよ」
母は私を見る。
「一緒にいて楽しいか。楽しい時間を持ちたいか。結局、そこはとても大事なの」
そう言われて、私は少しだけ目を伏せた。
ヴィクトル様と過ごす時間は、楽しい。
そう自分で言ったことがある。
今日も、そう思う。
仕事の確認ばかりの人だけれど。
候補日を三月分出す人だけれど。
それでも、一緒にいると、私は自分の時間を自分のものとして感じられる。
父が、最後に私を見た。
「アリシア」
「はい」
「お前の意思は」
本人意思確認。
今度は、私自身の番だった。
「私は、ヴィクトル様との仕事外の交際を望みます」
私は答えた。
「ただし、今すぐ婚約を決めるつもりはありません」
「はい」
ヴィクトル様が静かに頷く。
「私の仕事は続けます」
「はい」
「私の時間は、一回ずつ私が選びます」
「もちろん」
「それでも」
私は少しだけ息を吸った。
「この方と、もう少し先の時間を考えてみたいです」
言い終えた瞬間、胸の奥が静かに熱くなった。
怖さはある。
けれど、嫌ではない。
むしろ、言えたことが嬉しかった。
父は深く頷いた。
母は、少しだけ涙ぐんでいた。
「なら、エルヴェイン公爵家として、レオニス大公家からの正式挨拶を受ける」
父が告げた。
「ただし、これは婚約承諾ではない」
「承知しております」
ヴィクトル様が答える。
「今後、交際を進める場合も、アリシア本人の意思確認を最優先とする」
「はい」
「大公家からの連絡は、家だけでなく、娘本人にも共有する」
「はい」
「娘の仕事に干渉しない」
「はい」
「候補日は」
父が一度だけ間を置いた。
「三つまでだ」
ヴィクトル様は、非常に真面目な顔で頷いた。
「厳守します」
私は、もう耐えきれずに笑ってしまった。
母も笑う。
父も少しだけ口元を緩めた。
ヴィクトル様は、自分が笑われているのかどうか、少しだけ迷っている顔をした。
その表情がまたおかしくて、私はさらに笑いそうになった。
正式な挨拶は、そこで無事に終わった。
大公家の家令が書面を整え、父が受領印を押す。
母が茶を勧め、場は少しだけ柔らかくなる。
ヴィクトル様は菓子を一つだけ取り、甘さを確認するように少し慎重に食べた。
それを見て、母が私へ小さく目配せする。
私は見なかったことにした。
帰り際、ヴィクトル様は玄関広間で私へ向き直った。
「アリシア嬢」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「私の意思で同席しました」
「はい」
「そして、私の意思で返事をしました」
「はい」
「少し、緊張しました」
「私もです」
「ヴィクトル様も?」
「はい」
彼は真面目に頷いた。
「公爵閣下の確認は、登録院の審査より鋭かったです」
「父に伝えたら喜びそうです」
「では、伝えないでください」
珍しく少し慌てたような返事で、私は笑ってしまった。
「考えておきます」
「候補日を三つ出します」
「それで解決しようとしないでください」
「失礼しました」
私たちは、玄関広間で向かい合って笑った。
大きな笑いではない。
でも、自然だった。
「次は、王宮北庭の散歩ですね」
「はい」
「候補日は、一回分だけ」
「はい」
「仕事に関係のない本、または鳥の話は可」
「婚姻法の注釈書は不可」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「重要事項ですので」
「重要事項なのですね」
「はい」
ヴィクトル様は、少しだけ目をやわらげた。
「あなたとの時間に関わるので」
その一言で、私はまた頬が熱くなった。
この方は、時々こういうことを当然のように言う。
まだ慣れない。
でも、嫌ではない。
「では、次の候補日をお待ちしています」
「はい」
「私の意思で選びます」
「もちろんです」
ヴィクトル様は一礼し、馬車へ向かった。
私はその背を見送った。
隣には、いつの間にか母が立っている。
「よい方ね」
「はい」
「少し変わっているけれど」
「はい」
「でも、あなたの嫌だという言葉を、ちゃんと聞く方ね」
私は頷いた。
「そこが、一番大事だと思います」
母は私の肩にそっと手を置いた。
「ええ。本当に」
レオニス大公家の馬車が門を出ていく。
私はそれを見送りながら、胸の奥に静かなものが広がるのを感じていた。
今日、家同士の挨拶が済んだ。
けれど、私の意思は家の後ろに隠れなかった。
父も母も、ヴィクトル様も、それを中心に置いてくれた。
婚約ではない。
でも、次へ進むための一歩ではある。
そしてその一歩を、私は自分の足で踏み出した。
そのことが、今はとても大切だった。
読んでいただきありがとうございます。
第二十九話では、ヴィクトルがエルヴェイン公爵家を訪問し、アリシア本人の意思を中心に置いた正式な挨拶が行われました。
第三十話は明日18:10に投稿予定です。
次回は、王女殿下の婚姻式本番に向けた最終確認と、アリシア自身の未来の選択がさらに近づきます。
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